妙な床屋


はじめに断っておくが、私は小心者です・・

引越してきたばかりで家の周りのことなど何も知らない頃、日曜日は近所の食物屋や雑貨屋などを探すのが日課となっていた。

ある日曜日、久々に床屋に行くことになり近くで探すことにした。
私は待つのが大嫌いなので、混んでいる床屋は敬遠してしまうため、なかなか見つからなかった。
電車で遠くまで出ようかと思ったとき、駅の裏側に床屋を見つけたので覗くことにした。

窓から中を見ようとしたが良く見えなかったので、扉を開けて中を覗うことにした。
扉を開けたら、ちょっと薄暗くて黴臭かった。
中には誰もいなかったので、そのまま帰ろうと思っていた。
その時、店の奥から
「どうぞ」
と、少しこもったような声がした。
声の主は店の電気をつけると、のっそり出てきた。
「結構です」
と言えないような空気になり、ふらふらと彼の声に誘われるように店の中に入っていった。
「どうぞ」
そこには席が三つあったが、右側の席には何か荷物が乗せてあった。
比較的きれいに見える真ん中の席に座るよう促された。

その椅子は、昔は高級だったと思われる黒い革張りであったが、微妙に湿っていて、中の綿がほとんど抜けていた。
椅子に後ろからしがみつかれている感じすらした。
店内の中を改めて見渡すと、古新聞や雑誌がそこら中に積重ねられ埃が積もっていた。

ふと右側の席の荷物を確かしかめようと首を傾けると、そこにも古新聞が載せられていた。
その古新聞の上には、床屋によく置いてある髪型のデザイン用の首だけのマネキンが置いてあった。
そのマネキンは、かなり適当に扱われていたようで、片目は白く濁ってひび割れており、もう片方の眼は私をじっと見ていた。

店主は音も無く私の後ろに立っていて、前掛けをかけてくれた。
だがそれも少し湿っていて、生乾きのまま取り込んだ洗濯物のような匂いがした。
「今日はどうします?」
少しでも早くこの店を出て行きたくなっていた私は
「適当にざっと切ってください。急いでますので」
と言うのがやっとだった。

なにか普通の床屋と違う、妙な違和感があった。
店の汚れ、乱雑さ、ラジオやテレビの音もなく、清潔であるはずの床屋の妙な黴臭さ。
まるでこれは空家の匂いである。

椅子に座り、今更ながら驚くべきことに気付いた。
鏡がないのである。
自分の後ろに刃物を持った男がいて、その表情が何も分からないというのがこんなに怖いとは初めてて知った。
いや、ここ以外の床屋なら恐怖心は感じなかったかも知れないが。

後ろを振り向いて店主の顔を見る勇気も無く、ただじっと座っていた。
もちろん刺されることも無く、剃刀で首を切られることも、脅されることも無かったが、あの時の恐怖はここに全て書けてはいない。

普通の怪談話だと、後で見るとその床屋は廃屋で・・・というオチになるだろうが、今でもその床屋の3色灯は回っていて営業を続けているみたいだ。
それ以来私は人の多い床屋に行くようにしている。

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