湖の運動靴

周囲を深い緑に囲まれたこの小さな湖は、澄んだ水を湛えている。
その美しさとは裏腹に、神秘の魔力に誘われるようにして自殺者がやってくる。
知る人ぞ知る自殺の名所になっている。

湖の真ん中のあたりは底なしに深くて、
一度地中に染み込んだ雪解け水が再び湖底から湧き出ていて、
水温はかなり低い。

一度沈んだ死体が浮かび上がる事は、ほとんどないそうです。
そして霧の深い晩になると、自殺者達の亡霊が湖畔を彷徨い歩くという話が昔から伝えられている。


さて、高校の放送局のサマーキャンプに参加してやってきた2年生で、仮に岡村君としておきましょうかね。
まあサマーキャンプと言ったって、体育系ではないですから、走ったり泳いだりという事はないわけだ。
大自然に囲まれて、誰もが開放的になって、はしゃいでいるわけだ。
そんな中で、なぜか岡村君だけが妙に沈んでいる。

参加者はというと、3年生は受験を控えているというわけで、
1年生と2年生の男子と女子あわせて12~13人と、引率の先生が一人。
それで湖畔に並ぶバンガローに、それぞれ数人で泊まる事になっているわけだ。

岡村くんは仲の良い阪田くんと二人、同じバンガローに泊まることになった。
岡村くんが何故か暗く沈んでいるものですから阪田くんが湖に出たら少しは気持ちも明るくなるだろうと、半ば強引にボートに誘った。

照りつける日差しの中、ボートは沖に向かって進んでいった。
湖の周囲ではキャンプをしている家族連れや小学生の姿が見える。
時折水面を気持ちのいい風が吹いてくる。
澄んだ水の上をボートが滑るように進んでいく。
そしてやがてボートが湖の真ん中辺りまでやってくると、阪田くんがオールを漕ぐ手を止めて

「おい、どうだ。
 お前もやってみないか」

と言って持ってきた釣り竿の一本を岡村くんに手渡した。
そうして自分はすぐに湖に釣り竿を垂らした。
岡村くんは釣り竿を掴んだんですが何だか体が凍りついたような固まったまま。
そして心の中でやっぱり来るんじゃなかったと思った。

と、阪田くんが

「おっ、来たぞ!
 来た来た!」

釣り竿は弓なりになっている。
阪田くんは糸をぐっと引き寄せた。

「なんだよ」

阪田くんが湖の中から引き上げたのは小さな子どもの運動靴だった。

「子供が落としたのかな?
 靴を落とした奴は右足裸足で帰ったのかな?」

そう言って阪田くんはケラケラと笑った。
それを見るとも無く岡村くんはふっと見た。
そして阪田くんが手にしている運動靴に視線がいった。
その途端に岡村くんは恐怖で言葉を失った。
体がブルブルと震えだした。

その運動靴には見覚えがあった。
間違いない。
それはあの日、康夫が履いていた運動靴だ。
岡村くんの脳裏に七年前の夏の記憶が蘇ってきた。

彼は以前にもこの湖に来たことがあった。
それは小学校四年生の時の夏の林間学校でのことだった。
大自然に包まれて誰もがみんな開放的になってはしゃぎまわっていた。
自分もそうだった。
仲の良い和則や康夫と一緒に騒いでた。
それであれこれするうちに、なんでか隠れんぼが始まった。
順番に鬼になっていく。
そして康夫が鬼の番になった。
そして岡村くんと和則の二人は隠れた。

和則はすぐに見つかった。
自分は近くにあった小さな桟橋に繋がれているボートの上に隠れた。
康夫が一生懸命に自分を探している。
何だかそれがおかしくて、クスクスと笑っていた。
と、そのうちにどうしたわけか、友綱が勝手に解けてボートが流れだした。
それに気がついた康夫が、ボートを漕いで追ってきた。

「おい、そのボートの中にいるんだろ?」

でも自分は黙ったまま。
ボートの底に寝そべってクスクスと笑っていた。
康夫が遠くで何か大きな声で言っている。
騒ぎながら段々と近づいてくる。
ボートを漕ぎながら何か楽しそうに騒いでいる。
それも何だかおかしくて、クスクスと笑っていた。
康夫が段々と近づいてきた。
そしてこっちのボートの中を覗こうとして、ふざけてボートの上に立ち上がった。

その瞬間、ボートがグランと激しく揺れた。
そして立っていた康夫もバランスを失ってバシャンと湖の中に落っこちた。
その時自分がフッと起き上がると、湖の上で康夫がもがいている。
慌てて大声で助けを呼んだ。

「康夫!」

そう大きな声を上げながら、自分はボートを漕いで康夫の方に向かった。
でもボートは思うように進まない。
康夫がもがいて水しぶきが上がる。
康夫が夢中でもがいている。
自分は一生懸命ボートを漕いでいるんだけど、なかなかボートは康夫の方に近づかない。

「康夫!!」

と、ブクブクと音がして、康夫の体が湖の中に沈んだ。

「康夫!!」

必死に叫んだ。
と、しばらくして

ボコッ

康夫の頭が水面に浮き上がった。

「康夫!!」

と叫びながら、夢中でボートを漕いだ。
その時康夫はこっちを見た。
その目がとても不安そうだったのを今でも覚えている。
そしてまたブクッと音を立てて、康夫は水中に消えた。

「康夫!!」

叫んだんですが、康夫は二度と浮かび上がっては来なかった。
自分は目の前で溺れている友達を見殺しにしてしまった。
地元の人と警察が必死に捜索したんですが、康夫はとうとう見つからなかった。
その日の夕方、自分たちのバンガローがある近くの水面に康夫の運動靴の片方だけが浮いていた。

七年前のあの日の情景が、目の前の景色とバラックして、まるで昨日のことのように思い出された。
岡村くんはその運動靴を持って帰ると、綺麗に洗ってバンガローの窓の外に干しておいた。
そしてじっとそれを眺めていた。
遠くでは皆の楽しそうな声が聴こえている。
でも自分はどうしてもそんな気持ちになれなかった。

康夫の運動靴は七年も経っているのに何だかとても新しかった。
小さな運動靴。
自分も昔はこんなに小さな運動靴を履いていたんだなと思った。
そしてあの日康夫はこの靴を履いていたんだなと思った。

そのうちにやっぱりこの運動靴は康夫に返しに行こうと思った。
そしてボートを借りて、沖へ向かって漕ぎだした。
昼下がりの陽光がキラキラと湖の反射して輝いている。
時折水面を心地よい風が吹いてくる。

ボートを漕いでいると背後から風に乗って子供の悲鳴が聴こえた。
フッと見ると向こうでボートが揺れている。
その上で子供が悲鳴を上げている。

咄嗟に
「危ないぞ、立ち上がるな!」
と叫んだ。

そして夢中でそのボートに向かって自分のボートを漕いだ。
手こぎボートですから背中から進んでいくわけだ。
背後から段々と悲鳴が大きくなっていく。
なおもボートを夢中で漕いだ。

そしてフッとボートを振り返ると、ボートの前と後ろで小学生がヘリにつかまってしゃがみ込んで悲鳴を上げている。
その二人の真ん中で一人が仁王立ちになって、ボートをグラグラと揺すっている。
咄嗟に「やめろ、危ないぞ!」と怒鳴ると、ボートを揺すっていた小学生が動きを止めた。
そしてこっちを見た。

「康夫・・・」

それは康夫だった。
後の二人にも見覚えがある。
一人は和則で、もう一人は小学生の自分だった。
頭の中が真っ白になる。

ボートが惰性でスーッと進んでいって、コツンと音を立てて向こうのボートにぶつかった。

「あーびっくりした!」

という声でフッと我に返った。
見るとそれは知らない小学生達で、三人共ライフジャケットをつけていた。
どうやら湖の魔力が自分に錯覚を見せたらしい。
気が付くとそこは七年前康夫が沈んだ場所だった。

この靴を釣り上げたということは、多分康夫は何か自分に言いたかったに違いない。
やっぱりこれは自分が持ち帰って供養してやろうと思った。

そしてまたその運動靴をバンガローに持ち帰って窓辺において乾かした。
向こうで皆の声がする。
どうやら皆は夕飯の支度をしているらしい。
楽しそうな笑い声がしている。
でも自分は何だかそんな気になれなかった。
気が付くと何だか頭がボヤッとして寒気がする。
体が妙に熱っぽい。

(あれ、風邪でもひいたかな?)

阪田くんに移しては悪いんでそのことを言うと、

「いいよ、気にすんなよ。
 俺だったら他のバンガローに泊まるからさ。
 お前疲れているみたいだから、一人で休めよ」

と言ってくれた。
どうやら暗く落ち込んでいる自分を一人にしておいてやろうという阪田くんの優しさらしい。
頭が何だかボヤッとしている。

バンガローに入って壁に寄りかかって小さな窓からじっと外を見ていた。
皆の声が聴こえている。

と、一瞬空が明るくなった。
遠くで雷鳴が轟いた。
辺りが段々と暗くなってきた。
時折空がチカッと光って辺りが明るくなる。
そして雷鳴が轟いている。
と、ポツッポツッポツッと雨粒が落ちてきた。
これが一瞬にして激しい雷雨に変わった。

激しい雨がバンガローの屋根を叩いている。
雷鳴が轟いている。
チカッと稲光が光り、ドカッと音がする。
皆の悲鳴が聴こえている。
でもそれもすぐに止んで、後は雨の音と雷鳴の音しか聴こえなくなった。
外はもうだいぶ暗くなった。
そして濃い霧が出てきた。

(皆どうしているんだろうな)

ピチャッ・・・ピチャッ・・・

雨の中を歩いてくる足音がする。
音は段々とこちらに近づいてきている。

(阪田かな?
 良かった、一人じゃ心細いし)

ピチャッ・・・ピチャッ・・・

足音が止まった。

(あれ、どうして入ってこないんだろう?)

そう思っていると、バンと何かが窓に当たったんでそちらを見た。
雨が流れ落ちている小さなガラス窓。
その窓ガラスに小さな子どもの手が張り付いているのでゾクッとした。
運動靴もチラッと目に入った。

と、稲光がチカッと走った。
一瞬外が明るくなる。
白く眩しい閃光があたりを照らす。
窓から明かりが差し込んだ。
その瞬間、思わず息が止まった。

雨にぬれる窓ガラスの向こう、暗い闇の中に雷の明かりに照らされて青黒く膨れ上がって腐りかけた康夫の顔があった。
眩しい光を浴びて、それがフーっと浮き上がって見える。
思わず「康夫・・・」と呟くように言うと、康夫が

「見ーつけた!!」

と言った。
岡村くんは、その瞬間に意識を失った。

翌日、運動靴は無くなっていた。

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