箱根の宿で

この話しは、軽い気持ちで聞いて下さい。
わたしの古くからの友人なんですがね、この人怖い話とか怪談とか苦手なんですね。
早い話が、結構な怖がりなんですがね。

この人が秋のはじめに、奥さんと二人で箱根に旅行に行ったんですね。
パンフレットに載っているお店で美味しいものを食べたり、お土産屋さんを見てまわったりしてね。
それで、遊覧船に乗って芦ノ湖の紅葉を眺めて。

そうして宿に帰ってきた。
箱根ですからいい温泉につかって、部屋に戻る。
一息ついているともう夕飯ですよ。テーブルに洒落た料理が並ぶわけなんですがね。
美味しい料理を食べながら、夫婦でお酒を飲んでいる。これはもう最高ですよ。

食事が終わって、しばらくくつろいで、もうそろそろ寝ようか」ってことで布団に入ったんですね。
気持ちよく一日過ごしてますからね、気分よく眠っちゃった。

と、夜中頃。
「お父さん..お父さん..」っていう奥さんの声で目が覚めた。

見ると、隣の布団から奥さんがこっちをジーっと見て、
「お父さん..お父さん..」って言ってる。

「なんだよ?」と声をかけたら、
「お父さん..お父さん..」って言いながら奥さんがこっちへにじり寄ってくる。
そのうちに、そのまま奥さんが自分の布団に入ってきた。

「なんだよ?こんな夜中に..だ、ダメだよ俺..今日は飲んじゃってるから..明日にしなさいよ..」
って言ったんだけど、それでも奥さんが寄ってきて寝間着にしがみついてきた。

その手がガタガタガタガタ震えてるんだ。
それで奥さんが「お父さん..お父さん..部屋に誰かいるんですよ..」って言うんだそうです。

友人は怖がりですからね。驚いちゃって..
でもどうせ奥さんの見間違いか何かだと思ってね。

「どこに..?」
「あの、部屋の隅なんですけどね..二つ折りの屏風の所に誰かいるんですよ..」

(う..)
奥さんの言うほうを見てみると、確かに居る。
それはちょうど2m位で、部屋の隅なんですがね。
二つ折りの屏風があって、そのあたりに夏服を着た女がボーっと立ってる。
これはもう、ひと目みた瞬間にこの世のものじゃないってわかった。

部屋の中には就寝用の灯りがポツンとついている。そのあたりは明るいんだ。
でも、そこ以外が暗いわけだ。

そういう具合だから、女の表情はハッキリとは見えない。
でも、どうやらその女はこっちをジーっと見ているようなんですね。

もう怖くなっちゃって、どうしようもないわけだ。

でも「お父さん..お父さん..どうしましょう..」って言われてね、
男ですし、そうしている訳にもいかないっていうわけで、
どうにか耐えて、この人が言った言葉が面白いんですよ。

『おまえ、あの人に帰ってもらいなさい』って言ったっていうんですね。

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