離れようとしなかった
197 :N.W ◆0r0atwEaSo :2006/12/09(土) 05:01:11 ID:YyeI/zsB0
知り合いが、茸を採りに山に入った時のこと。
その朝は、飼っている老猫が、出掛けようとする彼の足元にしつこく纏わり付いて離れようとしなかった。
滅多にそんな事はないので、不思議に思いながらも何とか猫を宥めて家を出た。
いつもの場所へ行ってみたが、どうしたものか、収穫が思わしくない。
それで、少し先まで足を延ばした。当たりを付けた場所まで行ってみると、思った通り、いい具合に育ったものがそこかしこに顔を出している。
さっそくしゃがんで採り始めた時だった。
ぱきり、と誰かが枯れ枝を踏んだような音が聞こえた。
手を止め、立ち上がって辺りを見回したが、誰もいない。
(気の所為か…)そう思って、再び茸を採り始めた。
すると、しばらくしてまた、ぱきり、と言う音がさっきとは違う方向から聞こえた。
彼はもう一度立ち上がり、辺りを見回したが、やはり誰もいない。
(何だろう?)首を傾げながら、彼は茸採りを続けた。
そして、もう聞こえないか、と安心しかけた時──
ぱきり。
今度はずっと近くで聞こえた。しかし、周囲には誰の姿も見当たらない。
流石に不安を覚え、彼は胸ポケットの、灰塩の入っている守袋をまさぐった。
だが、そこに守袋はない。
顔から血の気が失せていくのがわかった。
(駄目だ、引き上げよう)そう思った時、不意に背後でぱきり、と音がした。
はっとして振り返ると、十七・八歳くらいの若い綺麗な娘が立っている。
全身が総毛立ち、彼はその場から逃げ出そうとしたのだが、何故か娘から眼が離せず、体が思うように動かない。
彼女はにっこり微笑み、彼を手招いたが、次の瞬間、その美しい姿は無残に焼け爛れ、赤くテラテラ光る肉塊に変わっていた。
「うわぁああああ!」
一気に呪縛が解け、彼は全速力でその場から逃げ出した。
そして、ほうほうのていで家へ辿り着いたのだが、そのまますぐ高熱を発して倒れ、寝込んでしまった。
毛布や布団を数枚重ね、コタツを入れ、ストーブを焚いてもまだ寒く、解熱剤を服用しても熱は下がらない。ほんの僅か大きく息をしてさえ、体中の関節が軋むようだ。頭は割れそうな程強烈に痛み、眠る事すらままならない。
そんな彼の枕元へ、家の猫がそっと近づいて来てぺたんと座ると、何故か尻尾の先で彼の額をポン、ポンと軽く叩き始めた。
これ、と家人が猫をたしなめ、別室へ連れ去るのだが、気が付けばまた舞い戻り、尻尾の先でポン、ポンとやりだす。
不思議な事に、そうされると苦しさが幾分楽になる。と、彼が家人に告げたので、猫はそのまま放っておかれることになった。
何時しか少し眠ってしまっていたらしい。彼が気づいた時、辺りはもうすっかり暗くなっており、側には誰も居らず、部屋はしんと静まり返っていた。
猫は相変わらず、尻尾で彼の額をポン、ポンと軽く叩いている。あれからずっとこうしていたのだろうか。彼は思わず胸が熱くなった。
「…もういいよ、お前も疲れたろ?」
出ない声で語りかけると、猫は彼の顔を見ながら顔をほころばせ、「ふふふ…」と優しい声を立てて笑った。
「ありがとう、な」撫でてやりたいが、それも出来ない自分が口惜しかった。
「ふふふ…」猫は再び人間のように笑い、心配しなくてもいいんだよ、とでも言いたげに、なお優しく尻尾で彼の額を叩き続けた。
翌朝、彼が目覚めた時、高熱も頭痛も、何もかもが嘘のようにきれいさっぱり消え失せていた。
そして、老猫の姿もまたふっつりと見えなくなっていた。
家族で一生懸命辺りを探し、近所の人にも声を掛けて探してもらったが、やはり何処にも見つからない。
「よれよれでもいいから、帰って来て欲しい。今度は俺が面倒見てやるから」
彼は今日も猫を探している。