昏の家 - 城谷歩
ヒロシさんという五十代のある男性がご自身の大変珍しい体験を教えてくれました。
「第一発見者になっちゃったんです」
「え、ヒロシさんが?」
「えぇ、でもそういうことがあるから変に悲しい気持ちを引きずらずにいられるって言うと言い過ぎかな。
まぁでもそれくらいの出来事でしたよ」
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ヒロシさんがある時期に通い詰めていた行きつけのバーでお一人で静かにお酒を楽しんでいらした。
気がつくとカウンターの端にやはりこれまたお一人で三十代後半あるいは今四十代に乗ったかなという女性が一人グラスを傾けていらっしゃる。
目の端にフイと見ただけなんですが店の暗さも相まってか何処か色変が匂うと言いましょうか、キレイな方だなぁという印象でした。
思わずそちらに目線を定めておりますとあちらもコチラの視線に気がついたのかフイとこちらを向いた。
お互いにパチっと目が合います。
若い者同士とお互い気恥ずかしくなって目をそらすようなものですが、そこは大人の男女ですから。
「こんばんは」
「こんばんは」
挨拶を交わしたのをきっかけに二人の距離は急速に縮まりまして。
聞けば相手は善美さんと言ってバツイチ。
お子さんはいらっしゃらないそうで今はお独りだという。
「かく言う俺も独りだったんですけどね。
いやいや、以前は結婚もしてましたけどね」
独り身で楽しんでいたというと聞こえが良いのかな、でもそんな感じですよ。
そんな時期に知り合ったんです」
お互いの境遇も似ていました。
なんせきれいだなと思ったところから挨拶を交わしていますから、じゃあまたここで飲みましょうよなんていう会話をして、そこからはいよいよ男女の関係に発展してまいりますがお互いが前提にしているのが結婚をしないということであります。
それぞれに一回失敗しておりますし、結婚というのが大変というのは勿論、別れるというのが一苦労というのも身にしみてわかっておりますから。
お互いの事情に干渉せず、約束してデートを重ねる。
ここのところだけは楽しくやろうじゃないかという。
ですがこうなると男のほうが脆弱でして。
日を重ねるごと、デートを重ねるごとに
(もっと一緒に居たい、
もっと一緒に色々なものを見てみたい、たまに会って美味しいものを食べるだけじゃ飽き足らないな。
いやーでも最初に約束を交わしているしな。
一緒になろうというのもおかしいものだし)
と思っておりますと、
「ねぇ今度ウチにくる?」
「え?」
「ウチにくる?」
意外な申し出です。
ウチに来る?という質問の後ろには一緒に暮らすという気持ちが見え隠れしていて、あぁ何だ、俺だけじゃなかったかと思った。
「うんそうだね、じゃあお邪魔しようかな」
「うん、ほらこの前話したじゃない?
うちはこの間両親が死んで私もそこに帰ってるんだけども一軒家だしさ。
寂しくって」
「あぁそうなんだ」
「まぁいいんじゃないのたまには家でゆっくりするというのも」
「そうか、楽しみだな。
住所はどこ?」
ということでヨシミさんから住所を預かって約束の日曜日です。
平気だよなんて顔を装いながら内心はワクワクして遠足前の子供のような気持ちになって住所を頼りにこのへんかなとウロウロと家を探していく。
確かに書かれている住所のあたりに来ているんですがそれらしいというお宅が見当たりません。
(おかしいよな、確かに番地はこのへんなんだよな)
何度か行ったり来たりしていたんですが細い路地が裏に抜けてどうやら抜けた先にもお宅が建っているようで。
(あれ、まだ奥に家があるんだ)
路地を入っていきますとうなぎの寝床と言いましょうか、幅の狭いところに同じような長屋造りではないですけども玄関が2つずつくらい並んでいる。
正面を見ますと二階建ての幅が狭いところに間口がいっぱいというような家が建っている。
表札を見るとヨシミさんのお住まいであります。
(あぁここか。
随分入り込んだ場所にあるんだな)
気になったのはこのヨシミさんの二階家だけ。
どんよりと影を帯びて見えたこと。
もう一つは玄関の庇にある二階のお部屋の窓でしょうか。
薄いカーテンが敷いてありますがそこに誰かが居て自分を見落としているような気がしたんだそうです。
その自分を見下ろしているものに心を囚われておりますと、ガラガラガラと玄関の扉が開いた。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
「え、どうしたの?」
「いやいや、ちょっと迷っちゃって」
「ごめんね分かりづらいよね。
どうぞ」
「お邪魔します」
中に上がると暗い。
外から見ていたよりもなおも暗い。
真っ直ぐと廊下が延びている。
建物の古さはというと築四五十年という古い建物という。
奥まったところにあるから暗いのだろうとそう自分に言い聞かせてみますがなんせ表はピーカンに晴れた日でありまして。
それにしても暗いなぁと思った。
「私の部屋、上だから」
「ん?」
「どうぞ」
と、トトトトト…と廊下を進んで奥へ案内される。
奥にある階段へ向かう途中にリビングへ入るであろうと思われる扉がありますが、そこへは一瞥もくれず、風呂場の脇のところにあります簾のかかった階段の入り口を、トントントンとよしみさんは何の躊躇いもなく上がっていく。
(妙だな、なんでリビングに通してくれないんだろう)
言ったとおりご両親が亡くなった後に戻ってきて独りで暮らしているお宅です。
大抵一軒家に遊びに行きますとリビングにどうぞと通されますよね。
「私の部屋は上だから」と二階に通されてしまった。
まぁいいかと黙ってついていきますと二階に上がって更に突き当りまで行く。
ガチャッとヨシミさんが扉を開けるとそこに六畳間が現れる。
至って普通の洋間ではありますが汚い。
言うとなんですが、想像以上で。
表で会っている時はキレイな人なんですよ、化粧も品があるし服装もこざっぱりとしていて。
だから勝手な想像なんですが一軒家だといいますしキレイなお宅を想像していたんです。
ところがそうじゃない。
窓があってカーテンが敷いてある。
薄手で遮光ではありませんから表の明かりが入ってきている。
どうやらこの窓というのが玄関の庇の上にあった窓です。
部屋の中はと言いますと壁から少し離れたところにシングルベッドが置いてあって化粧台があって洋服箪笥があって。
洋服箪笥の後ろに古い襖が見えたと言います。
足元にはいつ食べたか分からないカップラーメンの空だとかコンビニで買ったであろう食べ物のプラスチックの空が何かをこびりつかせたまま転がっておりますし、いつ脱いだか分からないお洋服が山になっている。
俗に言うゴミ屋敷と言いますか汚部屋と言いますか。
「ごめんね散らかってて。
座る場所ないでしょ、ベッドをどうぞ。
どうする、コーヒーがいい?お茶がいい?」
「じゃあコーヒーがいいかな」
「うん分かった、じゃあ待ってて」
ヨシミさんが下に降りていく。
ベッドに座りながらヒロシさんは落ち着かない。
それもそのはずで、狭い六条間には大小様々な七枚の鏡が置かれていたと言います。
(なんだコレ、あちこちに鏡があるな)
落ち着かないわけです。
ちょうどベッドに座りますとどの鏡にも自分の姿が映る。
場合によって鏡と鏡が合わせ鏡のようになってまたそこに自分が映る。
何処から見ても自分が見つめられているような、自分といえど四方をぐるりと囲まれていますから、見つめられる視線というのはどうも落ち着かない気持ちになる。
(変だな、なんでこんなに鏡があるんだろう)
バタン。
乱暴に開けられた扉の向こうにトレーにコーヒーを淹れたヨシミさんがぽつんと立っている。
「あぁびっくりした、どうしたの?」
「いやどうしたのって、お前こそどうしたんだよ」
「え、私何もしてないけど」
「いやお前バンって扉開けたじゃないか」
おまたせって言いながらソーサーごと渡してくれたコーヒーカップですがよほど慌てていたのかソーサーの中にコーヒーが溢れている。
なにか隠しているんじゃないかなとその時ヒロシさんは思いまして、聞いてみた。
「あのさ、この鏡何?」
「あぁこれ?」
「うん、何?」
「見張り?」
「え、見張り?」
「普段は何ともないんだけどさ、ちょっと気が緩んだり夜なんか多いかな。
入ってこようとするからさ」
「え、入ってくるって誰が?」
「両親だと思うの」
「いやだってご両親は亡くなっているんでしょ」
「うんでもまだ住んでいると思うんだよね。
ハッキリとは見ていないけど段々と近づいてきているんだよね。
両親とは思うんだけどハッキリとは姿が見えないし、ちょっと気持ちが悪いっていうかさ、だから見張り。
これだけあれば分かるでしょ、入ってくる前に。
ねぇ?」
「あ、あぁ・・・そうなんだ」
「うん、それにね。
鏡って魔除けになるんだって。
だから入ってこれないと思うしさ。
でもそれでも気になる時はさ、ほらそこ。
そのベッドと壁の隙間のところがあるじゃない?
そこに入っているんだ。
そこに隠れて顔だけだして見ているんだ。
ううん、入ってくるほうじゃないよ、鏡を見てるの。
鏡を見てたら入ってくるのが分かるじゃない?」
流石にちょっと大丈夫かなって思ったんです。
ちょっとまずいと思ったんですが、恋は盲目と言うでしょう?
なんかそういう存在が見える人なんだろうなと。
それでも鏡に囲まれて良い気はしなかったから本当に彼女が言うことが本当なのかこういうの初めてだったんですけど、「鏡 心霊」で調べてみたんです。
調べてみたら違うんですね。
本人は魔除けだって言っているんですけどもでも俺が調べてみるとそうではないんですよ。
向こうとこちらの出入り口になっているとか、なんかかえって良くないってことが書いてあるんですよ。
古い鏡は鏡面に布をかけて見えないようにするだとか、そういうことばかり書いてあるんでね。
何回か遊びに行っているうちに本人にそれを言ったんですよ。
「ヨシミさん、俺調べてみたんだけど」
「何を?」
「鏡のことなんだけど」
「うん」
「あれお前魔除けだって言ってたけどさ、鏡面むき出しにしているの駄目みたいだぞ」
「え、そうなの?」
「うんなんか調べるとかえって良くないんだって。
逆に呼び込んでしまうらしいよ。
だから上に布かなんか被せておいてさ、なるべく普段使わないんだったら鏡面使わないほうがいいよ。
なんかお前近づいてくるって言うけどさ、逆にこれが原因なんじゃないの?」
「え、そうなんだ。
私言われるがままに鏡を揃えられるだけ揃えてたけど」
「まぁさ、捨てろとまでは言わないけどさ」
「うん分かった、じゃあそうする」
とその日はそんな会話で終わったわけです。
二三日経って再びヨシミさんの家を訪れた。
この日は初めてこの家を訪れたようにどよんと暗い。
重々しい空気を感じながら呼び鈴を押してみる。
返答がない。
(トイレでも入っているのかな)
カタン、カラカラカラ。
扉が開く。
もうだいぶ遊びに来ていますから、勝手を知っておりますし鍵を開けて待っててくれたんだと思った。
どのみちヨシミさんは独りで住んでいるわけですし、「お邪魔します」とひと声かけて中に入っていく。
毎回通されるのは彼女の二階のお部屋ですからこの日も真っ直ぐと廊下を進んで迷いなく二階に上がる。
ギィギィと音を立てながら廊下を進んで一番奥の彼女の部屋。
ガチャっと扉を開け、(何だよ、やっぱり居ねえな、まぁいいか)と部屋の中を進んでベッドに腰を下ろす。
七枚の鏡には真っ黒な布が被せてあるんです。
真っ黒い布、それも切りっぱなしの。
前にアドバイスしたとおり布をかぶせたんだろうなと思ったんだけども(それにしてもわざわざ黒い布を選ぶなかなぁ)なんて思いながら、ちょっと異様な景色です。
(だけど遅いな。
便所にしては長いよな。
表に出てるのかな)
「うわっ」
びっくりした。
窓の方をひょいと振り返ってみるとヨシミさんが壁とベッドの隙間に膝を抱えて座り込んでいた。
「うわ何だよお前、勘弁しろよ。
俺声出しちゃったよ、まだドキドキするよ。
・・・あれ、ヨシミ?
ヨシミ?」
顔は確かにコチラを向いているけどもヒロシさんを見ているわけではない。
虚ろに瞬きもせずこの部屋のドアを向いたまま。
「ヨシミ、お前気持ち悪いって」
と、ヨシミさんの肩に触れるとそのままヨシミさんはコトっと倒れ込んだ。
もう息をしていなかったんです。
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「え、死んでた?」
「はい、ちょっとパニックになりましたけどすぐに110番をして。
そしたら色々なことを聞かれるんですよね。
ヨシミのこととか、関係性とか。
でも何も隠し立てすることはないからこれこれ云々と話して。
そしたら救急車の手配をして直ぐに警察も行くから、あなたはそこで待っていてくださいって言うんです。
まぁ私は第一発見者ですから、分かりましたと返事をして来るのを待っていたんですがね」
待っている間というのはもう既に息のないヨシミさんの亡骸と黒い布を被せた鏡ばかりでじっと待っているんですが、さっきよりもずっとうんと長く感じる。
まんじりともしない時間の中でヒロシさんはフッと気になった。
それは鏡でございます。
(なんで黒い布を被せたんだろう?
何かに見られてるって言ってたよな)
なんの気無しに立って行って、鏡にかぶせている布を一枚捲ってみた。
鏡の下の方にヨシミさんが使っていた口紅で、フッと直線が書かれている。
(なんだこれ)
もう一方の方の鏡にかかった布を捲ってみる。
やはりそこにも口紅で線が描かれている。
二枚目を捲った頃から嫌な予感がする。
三枚目を捲って四枚目を捲って、段々と線が大きくなっていくんです。
段々と形になっていくんです。
で、一番最後のヨシミの目線の先にあった大きな姿見にかかった布を下から捲くりあげた時、すぐに布を元に戻した。
だってその鏡に赤い口紅で描かれた線は誰が見ても子供と思しき輪郭を象ったものだったんです。
その線はまるで手を突き出して大きく伸び上がったソレを象った輪郭を描いたものだった。
「言っていたとおりなんでしょう。
半分は信じていたけども、半分は精神が不安定になっていたからなのかなと思っていました。
でもやっぱり見られていたんでしょうね。
あとになって考えてみると、初めてあいつの家を訪ねた時、二階から俺も視線を感じているんですよね。
ヨシミは自分の亡くなったご両親がまだ住んでいると言っていたけども両親ではないんでしょう。
それほど日を置かずに亡くなったご両親もそれにつられて逝かれたんじゃないかって。
あの日ヨシミは近づいてくる何かが映って、それを一生懸命口紅でなぞっていたのかなと思うと一体どういう気持ちだったのか。
まぁ死人に口なしですから実際あいつが死ぬ間際に身を隠しながら何を見ていたのか。
それは確かめようがないんですけども。
でも間違いなく何かが居たんです」
以来ヒロシさんは少し気になる場所や、あぁこの人大丈夫かなと思う人を目にしますとフッと辺りが暗く感じられるそうです。
一体何故光の加減がそのように暗く感じるのか。
それは明確な理由としては何も分からないそうなんですが、ただそういうことにメッセージが込められているような気がしてならないとそんな風にお話をしてくれました。