落とされ坂 - 夜馬裕

昔の同僚にキョウコさんという方がいるんですが、その方は大変に美人でしかも頭が良く、かつ運動神経も抜群のスポーツマン。
あまりにも出来過ぎているので男性の方から声がかからず、キョウコさんが優しい年下の旦那さんをもらったのはもう三十代も半ばを過ぎた頃でした。

結婚してしばらくして私がお祝いに伺った時、
「ねぇ、あなた怖い話が好きなんだったら、落とされ坂という怪談は知ってる?」

もちろん知る由もなく、「どんな話ですか」と聞いて聴かせていただいた話です。

年下のキョウコさんの旦那さんは大変な田舎の出身で山奥の方なんです。
そちらに帰ると農業に従事している方と林業に従事している方ばかりでしかも親戚が非常に多い。
キョウコさんが初めて故郷に帰省をした時に驚いたそうなんです。

大宴会場に五十人くらいの人が居て、やれ分家だ、やれ本家だといって沢山の人が集まっている。
紹介されても正直人が多すぎて誰だか分からない。

でもそんな中でもみんなに挨拶をしてお酌をしているとすっかりと気分が疲れてしまって旦那さんが優しいので
「キョウコもういいよ、少し休んでなさい」
と声をかけてくれた。

言葉に甘えて宴会場の片隅でのんびりしていると「お姉さん」と言って声をかけてきた赤い服を着た可愛らしい女の子がいたんです。
その女の子は聞いてみると親族の一人ではあるんですが田舎を出て東京の美大に通っているそうです。
女の子は「いつも帰省をすると田舎の人ばかりで嫌だったんだけど、今回は東京からお嫁さんが来たっていうから楽しみにしていたんだ」
都会ぐらしの二人ですからそんな話をするとすっかり意気投合して楽しく話が盛り上がった。

話をしている中で女の子が
「でもこの田舎って本当になんの名産品もなくて有名なのって落とされ坂の怖い話くらいですよね」
って言うんです。

「何その話?」と聞くと、「え、知らないんですか?」と女の子が言うのでなんだか旦那さんに内緒事をされたような気分になって普段怪談やオカルトを絶対聴かないキョウコさんが「ねぇその話聴かせてよ」と女の子に頼んだんです。

女の子が言うにはその家の近くに自転車なんかで15分くらい行ったところに小高い山がある。
大きな山ではないんですがそこに山道があって山道を登って下るとちょうど小一時間くらい。
ぐるっと山を迂回するよりも山道を抜けたほうが近いのでその山を通り抜ける人が多かったそうです。

昔は何もなかったんですが、ここ十年くらいその山を登ると恐ろしいものに出会って山道から落っこちたり崖から飛び降りたりして大怪我をする人間が何人も出てきた。
そこから落とされ坂という名前が付いている。
そんな話を女の子が言うんです。

「恐ろしいものって?」と聞くと

「熊のような大きな影、鬼のようなもの。
 あるいは老人だったり子供だったり。
 人によって出会う恐ろしいものの姿はまちまちで一様ではないんです。
 ただ恐ろしいものに出会って細い山道でそこから崖の方に落ちて大怪我をしたり場合によっては亡くなった方もいる」
という話を女の子がしたんです。

それを聴いたキョウコさんは
「姿が一定じゃないのが作り話の証拠じゃない。
 同じ形じゃないものに出会うなんてないよ」
と笑っていたら女の子がムキになって

「そんなことはないです。
 地元では有名ですもの。
 私の友達も山道を登って大怪我をしたことがあるんです」
と言い出した。

そのお友達という方は普段怪我が多い山道なので通り抜ける予定はなかったんですがたまたまその日は急いでいた。
通るのは嫌だなぁと思いながらも山道を抜けていくと怖い噂話が頭をよぎって折しも夕暮れ時で西日が強く差してくる。
そんな山道ですから段々と心細くなってきた。
早足で山を抜けようと登っていくと目の前にリュックを背負った男性の後ろ姿が見えた。

(良かった、人が居たんだ)

そう思ってリュックの男性の後ろ姿を追いかけていく。
男性に追いついて少し話でもして山を登り終えたら怖くないんじゃないかと思ったので追いつこうとするんですが、男性は走っている風情でもないのでその後姿に追いつくことができない。
あれ?と思った。

ずっと一定の距離を保ったまま男の人の後ろ姿は滑るように進んでいく。
彼女は足を早めて小走りになるんですが男性の後ろ姿に追いつけない。
気味が悪くなってピタッと止まったら滑るように進んでいた男性の後ろ姿もピタっと止まったんです。
あれ?と思った。

男性のことを目を凝らして見てみるとこれはこの世のものではないと思ったそうなんです。
というのも目の前から強く西日が差してきて自分の影が黒く長く伸びている。
でも男性の足元には影がないんです。
いくら目を凝らしても影がないので(あ、これは生きている人ではないんだ)と気がついた。

そう思ったら怖くなったのでやっぱりやめよう、この山を通り抜けないでもう一回引き返そうと思って後ろにくるっと振り向いたら、振り向いた先に全く同じリュックを背負った男性の後ろ姿があるんです。
坂の上にも坂の下の方にもどちらも同じリュックの後ろ姿の男性が同じ距離の感覚で立っている。
ものすごく怖い上にどうしていいか分からず戸惑っているとその後姿がザクザクザクと後ろを向いたまま一歩ずつ一歩ずつ間を詰めてくるんです。

(どうしよう、怖い。
 どんどん近づいてくる。
 どうしよう、どうしよう)

でも細い山道です。
横は切り立った崖のようになっている。
こんなところは飛び降りることは出来ない。
大怪我をしてしまう。

怖いどうしよう、逃げ場がないと思っているんですがどんどんと後ろ姿は近づいて、

ザクザクザク

もうすぐそこまで来ている。

あと一歩の距離というところで後ろ姿に挟まれた。
そこまで来て後ろ姿はピタッと止まるんですが、間で彼女が震えているとそのうち止まった二人の後ろ姿が、ゆっくりとこちらを向き始めた。

こっちを向こうとしているのを見て

(大変だ、こちらを向かれてその間に挟まっていたら本当に恐ろしいことが起きてしまう。
 逃げ出さなきゃ)
と思って振り向きかけている二人の間、その友達は意を決して崖の方にポンと飛び出したそうです。

切り立った崖ですから文字通り転げ落ちるようにして下に落ちていったそうですが全身擦り傷だらけ、打撲、小さな骨折もしたそうです。
結構な怪我をしながら逃げて山を降りたそうです。

「っていう話があるのよ」
と美大生の女の子は話して、
「ね、これ私の友だちの話。
 これで信じてくれた?」
と言うんですがキョウコさんは

「でもそれってありふれた話だよね。
 結局みんな怪我をしたこと、山道を足を滑らしたことの言い訳にその話を使っているんじゃないの」

美大生の女の子は「そんなことないもん、本当に有名な話なんだもん」と言うのと、キョウコさんの「でもそんなの信じれないよ」という間でちょっとした言い争いじみたやりとりがあった。
では実際にその現場に行ってみようという話になった。

旦那さんには「ちょっと表を散歩してくる」と行ってキョウコさんは自転車を借りて、二人はその落とされ坂というその小さな小高い山の方に行く。
本当に十五分くらいすると現地に着くんです。
山の入口に着いたら看板が立っていて「立入禁止 危険です」と書いてある。

あぁやっぱり怪我をする人がたくさんいるんだ。
細い山道が続いていて夕暮れ時、もう少し日が落ちてきていますし冷たい風が山の方から吹いてくると大変雰囲気もある。

(あぁちょっと怖い気がするなぁ。よし、ちょっと登ってみよう)
と思って女の子に声をかけると

「いや無理です、この先には絶対行っちゃだめ」
と怖がっているんです。

キョウコさんはここまで来てメソメソしている女の子の姿を見て少々イライラしてしまって
「じゃあいいよ、ここで待っていなよ。
 私は一人で登るから」
と言って女の子を置いて山道を登り始めた。

女の子は後ろから
「気をつけてくださいね、ここ必ず登道で怖いものに会いますから。
 登っている最中に怪我をしますよ。
 だから登っている間は本当に気をつけて」
と声をかけてくれる。

キョウコさんは「分かった分かった」と言って山道を登っていく。
確かに細い道なんです。
舗装されているわけでもないですから歩きづらい。

柵のようなものをところどころあるんですが、膝丈くらいしか無く、思いっきり体制を崩したら横に落ちてしまいそうだ。
(これじゃあ怪我をする人もたくさんいるよね)
そう思ったそうです。

しばらく山道を登っていくと少し開けた場所に出た。
開けた場所から見ると山の上から田園風景が見える。
綺麗だなと思って夕暮れ時のその景色を見てふと目を下にやると山の入ってきた入り口が見える。
女の子が立っているのが見える。

なので「おーい」と手を振ると、気がついた女の子も下の方から「大丈夫ですか?」と手を降ってくる。
そんなやりとりをして「じゃあ私そろそろ帰るね」って女の子に声をかけて来た道を引き返そうとしたら下から女の子が

「危ない、気をつけて!」
と思いっきり大きな声で叫んだんです。

え?と驚いたキョウコさん。
急に山道の上の方から

ザクザクザクザク

走り下りてくる足音がする。
その音と一緒に髪を振り乱した中年の女性。
ものすごい怒りの形相で山から駆け下りてくるんです。
流石にその姿を見たキョウコさん、ビックリしてしまって女性が走り下りてくるのに合わせてその場に体制を崩して尻餅をついてしまった。
柵が短いですから本当にあわやと転んで崖の下に落ちてしまうんじゃないかという転び方をしたんですが、必死に柵を掴んで体制を整え腰を抜かしている間に女性がどんどんと近づいてくる。

そして震えるキョウコさんの肩をガッと掴んで
「あんた何やってるの!」
と思いっきり叫ばれた。

女性の顔を見ると怒ってはいるんですが、心配をしているような、そんな表情もある。
それを見て(あ、これは人間なんだ)と思ったし自分のことを心配されていると思ったので
「すみません、入ってはいけないことは分かっていたのですが」と事情を軽く説明するとその女性はどうやらこの山の持ち主のようで

「あたしは自分の山を持っているんだけどもあなたのように勝手に入ってくるような人間がいっぱいいるから時々こうやって山を見回っているんだ。
 この山も本当に落ちて怪我をする人がたくさんいるから気をつけてほしい」
そう言われたんです。

「分かりました、ごめんなさい勝手に入ってしまって」

落とされ坂と言われているちょっとした怪談話を確かめたくて入ったんだと言ったら驚いたことにその山の持ち主の女性は

「その話は本当よ。
 この山には恐ろしいものが出るから、だからもうすぐに帰りなさい」
と言う。

「分かりましたごめんなさい」と言って帰ろうとして立ち上がったところで「ねぇあなたあれ何?」と女性が下を指差すんです。
つられてキョウコさんも山の入口の方を見渡すとそこで美大生の女の子がうつむいたまま体を大きく震わせているんです。
あれどうしたんだろうと思ったんですがそれをしばらく見ていて気づいたんです。

体が震えるほど大きな声で笑っているんです。
体を震わせながらゲラゲラゲラ、ゲラゲラゲラとどんどんと声が大きくなっていく。
そして笑いながら

「お姉さん、待っててくださいね。
 今からそっちに行きまーす」

と言ってあんなに怖がっていたのが嘘のように山道の入り口からザクザクザクと走って登ってくる音がした。
中年の女性は
「あんた一体何を連れてきたの?
 あれはすごく良くないものよ。
 悪いけど私は逃げるから」

ダダダダダダっと坂道を駆け上がってしまう。
あっけにとられたキョウコさんですが「待ってください」と後を追いかける。
女性は立ち止まる気配もなく
「あんたが連れてきたものなんだから」
と走って逃げていく。

置いていかれたら困るので女性の後を追いかけるんですが麓の下の方からは
「お姉さん待ってください、今行きますよ」
と言う女の子の叫び声とゲラゲラゲラと笑っている声が下からやってくるんです。

キョウコさんは怖くなって女性の後をついて山道を登っていく。
何度も何度も足を滑らしそうになるんですがキョウコさんは運動神経がすごく良いのと何より普段から運動靴を履いていたのがよかったんでしょう。
転びそうになりながらも何とか体制を立て直して女性の後を走って登っていく。
やがてしばらくすると傾斜が平らになっていって下り坂に変わっていった。

下り坂になると走っていた女性がゆっくりの歩調になって
「もう大丈夫よ、下り坂だから。
 この山ではね、恐ろしいものは上り坂にしか出ないから」
と言うんです。

キョウコさんは良かったと思って女性と下り坂を降りていると、しばらくすると後ろからザクザクザクという足音とともに
「お姉さん待っててくださいもう追いつきますから」
という女の子の声が聴こえてくるんです。

途端に中年の女性は悲鳴を上げて
「あんた下り坂にまで出るなんて、一体何を連れてきたの」
と言ってまたザクザクザクと走って山道を駆け下りていくんです。

「待ってください」とまたキョウコさんは後ろを追うんですが、今度は下り道です。
足元が悪い中ですから登道よりも何度も何度も足を滑らしそうになって、実際何度かは転んだり手をついたりあわや崖に落ちそうな思いをしながら女性の後を必死に追いかけていった。
後ろからはずっと女の子の「待ってください」と言う声と笑い声が聴こえてきて生きた心地がしないまま山道を下っていったそうです。

そうこうしてやっと山道を下り終えて中年の女性から
「もう大丈夫、これでもう山を降りきったから。
 全部終わりよ」
と言われた。

その頃には転んだり転びかけたりでもう手足は擦りむいていて小さな怪我をいっぱいした状態でキョウコさんは
(そうか、良かった。
 やっとこれで下山できたんだ)

「もう追いかけてこないんですか?」と聞いたら
「山を降りたら大丈夫」と女性は言って「いいからもう帰りなさい。二度とこの山には来ないで」と言われた。

もちろん山を引き返すことなんて出来ませんからぐるっと山を迂回して恐る恐る自転車を置きっぱなしにした山の入口まで近づいた。
大丈夫なことを確認して自転車に乗って家まで帰った。

もう夜も更けています。
旦那さんはものすごく心配して待っていて
「おいお前何処に行ってたんだ?」
ヘトヘトになったキョウコさんは何も言い訳をすることが出来ず、今まで起きてきたことを素直に旦那さんに話したんです。

怖い話やオカルトなんかが嫌いな旦那さんですから話の途中に怒られると思ったんですが、意外にも旦那さんは一言も口を挟まず、ウンウンと相づちを打ちながら聴いて全部話し終えたキョウコさんにこう言ったそうです。

「確かに落とされ坂と呼ばれている場所はある。
 キョウコが聴いた地元の話というのは本当だ。
 僕は半信半疑だけどね。

 ただ僕が知っている話とキョウコが知っている話ではいくつか違うところがある。

 まず僕の親戚に東京に行った美大生の女の子なんていない。
 ただ何年か前にあの山の見晴らしのいい場所で東京から来た美大生の女の子がスケッチをしていて、理由は分からないけどもそこから転げ落ちて結局亡くなってしまったそうなんだよ。
 崖から落ちたから全身血まみれで、以来そこには赤い服を来たその女の子の霊が出るという噂はある。

 あとあの山は誰のものでもない。
 というか行政が管理している山なんだ。
 だから山の地主の女の人っていうのはいないんだよ。

 君が話した年格好背格好はこの地元には居ない人だと思う。
 僕には全然心当たりがない。
 だから君が話しているその美大生の女の子と山の地主の女の人、それは一体誰なんだろうね。

 あとね、あの山を登っている時に恐ろしいものに出会って怪我をするって言われたんだろう?
 実はあの山、怪我をするのは必ず下り坂なんだ。
 登道では怪我なんかしない。
 恐ろしいものに会って大怪我をするのは必ず下り道なんだよ。
 そこが違っているね」
と言われた。

「それとね、出会うもの、恐ろしいもの、色々な姿のものに会うのは本当なんだけどもただどの話にも一個だけ共通していることがあるんだ。
 それは必ず恐ろしいものは二つ一組で出てくるんだよ」

この話を終えた後に旦那さんは「もうあの山には近づかないでね」と言って何か聴きたそうなキョウコさんは
「もういいから、田舎のこういう話なんてとにかくこういうものだと思わないと。
 理由なんか僕に聞かないでくれ。
 もうこの話は終わりにしよう」
と言われたそうです。

以来キョウコさんはなんだか旦那さんの故郷に一緒に帰省するのが怖くなって、二度と一緒に帰っていないそうです。
そんな落とされ坂と呼ばれる場所の話を聴かされました。

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