滝廉太郎に仕掛けられた陰謀 - オリエンタルラジオ中田敦彦
まず一枚の写真をご覧いただければと思います。 これは中学時代の僕です。 当時僕はとてもガリ勉でして、付いたあだ名が滝廉太郎です。 僕の中で滝廉太郎というのは辛い過去ではあったんですけども、今回真剣に調べてみました。 滝廉太郎の代表曲というと、荒城の月。 滝廉太郎というとその荒城の月を作った作曲家というのが皆さんの認識だと思います。 でも実はもっとメジャーな曲を作っているんです。 例えば、鳩ポッポ。 あと、雪やコンコン。 そういうすごくメジャーな童謡を作っているにも関わらず、有名な鳩ポッポや雪やコンコンを作った作曲家が滝廉太郎だということを何故誰も知らないのか。 これには理由があるんです。 鳩ポッポというのは「ポッポッポ 鳩ポッポ 豆が欲しいか そらやるぞ」という曲ですよね。 1901年に滝廉太郎が作った鳩ポッポ。 これをまず聴いていただきましょう。 「雪やコンコン あられやコンコン」も皆さん口ずさめますよね。 1901年に滝廉太郎が作った雪やコンコンはこれです。 全然皆さんが知っている曲と違うんです。 じゃあタイトルが似ている違う曲かと思うかもしれませんが、そうでもなさそうなんです。 比較してみたいと思います。 見比べてみると、とても似ていると思いませんか。 私達がいつも口ずさんでいるポッポッポから始まる鳩ポッポは、本当はタイトルは鳩ポッポではないんです。 ただの鳩なんです。 雪やコンコンも似たような感じなんです。 左が雪やコンコン、右が雪。 ただ曲の初めを見るとどちらもほとんど一緒ですよね。 左の滝廉太郎作曲のほうが1901年。 右の雪という曲が作られたのは1911年です。 なんと10年後に歌詞とメロディーを変えて曲が作りなおされているんです。 滝廉太郎は「ふざけるな、これは俺の曲じゃないか」となるじゃないですか。 でもそうはならなかった。 いや、なれなかった。 滝廉太郎は書き換えられた数年前に23歳の若さで死んでいるんです。 作曲家が今どうなっているか見てみましょう。 左は東くめという方と滝廉太郎が二人で作った曲です。 それが10年後に書き換えられた時には作詞作曲ともに不明とされているんです。 何故なのでしょうか。 そして滝廉太郎は何故死んだのでしょうか。 これはそもそもなんですけども国が子どもたちのために曲を作ろうという動きがある時にあったんです。 それで文部省のえらい人達が一生懸命に子どもたちの為の曲を考えていたんです。 ただその作った曲がどうしても堅苦しくて何だかちょっとしっくりとこなかった。 これがその文部省の作った曲です。 これを幼稚園児たちに歌わせようとしていたんですよ。 これは子どもたちにしたらピンときませんよね。 こんなお偉いさんたちが作った曲を子どもたちは受け付けなかったんですよ。 そんな時に現れたのが若き天才作曲家、滝廉太郎。 彼の作るポップな曲がどんどんと評判を呼んでいくんです。 そこで面子を潰されたのは文部省なんです。 私達が作った曲よりもあんな若造が作った曲のほうが流行っているじゃないかとそう思ったかは分かりませんが、 国は滝廉太郎を単身ドイツに留学させるんです。 国が留学しろと言って留学させたんです。 滝廉太郎は留学先のドイツで、ドイツに行ってたった四ヶ月でその当時不治の病とされた結核にかかります。 そして数年後その不治の病、結核を原因として亡くなってしまいます。 そして滝廉太郎の残した楽譜は結核菌が付いているかもしれないという理由から燃やされます。 さぁ、滝廉太郎がドイツに行ったのは文部省が本当に追いだそうとしたからなのか。 追い出した先で滝廉太郎が結核になったということさえも文部省の仕業なのか。 それを確かめるすべはもうありません。 ただ滝廉太郎は我々にメッセージを残していたんです。 滝廉太郎が死ぬ間際の最後の作品、聴いていただきたいと思います。 それまで滝廉太郎が作っていたポップな曲とは全く違う非常に悲しい歌。 この歌に歌詞はありません。 タイトルだけがあります。 そのタイトルはこちら。 りっしんべんに感じるの感。 読めませんよね。 これの読み方は「うらみ」です。 信じるか信じないかはあなた次第です。