第54話『靴』@ 葛◆5fF4aBHyEs 様

上司が家を建てたというので、手土産を持って挨拶に行った
自分の家からはそう遠くない小綺麗な新興住宅地は、未だ分譲中や造成中の物件が多く、あちこちに不動産屋ののぼりがはためいていた。
上司の家を訪れると、「上がっていけ」と勧められる
「君がこの近くに住んでいるとはなあ」
これで酔っぱらった時も送ってもらえるから安心だな。そう言って豪快に笑う上司を、奥さんが軽くたしなめる
豪快な上司とは真反対の儚げな奥さんは、すごく美人だった
二人、息子がいるそうだが、既に大学生と社会人で、どちらも家にはいないそうだ
世間話をしてお茶をいただいた帰り際、玄関で靴を履いていると、靴箱の上に飾られた一足の靴が目に止まった
子供用の小さな靴だ。黒いエナメル質に、イミテーションの宝石がふんだんに散りばめられたピンクのリボン。リボンの真ん中には大きめのガラス玉
「可愛い靴ですね」
ピアノの発表会にでも履いていったら良さそうだ
多分、自分がこんな靴を持っていたら、つんと澄まして大人ぶっていただろうな、と想像が浮かぶ
だが、上司と奥さんはどこか哀しげな笑みを浮かべ、
「……娘の、形見なんです」
悪いことを聞いてしまった。こちらも気まずげに、
「す、すみません」
と言って頭を下げる
……その時、なんでそんな言葉が口をついたのか。今思い出しても解らない
顔を上げた自分は、
「でも、こんなところに置いてたら、盗られちゃいますよ?」
と口走っていた
上司と奥さんは怒ることもなく、「そうですね。気をつけます」と返してくれて、二人に見送られてその家を辞したのだが

青い顔で出勤してきた上司に呼び止められたのは、上司の家を訪れてちょうど1ヶ月が過ぎた頃だった
あの靴が、なくなったのだと言う
……変なことを言ってしまったから疑われてるのかな?
そう思ったが、先読みされたようだ
「僕も妻も、君を疑ってはいない。ただ、警察にも通報してあるけれど、君も何か見たり、噂を聞いたりしたら教えてほしい」
昔住んでいたアパートが火事にあい、娘さんの形見で残っているのはあの靴だけなのだと
そのために、何かあったらすぐ持ち出せるように。でも靴箱の中だと暗くて可哀相だからと、玄関に置いていたのだと上司は教えてくれた

それからしばらくして、スーパーに買い物に出掛けた時に、奥さんとばったり出会った
まだ靴は見つかっていないのだろう。やつれて『儚げ』だった印象は、『今にも消え入りそう』な印象に変わっている
買い物カゴを手に立ち話をしていると、突然「ママ!!」と声が響いた
驚いてそちらを見ると、近所に住むA美と、その娘が立っていた
A美の娘は、奥さんに泣きながら駆け寄った
「ママ助けて!知らないオバチャンに連れて行かれたの!ママのとこに帰りたい!」
すがりついてくるA美の娘に奥さんは戸惑い、自分を含めた他の買い物客は困惑した
その子が『知らないオバチャン』と呼んだ相手は、間違いなくその子の母親であるA美だったからだ

「ママのとこに帰りたいって言ったらあのオバチャン怒るから、黙ってたの!でも、ママがいい!ママのとこがいい!」
わんわん泣く子供と、戸惑いながらもあやすように子供の背中を撫でてやる奥さんと、顔を真っ赤にしたA美と
三人が店員さんに連れられて奥に消えるまで、自分を含めた他のお客さんは呆然と事態を見守るだけで、身動き一つ出来なかった

結論から言うと、靴を盗ったのはA美だったらしい
警察が来たりして色々あったようだが、そこは知らない
A美は、上司宅からだけでなく近所から色々盗っていた(本人曰く、「借りただけ」だそうだが)ため、実刑となったそうだ
靴が奥さんの元に返ると、A美の娘は落ち着いたらしい。奥さんのことを「ママ」と呼んだ時の記憶は残っていないそうだ
奥さんは、「これも縁だから」とちょいちょいA美の娘を世話しているらしい
今もあの靴は、上司宅の玄関に飾られている