盲目の指圧師

沼田さんという80歳を過ぎたお婆さんなんですがね、
この方が昔、山形県の農村で働いていた頃の話です。

近所に住んでいる老人で盲目の指圧師をされている谷さんというお婆さんが居たんです。
沼田さんはちょくちょく顔を出しては、身の回りの世話なんかをしてあげて親しくされていたそうなんです。

この谷さんという方は生まれつきの全盲の方でして、両親が将来を心配して若い頃から
師匠に付いて指圧の修行をしたそうで、メキメキと腕を上げていったそうです。
そのうち霊能力でも付いたのか、人の体を擦るだけでもって病気なんかを当てられるようになったそうなんですね。

結婚の経験も無く、すこしばかりの家具があるばかりの質素な生活を送っていたそうなんですが、
その家具の中には使うことのない鏡台もあったそうです。
谷さんは盲目だから鏡を見ることは無いんだ。
でもそれでも器用に髪をまとめていたそうです。
そして闇に向かって独り言を言う癖があったそうです。

それはある秋の初めだったんですが、
大雨が降り続いて、田んぼも畑も水浸しになった。
かなりの被害が出てしまったんですね。
その片付けの作業があるもんだから、沼田さんはしばらく谷さんのところへは顔を出せなかった。

それで、大雨から10日ばかり経った頃、ようやく片付けが済んだんで夜に谷さんのところに訪ねてみた。
やってくると、谷さんの家の灯りはもう消えている。

(あらぁ、もう寝ているのかな・・・)

でも谷さんは盲目だから、お客さんが帰ると灯りを消してしまうんですよね。
だからもしかしたら起きているかもと思い、庭のほうから入っていった。
と、谷さんの話し声が聴こえてきた。

(あぁ、また独り言言ってる)

近づいていくと、どうやら誰かと話をしているようなんですね。
誰かと話をしているとは思ったんですが、それにしては部屋の灯りが消えている。
なおも近づいていくと、やっぱり誰かとお話しているように感じる。
ただ、聴こえてくるのは谷さんの声ばかり。

外から「こんばんは」と声を掛けると、
「あれー、奥さん誰?」という声がかえってきた。

沼田「明日の朝ごはんに食べてもらおうと思って、
   魚の粕漬けと煮物なんだけど、いただきものなんだけど、おすそ分け。
   台所に置いていくね」

そう声をかけて沼田さんは台所へ向かった。
それで、一体誰が来ているんだろうと思い、障子を少しだけ開けて覗いてみた。

微かな月明かりが部屋の中を照らしている。
薄暗い座敷に谷さんがペタンと座り込んで何かを喋っている。
と、その前に向かい合うような形で座布団が一枚敷いてある。
湯のみ茶碗も出ているが、人の姿は無いので、不思議に思った。

でも谷さんはまるでそこに人が居るかのように話をしている。
見ていても何だか気持ちが悪いし、その日はそのまま帰った。

翌日谷さんの家にやってくると、流しに湯呑茶碗が二つ出ているんで、
(え?昨夜はお客さんでもいたのかね?)と言うと、
「ああ、あの奥さんかね。あの奥さんは以前私のところに通ってたんだけどね、半年ほど前から、ぴったりと来なくなってね…
それが雨が降り止んだ10日ほど前の晩にね…」と言って話してくれた。

それというのは降り続いた雨が止んだ10日ほど前の晩。
谷さんが夕飯を食べ終えて、ライトを消したんです。
そうして時間が過ぎていったわけだ。(さて、どうしようかな…する事もないし、そろそろ寝ようかな)と思っていると、
人の声がした。

人の声がしたな…と思って、ライトをつけてみた。
「こんばんは」と表から女の人の声がするんで、(あれまあ誰だろう?)と思って「はいどちらさんで?」と返事をした。

「お久しぶりです。そこの惣兵衛下新田の高澤和代ですけど…秋の夜長で話し相手もいないんで、
よければ話し相手になってもらいたくて、やってきました。」

(あれまあ、こんな時間にな?)とは思ったんですが、自分も時間を持て余してましたんで、
「それじゃあ、どうぞ」と座敷にあげた。

しばらく話しをすると、たいそう喜んで帰って行ったというんですね。

それ以来毎晩のように、やってくるっていうんですよ。
沼田さんはその話しを聞いて、なんだかおかしいなと思った。
普通そんなに遅い時間に、毎晩のように訪ねてくるなんておかしいですからね。

(まてよ…谷さんもボケてきてるから、しょっちゅう独り言を言っているな…幻聴かなにかかも…)
そうでなければ、谷さんが目の見えないのをいいことに、何かの霊がやってきて、からかって帰って行ってるんじゃないかな?
と思った。

そう思うと、ちょっと怖い。
ただ、聞いたところによると、惣兵衛下新田の高澤和代という年配の女性らしいんで、
じゃあ一つ確かめに行ってみようかな?と思ったわけですね。

翌日早速、惣兵衛下新田に行ってみた。
行ってみるとそこは、降り続いた雨で田んぼも畑も水浸しなんです。
かなりの被害が出ている事が見るだけでもわかる。

(ああ、ひどい事になっているな…)と思いながらやってくると、お寺さんなんですが、そこの地下水が吹き出して、
お寺の墓石があちこちで倒れているんだ。

(ああ、これはひどい…)と思った。
見るとはなしに、そこを見ていると、その墓石の中に高澤家と彫られた墓石があった。

(あれ?)と思って、墓石の横を見てみると、半年前に亡くなっている享年67歳の高澤和代という名前が刻み込まれているんだ。

(ん?高澤和代?半年前に亡くなっている?という事は…この人物じゃないだろうか?
という事は、毎晩ばあちゃんの所へやってくるのは、死んだ人間なんだ…)どうやら相手はこの怨霊らしい。

寂しくてやってきたという事は、そのうち谷さんを連れていくんではないかと、ゾッとした。

それで氏神さんに言ったんですよ。
そこでお札をたくさん買い込んで谷さんの家に行った。
谷さんには内緒でそのお札を部屋中に貼った。
窓と言わず、襖と言わず、便所と言わず、台所と言わず、辺り構わずお札を貼っていった。
こうしておいたら絶対に霊のやつは入ってこれないだろうと思ったわけですね。

さてその晩なんですが、布団に入ったんですがどうにも落ち着かないわけだ。
あれだけお札を貼ったんだから怨霊だって部屋には入ってこれないはずだ と思うんですが、
もしかしたら何処か貼り忘れているところがあるんじゃないか・・・?
それとも、あれだけお札を貼ったわけだから怨霊は部屋に入ってこれないんで、怒り狂ってとんでもないことをしなければいいけども・・・と思った。

あれこれと考えてしまうわけだから、どうしても眠れないんですよ。
そうこうしているうちに時間はもう11時を回ってしまった。

(大丈夫だろうか・・・一体どうなっているんだろうか・・・)

とうとう我慢が出来なくなって、起き上がって着替えて様子を見に行ってみたわけだ。
家の外に出て、谷さんの家までの道まで行くと、辺りを月灯りが照らして虫が鳴いている。
谷さんの家の前まで行くと、家の灯りは消えている。
あぁ、もう寝てしまったかなと思いながら

(どうだろう・・・あれだけお札を貼ったから、怨霊のやつは諦めて帰っていっただろうか・・・。
 それとも家に入れないから、このあたりの闇に紛れて機会を伺っているんじゃないだろうか・・・)

そう思うとゾッとしてきた。
庭から近づいていくも、何も聴こえない。
それで縁側に腹ばいになり、そっと手を伸ばして障子を少しだけ開けてみた。

微かな月灯りが障子の隙間から入ってそっと室内を照らしている。
ふっと見ていくと壁際の鏡台に向かって谷さんが髪を梳かしている後ろ姿が目に入った。

(あぁ良かった・・・何もなかった・・・)

じゃあこれで引き上げようかなと思ったんですが、その時に気がついた。

(あれ・・・谷さんが鏡台に向かって髪を梳かしているなんて、珍しいこともあるもんだな)

見るとはなく鏡台の方を見てみた。
鏡台に向かって髪を梳かしている谷さんが、ぺたっと座り込んだ。
その足元に昼間に自分が貼ったお札がまとめられて、くしゃっと一塊になって捨てられている。
目の見えない谷さんがお札を剥がせるわけがない。

(これはまずい・・・)

思った瞬間、恐怖が体の芯を駆け抜けていった。

(・・・居る。この部屋の中に怨霊がもう既に・・・。どうしよう)

辺りを見回すも、姿はない。

(何処に居るんだろう、何処に居るんだろう・・・)

そのうち、ハッと気がついた。

(そうか・・・そうなのか・・・)

そして障子を開けて鏡台の前に居る谷さんの後ろから、声をかけた。

「こんばんは」
谷さんは髪を梳かしながら「はい、こんばんは」と言った。
「なぁばあちゃん、あんたは本当に谷さんかい?」

髪を梳かしていた谷さんは手を止めてゆっくりと自分の方へ振り向いた。
にこやかに笑っているんで、(よかった・・・勘違いだった)と思った。
でもその時に気がついた。

谷さんの目が開いている。

盲目の谷さんの目が開いているんだ。

(違う・・・こいつは違う・・・)

「あ、あんた・・・谷さんじゃないね、一体誰なんだい」

そう言うと、にこやかだった顔がみるみる変わっていった。

「高  澤  和  代」
と言ったそうです。

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