食べる- 師匠シリーズ

760 :食べる  ◆oJUBn2VTGE :2011/08/21(日) 00:19:26.51 ID:i1MYcoGY0
師匠から聞いた話だ。 

一度どうして蜘蛛が嫌いなのか訊いたことがある。
加奈子さんはどうしても訊きたいのかともったいぶったあと、
いや、後悔するぞとも言っていたような気がするが、ともかくあぐらをかいて語り始めた。 
クーラーのない夜のアパートの一室は、座っているだけでじっとりと汗が浮かんできて、
なんとも怪談を聞くのに相応しい雰囲気だった。
だからと言って、その話が怪談になる保障はなかったのであるが…… 
「子どものころにな、エグい蜘蛛の死骸を見てな。それ以来だめなんだ」 
エグい、というのが気になるが、案外普通の話だ。 
余計に暑くなって団扇を仰ぐ。 
「近所にゴミ屋敷って呼ばれてる家があったんだけど、そこに有名な変人のおじさんが住んでてな。
 いつも短パン穿いてて、上半身は垢じみたシャツ一枚。
 ニヤニヤ笑いながら、用もないのにそのへんをぐるぐる歩いて回ってんの。 
 仕事なんてしてなかったけど、母親の年金で食ってるって話。
 だけどかなり前から、近所の人もその母親を見かけなくなってて、
 実はとっくに死んでるのに死体を隠してるって噂があった。もちろん年金をもらいつづけるためだな。
 とにかく、近所のコミュニティー内でも危険人物ナンバーワン。
 大人からは絶対ついていっちゃだめだって、きつく言われてた」 
「……ついていったんですね」 
「うん」
ありうる。おばあちゃんの死体を見つけるつもりだったに違いない。 
「小学校三年生くらいだったかな。歩いてたおじさんを尾行してた時、いきなり振り向いて言ったんだよ。
 『うちにおいしい食べ物があるよ』」 
「……ついていったんですね」 
「うん」
ありうる。 

◆ 
わたしはおじさんの後をついていった。
大人が近くに居れば注意してくれたかも知れないけれど、平日の昼間だったから誰とも行きあわなかった。 
もった、もった、とマイペースで歩くおじさんの背中を見ながらしばらく進むと、例のゴミ屋敷にたどり着いた。
いったいいつから溜めているのか、
黒いゴミ袋に入っているものから、入っていないなんだか汚らしいものまでが、庭にまであふれ出している。 
周囲には異様な匂いが立ち込めていて、これでは死体があっても死臭など嗅ぎ分けられそうになかった。 

そのゴミに惹かれて野良猫がうじゃうじゃ集まってきていて、その無数の瞳が一斉にこちらを睨んだ。 
ただゴミを漁りにきていたわけではないようだった。
大小様々な皿に、キャットフードらしいものが散らばっていたからだ。飼っているらしい。
中には何の肉だかわかんないようなものをくわえて、こちらに唸っているヤツもいる。 
「こっちだよ」と言いながら、ゴミを掻き分けて家の中に入っていくので、
飛びかかられはしないかと猫に注意を払いながらついていった。 

玄関には脱ぎ散らかした靴が何足かあり、半分はゴミの山の下敷きになっている。
おじさんが靴を脱いだので、生理的に脱ぎたくはなかったが、仕方なくスペースを見つけて慎重に靴を揃えた。 
「こっち」
台所に行くのかと思ったが、廊下の途中に地下へ伸びる階段があり、そこで足を止めた。 
靴下がいやにネトネト床に張り付いて気持ち悪い。
それでもおじさんが勝手に階段を降りていったので、ついていくしかなかった。 
降りていくときに気づいた。
猫の鳴き声が聞こえる。
家の外もニャーニャーうるさかったが、あきらかに地下からも聞こえていて、
それも一匹や二匹じゃないうえに、なにか苦悶の声というのか、とにかく普通じゃない鳴き声だった。 

階段を降りると、薄暗い地下室に棚がたくさん並んでいる。それぞれが天井にくっつくくらい背が高い。
その中には、わけがわからないものが詰め込まれていた。 
ベビーカー。割れた三面鏡。古びた桶。ツルハシ。石膏の地蔵。汚れた造花。
暗号のような殴り書きをしてあるダンボール。
それに黒い布を被せてある鳥カゴのような形のものが何十と。
猫の異様な鳴き声は、その黒い布の向こうから聞こえてきていた。 
ついていってはいけない人ナンバーワンは伊達でないという実感がした。 
そしてビン。
梅酒をつくるときに使うような大きさのビンが、棚の下の方の列に並んでいて、
黄色い天井の明かりに薄っすらと照らされている。
気持ちの悪い色をした中身が微かに見える。 
おじさんがわたしの視線の先にあったひとつを取って、ニヤニヤしながら「食べる?」と訊いてきた。 
最初、茶色いお饅頭がぎっしり詰まってるのだと思った。 
しかし、一口サイズにしても妙に小さい。大きさも形もまちまち。
おじさんが蓋を開けて、赤ん坊のようにふっくらした指をつっこみ、一つを摘んでみせた。 

なにかぬらぬらしていて、そのくせ萎れかけている、茶色くて丸いもの。 
おじさんはそれを口に放り込んで、くちゃくちゃと音を立てた。 
またビンに手を入れ、もう一つ取り出して、わたしの口元に近づけてくる。
茶色いお饅頭の表面に変な模様と、うぶ毛みたいなものが見えた瞬間に分かった。分かってしまった。 
あ、蜘蛛のお腹だ。
それも大きな蜘蛛の。それが一抱えもあるビンの半分以上にみっしり詰まっている。 
手を出さないわたしにニヤニヤ笑って、おじさんがまた自分の口に放り込む。くちゃくちゃ。くちゃくちゃ…… 

◆ 
「ちょっと待ってください」 
話の途中で、僕は手振りを交えて口を挟んだ。 
空気。空気を吸いたい。いや、空気はある。窓の外の空気が吸いたい。 
加奈子さんはそんな僕をバカにした目で見ている。
甘かった。この人のトラウマになったほどの出来事が、普通のよくある話なわけはなかった。 
「続きがあるんだよ。まだわたしは逃げ出さなかったからな」 

◆ 
おじさんは小さい女の子の前で自分を全開でさらけ出して興奮したのか、目が爛々としてきて息遣いも荒くなった。
「でもこれじゃないんだ。これはあんまりおいしくないからね」 
そうしてビンを戻すと、奥の方へ進み始めた。 
黒い布のかかった鳥カゴのようなものの前を通り過ぎるとき、猫の呻き声が大きくなった。
立ち止まったままのわたしに、おじさんが「どうしたの?」と訊く。 
「ねこが」
そう言うわたしに嬉しそうな顔をして口を開く。歯にさっきの蜘蛛のお腹の一部がこびり付いているのが見えた。
「猫は化けるっていうけど、どんな風に化けるのか実験してみたんだ。色んなことをしたよ。
 そのうちに気がついたんだ。死ぬ前にね、変な鳴き声をあげる猫がいるんだ。五十匹に一匹くらい。 
 どういう猫がそうなるのか、まだ研究中なんだけど、とってもいい声で鳴くんだ。ホラ、こんな風に」 
おじさんが手近な黒い布を取り払った。

その下にあったのは、竹の骨組みだけの鳥かご。空っぽの鳥かご。 
なのに異様な気配が膨張していく。鳴き声が止まらない。
わたしは思わず、その右隣、その左隣、その上、その下と、息をのみながら棚に並ぶ黒い布を見つめる。
おじさんは嬉しそうに布を取り払っていく。 
空だった。すべて空。なのにそのすべてから鳴き声が聞こえる。
呻くような声。慄くような声。耳を塞ぎたくなるような声が。 
硬直するわたしにおじさんは、「さあ、猫はもういいだろう。おいしいものはこっちだよ」と奥へ進んでいく。 
頭がぼんやりして、なんだか夢の中にいるみたいだった。ふらふらとついていく。 

天井には等間隔に黄色い明かりが並んでいる。
やがて壁にあたり、角を曲がる。また棚が両脇に伸びている。少し狭くなったようだ。
一番奥には巨大な顔が見える。壁に描かれた絵だった。 
おじさんがごそごそと腰を屈めていたかと思うと、汚らしいツボを抱えてきた。
さっきの蜘蛛のお腹が詰まったビンと同じくらいの大きさだ。 
とても古そうだった。丸くすぼまった口のところに、釉薬が垂れたような模様がついている。
その口を縛っていた紐と布を、おじさんが慎重な手つきで解いていく。 
「北に、車で一時間くらいいった町に、天狗の伝説があってね」 
唐突にそんなことを言いはじめた。 
「高い山があるんだけど、その山じゃなくて、少し離れたところにある沼地にまつわる話なんだ」 
なにが可笑しいのか、肩を小刻みに震わせながら、きききと耳障りな声を出す。 
天狗?頭の中に、赤い顔をして鼻が高く、山伏のような格好をした姿が浮かぶ。手には葉っぱでできたウチワ。 
おじさんは言う。
「山じゃなくて、沼地で天狗っていうのが不思議だろう。
 古い神社があってね。そこに、昔々天から落っこちてきたという天狗を祀っているんだ。
 間抜けな話だろう?おっちょこちょいな天狗」 
背中の小さな羽根でつむじ風に乗り、気持ちよさそうに空を飛んでいた天狗が、
葉ウチワを落っことしてしまって、追いかけているうちに地面に墜落してしまう、というイメージが浮かんだ。 
「ところが……」
おじさんの声色が変わった。ひそひそと重要な秘密を告げようとするみたいに声を落とす。 

「その神社の口伝に、天狗を祀るようになった由来があるんだけど、少し妙なんだ。
 こう言っている。『その傷つきたる姿、いかなる獣にも似ず、肌は青黒く、痩身、鳴き声は雉の如し』」 
ニタリと笑って、おじさんはわたしの反応を確かめる。 
「お嬢ちゃんの知っている天狗と違うだろう?
 顔は赤くないし、一本歯のゲタのことも山伏姿のことも、そしてなにより高い鼻のことを言っていない。
 それなのに『天狗』だとして祀られているんだ」 
確かに不思議な気がした。 
「その謎を解くには、少し天狗のという存在の、成り立ちを説明しないといけないね。
 天狗が今の姿になったのは、鎌倉時代以降と言われている。
 山伏の姿を見ても分かるとおり、彼らは修験道の行者に代表される、山の民の象徴だ。 
 そして密教がさかんになった十一世紀以降、仏教の敵対者としての性質が付加されていく。
 国家と、それを守護する仏道にまつろわぬ孤高の存在。
 そして己の験力を誇示し、慢心の権化として密教に挑み、打ち負かされる存在。 
 そうした仏教説話のアンチヒーローが彼らだ。
 それは密教自身が己の験力を誇示し、鎮護仏教として確固たる地位を占めるための、
 妖怪といういわばやられ役を割り振られた、あまたある日本古来の神々のひとつだよ」 
おじさんの背後に、本棚の中身が電球の明かりに薄っすらと浮かぶように見えた。
民話やお化けに関する本がぎっしりと詰まっているようだった。 
ツボを胸の前で抱えたままおじさんは続ける。

「お嬢ちゃんは何歳?……そう、かわいいねえ。
 『天狗』という字を書けるかな。天は天国の天。狗はケモノヘンに句読点の句と書くんだ。
 狐狗狸(コックリ)さんという遊びをしたことがあるかな。 
 漢字で書くと、狐と狸でこの狗を挟んでいる。
 この狗はイヌという意味だね。野山や里で人を惑わせるケモノたち。
 ところで、さっきの天狗を祀った神社なんだけど、
 実はとっても古い神社でね、鎌倉幕府の成立より二百年以上前に建てられている。 
 平安時代だ。つまり天狗が今の姿になる前だね。
 じゃあ、慢心して鼻が高くなる前の天狗の姿はどうだっただろう。
 ただの山伏?いいや、天狗は修験道の成立よりもっともっと古いモノだ。
 日本の神話をつづった、日本書紀というものを聞いたことがあるかな。 
 平安時代よりさらに昔の、奈良時代にできた本だよ。
 その中にね、天狗について触れたくだりがある。
 ……あるとき、東の空から大きな音を立てて星が落ちてきた。人々は驚き、流星だ流星だと騒いだ。
 しかし、ある法師はこう言った。
 『流星ニ非ズ。是レ天狗ナリ』」 
背後から聞こえる猫の鳴き声が大きくなった。 
ビクリとしてわたしは首を竦める。
テングという滑稽な言葉の響きが、ぐわぐわとなにか得体の知れないものに変わっていくような気がした。 
「天に長大な尾を引いて流れる火の球。ただの流れ星ではなく、人間にとってなにか重大な意味を持つ兆し。
 天を翔ける狗(キツネ)。天狗(アマキツネ)だよ」 
おじさんはそう言いながらツボの表面を撫でる。 

「狗(ク)という字はね、キツネとも読むんだ。とっても古い読み方だね。
 でもこの天狗は日本で生まれたものじゃない。中国の古い書物にもその姿が見える。
 紀元前にできた『山海経(せんがいきょう)』という本には、天狗の正体は火の球である、とでている。 
 『史記』では、流星のようだが、地上に降りては狗(キツネ)に似ていて、炎を発するとしている。
 ……どうかな。鼻が高い赤ら顔の山伏と全然違うだろう。
 日本には天狗神社という神社がたくさんあるけど、そこに祀られている天狗は、猿田彦という神様の分霊だよ。
 鼻の高い神様だ。その鼻の高いところが鎌倉期以降の天狗に通じるから、同一視されたんだね。
 酷い話だ。慢心で鼻の伸びた仏教のカタキ役が、神道の神様になっちゃった。
 元はといえばキツネが化けていたんだよ」 
大げさな抑揚で言う。
ジジジ……と電球が嫌な音を立てる。
おじさんが一歩前に出た。思わず一歩下がる。 
「でも、本当はキツネでもないんだ。キツネに似ている、流星のような火の球なんだから。
 ハレー彗星を知ってるかな。もう少ししたら地球にやってくる彗星だ。別名、天狗星とも言うよ。
 彗星や流星全般をさす言葉でもある。ここに昔の名残があるね。 
 それから、『五雑俎』という古い中国の本がある。五つの雑なマナ板という字をあてる本だ。
 そこでは、天狗星が落ちたあとに見つかるケモノを、『天狗』と称している」 
おじさんが目を輝かせて、また一歩前に出た。ごくりと唾を飲みながらまた一歩下がる。 
「分かってきたかな。ボクのいいたいことが。
 沼に落ちたという天狗を祀っていた神社の口伝は、こう言っていたね。
 『その姿、いかなる獣にも似ず』って。
 つまり、なんだか分からないと言ってるんだ。
 だからこれは、次々と変化していく、そんな『天狗』という言葉のイメージに塗り重ねられた寓話的存在ではなく、
 真実の姿を描写しているのではないか。と、そう思うんだよ」

「想像してごらん」
おじさんは静かに言った。 
「千年以上昔の素朴な農村の外れ。沼がちな土地に、あるとき静寂を破って天を切り裂く光が降り注いだ」 
薄暗い地下室の天井に光が走った気がした。

「轟音とともに、巨大な火の球が降ってくるんだ。
 恐ろしい天変地異に、粗末な麻の服を着た村人は逃げ惑った。
 やがて火の球は地上に激突し、地面を抉り、沼の水を一瞬で蒸発させ、
 荒ぶるキツネ火のように、炎が大地を這い回った。 
 そしていつしか炎は消え、人々が恐る恐る近づいていくと、
 地形が変わるほどの、途方もない衝撃があったことを示す痕跡の中に、火の球の残骸のようなものが散らばっている。
 その中に人々は、傷ついた獣の姿を見た。 
 肌は青黒く、痩せていて、鳴き声は雉のようだった。
 得体の知れない獣を捕らえた人々は、在郷の有識者階級であった神社の宮司に問うた。
 これは一体なんであるか、と。
 宮司は神話になぞらえて言った。
 『流星ニ非ズ、是レ天狗(アマキツネ)ナリ』」 
そして……
おじさんはツボに視線を落とす。ザラザラした膨らみをゆっくりと撫でている。 
「空から、火を吹く球に乗って落ちてきた異邦の生物は、村の人々によって塩漬けにされた。
 どうして保存しようとしたか、それは分からない。
 塩漬けにされた生物の身体はその神社に祀られ、代々の宮司に受け継がれる。 
 年月が経ち、やがて人魚の肉の伝説のように、その肉を食すれば身の内に霊力が宿る、という噂が生まれた。
 それを聞きつけた土地の領主に、一部が献上されたこともあったそうだよ。
 鎌倉、室町、江戸、明治と時代は下り、アマキツネはテングになり、
 やがてこの天狗の肉は、宮司一族と、一部の氏子衆だけが知る秘密の御神体として、口伝で継承されてきた。
 僕がどうやってそれを手に入れたかは秘密だよ」 
紐を取り払い、ツボの口を覆う布をそろそろとずらしていく。 
わたしはそのツボから視線を逸らすことができない。 

「日本の神話や民話には、妖怪や鬼神などの、恐るべき力を持った存在を食することで、その力を取り込む、
 という話がいくつか見られる。それ自体はさほど珍しいものじゃない。 
 でもね、この天狗の肉を食べることで、身の内に宿る霊力とされるのは、
 人魚の肉と同じく、不老長寿の力だというんだ。ここが面白いところでね。
 古今、天狗の肉を食して不老長寿を得る、という伝説はほとんど聞かない。 
 そもそも天狗は、人魚よりもはるかに恐ろしい力を持つ存在だ。
 天狗だおし、天狗つぶて、天狗さらい、天狗わらい……
 人知の及ばない怪異の象徴である天狗を、打ち倒し食するという発想がそもそもないんだ。
 天敵の密教坊主は、戒律で肉食ができないしね。 
 ところが、この神社に祀られる天狗は、そんな後世の天狗ではなく、本当はアマキツネだ。
 如何なる獣にも似ず、雉のような声を発する生物。
 天狗だからこういう姿で現れたわけではなく、こういう現れ方をしたからアマキツネと呼ばれた。
 これは演繹法ではなく、帰納法だよ」
なんだかわけがわからなくなり、ドキドキしているわたしにおじさんは笑いかけた。 
「さあ。約束のおいしい食べ物だよ」 
そう言って布を取り、ツボの中に片方の手を突っ込む。
そして、肉がブツリと千切れる微かな音が聞こえた。 
ツボから引き抜かれたその指先に、どす黒いなにかが摘まれている。 
差し出されたそれを正視できず、思わず顔を背けた。 
「大丈夫だよ。古くたってしっかりと塩漬けされてるから、まだ食べられるよ。塩辛いけど」 
そう言って、おじさんは自分の口元に指を這わせ、肉片のようなものを噛んだ。 
クチャクチャと、わたしにも聞こえるように。 
その瞬間、ぶるぶるとおじさんの顔全体に細かい痙攣が走った。
ほんの数秒だったが、その間おじさんの目玉も小刻みに動いたのが見えた。 
「こんなに、おいしいのに」
顔の痙攣が止まっても、目玉はあっちこっちに動き続けている。
わたしはどうしようもなく怖くなり、後ずさる。

「話が途中だったね。帰納法。帰納法なんだよ。
 天狗の肉だから不老長寿なんじゃない。
 宮司たちの観察の結果、この肉を食べれば不老長寿が得られると、そう思われたんだ」 
目玉は震えているけれど、おじさんの声はしっかりしていた。ただ途方もない狂気を孕んで。 
後ずさるだけ近寄ってくる。ツボを抱えたまま。 
「フレイザーの言う類感呪術だよ。類似したものには類似した力が宿る。観察だ。観察されたんだ。帰納法なんだ。
 類似したものは相互に影響を及ぼしあう。
 夫婦仲を良くしたければ、オシドリを食すればいい。子宝に恵まれたければ、子宝に恵まれた女性を食すればいい。
 食べることはもっとも原初的で純粋な呪術だ」 
じりじりと近づいてくる。 
ツボにもう一度片手が差し入れられる。 
ぶつり。 
肉が千切れる嫌な音。頭がかってにその音を何度も何度も再生する。 
黒いもの。嫌なもの。恐ろしいものが、その指に握られている。 
差し出されるそれを避けようと仰け反るが、硬いものが背中に当たる。
本棚でコの字型に囲われた窪みにわたしはいた。
奥の本棚に背中を押し当て、それ以上下がれない私は、
どうしようどうしようと、そればかり頭の中で繰り返していた。 
そして、その時、聞いてしまったのだ。 
おじさんの腕に抱えられたツボの中から。 

Ku………… 

小さな、うめき声を。

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