天神山

732: N.W 2005/06/02(木) 13:10:19 ID:b9cFLWuM0
今は昔。 
頃は秋。友人Aと上高地へ行った時の事。
休日でもあり、そこは我々も含めた観光客でいっぱいだった。 
その賑わしさをものともせず、梓川、河童橋の向こうに見える穂高は 
相変らず凛として美しい。 
少し早い食事を済ませ、遊歩道へ行ってみると、初めて穂高を見て感動モードに 
突入しているAはもう何を見ても“嬉しい状態”である。 
「あ、さかな!」 
歓声を上げ、私より先に2、3歩川に近づいたAがふいにその場にしゃがみ込んだ。 
「どうした?」 
あわてて駆けより、その体に手をかけると異様に冷たい。 
振り仰いだAの顔は青白く、唇に至っては紫色に近い。 
「なんか、腹へって、寒いんだ…」 
か細い声でAはそう言ったが、食事をして未だ20分もたっていない。 
あれほど人がいたはずなのに、なぜか周囲には誰もいない。 
「だめだ…」 
そして、へたり込んでしまったAの不気味なしゃがれ声。 
「ひもじいよォ…」。 
私はぞっとした。

違う、いつものヤツじゃない。 
これはダルだ!子供の頃、年寄から聞いたダルに違いない。 
「山へ入った時、何でもいいから食べ物は一口残せ。山にはダルがおる。 
ダルに取っ憑かれたら腹が減って動けんようになって死んでしまう。 
そん時にな、何でもいいから口に入れたらダルが離れて助かるんじゃ。 
だから、山で弁当使う時は必ず一口残せ」 
そう、言聞かされた。 
本当か嘘か知らないし今までそんな目に遭った事はなかったが、山の方へ行く旅には 
なんとなく、赤ん坊の拳大のおむすびを2つ持って歩いている。 
これが多分それだ。とにかく急いでリュックからおむすびを取出し、Aの口の中へ 
ねじ込んだ。中身はAが死ぬほど嫌いなウメボシだが構っちゃいられない。 
飯団子と呼んでも良い程固められたそれを、Aはまるで蛇のように一飲み。 
「………」 
人間業ではない。 
恐怖に駆られた私は、もう一つのおむすびもAの口に放り込み、それが飲込まれるのも 
確かめないまま水筒を彼の口に押しつけた。 
大きく喉が動き、やがてAは自分の手で水筒を掴んで茶を飲み始め、次第に飲み干す 
速度がゆっくりとなって、ついにそれが止った。 
「ああー、旨かった」 
満足げに笑ったAの声が妙にダブって聞えた。
あれからずいぶん経つけれど、そんな目に遭った事は一度もない。 
今日も穂高は美しい。

皆様、長文失礼しました。

前の話へ

次の話へ