目覚め - 師匠シリーズ

952 :目覚め  ◆oJUBn2VTGE :2010/12/17(金) 23:26:24 ID:1sx/PKqt0

大学一回生の冬だった。 
そのころアパートで一人暮らしをしていた俺は、寝る時に豆電球だけを点けるようにしていた。 
実家にいたころは豆電球も点けないことが多かったが、
アパートでは一つだけあるベランダに面した窓に、厚手のカーテンをしていて、夜はいつもそれを隙間なく締め切っていた。
だから豆電球も消していると、夜中目が覚めた時に完全に真っ暗闇になってしまい、
電球の紐を探すのも手探りで、心細い思いをすることになるのだ。
それが嫌だったのだろう。

ある夜、いつものように明かりを落とし豆電球だけにして、ベッドに倒れ込んで眠りについた。
夜中の十二時くらいだったと思う。
それからどれくらい眠っただろうか。
意識の空白期間が突然終わり、頭が半分覚醒した。目が開いていることで、自分が目覚めたことを知る。 
あたりは夜の海の底のように静かだ。天井の豆電球が仄かに室内を照らしている。何時くらいだろうか。 
壁の掛け時計を見る。眼鏡がないと針がよく見えない。
短針が深夜の三時あたりを指しているようにも見えるが、
枕元のどこかにあるであろう、眼鏡を探すのもおっくうだった。
頭は覚めていても、身体はまだ命令を拒んでいる。 
ぼんやりとどうして目が覚めたのか考える。 
電話や目覚まし時計の音が鳴っていた痕跡はない。尿意もない。
最近の睡眠パターンを思い出しても実に規則的で、こんな変な時間に目が覚める必然性はなかった。 
いつも割と寝つきは良く、夜中に何度も目が覚めるようなことはなくて、朝までぐっすりということが多かったのだが…… 
それでもたまにあるこんな時には、得体の知れない恐怖心が心の奥底で騒ぐのを感じる。 
理由はない。
あるいは、無防備に意識を途絶えさせることに対する原初的な恐怖、ただ夜が怖いというその本能が蘇るのかも知れない。
ベッドで仰向けのまま、もう一度眠ろうとして目を閉じる。 
深く息をつくと、まどろみは自分のすぐ下にあった。 

翌日、師匠に会った時に、ふと思いついたことを言ってみた。オカルトに関して師と仰いでいる人だ。 
「目が覚めるとき、目を開けようと思ったかどうか、ねえ」 
師匠はさほど面白くもなさそうに繰り返した。 

「ええ。昨日の夜中に急に目が覚めて思ったんですけど。
 目を開ける前に先に意識が覚醒していて、その覚醒した意識で『目を開けよう』と思っているのか、
 それとも、目を開けた瞬間に意識が覚醒しているのか。
 どっちなのかと思いまして」
『どっちでもいいんじゃない』という顔をしたが、一応考えているようだ。 
「個人的には、目を閉じたまま『あ、今夢から醒めた』と思ったことはないなあ。でも人によるんじゃない?」 
「脳のどこかの反射で目が開いて、その目が開いたことで意識が覚醒する、とか」 
「さあねえ。でもそれなら、目が見えない人はどうなるんだ」 
そうか。そういう人たちは、夢から覚めても暗闇の中だ。つまり、目が覚める切っ掛けは視覚的なものではない。
でも普段視覚に頼っている自分たちが、その視覚を塞がれていたらどうだろうか。
眼球が外気に触れないように、完全にテープか何かで開かないようにしてから眠ってみると、
目が覚める瞬間はどのように知覚されるのか? 
考えていると興味が湧いて来て、今度試してみようと思った。 
「目が開くことが覚醒の切っ掛けなら、ずっと目覚めないかもよ」 
師匠がいやらしいことを言う。でも、それはそれで面白いと思う自分がいた。 
「でも」と師匠が言葉を切り、そして何気ない口調で続けた。 
「普段熟睡できている人が、夜中急に目が覚める理由なら知っている」 

その冬休みに、俺は実家に帰省した。
洗濯や食事の準備などしなくて済むという、実家の有りがたさを味わう日々だった。 
ある夜、自分にあてがわれていた和室に布団を敷いて寝ていると、夜中に目が覚めた。 
天井に木目が薄っすらと見える。豆電球に照らされているのだ。
だんだんはっきりしていく頭で、ここがアパートではなく実家だったことを思い出す。 
また目が覚めてしまった。ここしばらくはなかったのに。 
頭を動かすのもめんどくさくて、眼球だけで周囲を見回す。すべて布団に入った時のままだ。
俺が家を出たのを幸いに家族が荷物を放り込み、ちょっとした物置状態になっている。 
そのごちゃごちゃした衣装ケースや段ボール、使わなくなった棚などが、時が止まったようにひっそりとたたずんでいる。 
それを見るともなしに見ていると、自分の中にある感情が湧いてくるのを感じる。 
まただ。

どこからともなくやってくる、正体の分からない恐怖心。なにが、ではなく、ただ、怖い。 
そんな時は、枕元の眼鏡を探したくない。
何かが見えてしまうよりも、ぼんやりとした夜の海の底の世界の方がまだましだった。 
しかし次の瞬間、師匠の言葉が脳裏に蘇る。 
『夜中急に目が覚める理由なら知っている』 
…………
確かにそう言った。 
夜中に目が覚めて、どうして目覚めたのか分からない時がある。
レム睡眠とノンレム睡眠の繰り返しの中で、目が覚めやすい時間があるのか。
あるいは、自分でも気づいていない疲れで、眠りが浅くなることもあるのかも知れない。 
しかし師匠はこう言うのだ。
『夜中に急に目が覚めるのは、家の外に誰かが訪ねてきているからだよ』 
その言葉には、世の中の目に見えない真理を照らしているかのような、妖しい響きがあった。 
布団の中で固まったまま、呼吸が少し早くなる。
静かだ。
何時くらいだろう。壁の時計は部屋の奥だ。豆電球の明かりでは暗くて見えない。 
師匠の言葉の意味を考える。 
誰かが家の外にきている。だから目が覚める。 
そんなことを考えたこともなかった。
夜中目が覚めても、理由がなければまた眠るだけだ。わざわざ外を見に行くこともなかった。 
なのに。
心臓の音が体内に響く。布団が重い。のしかかるように。 
俺はゆっくりと身体を起こす。眼鏡はすぐそばにあった。空気が粘りつくように部屋を覆っている。 
恐怖心。
いつもの、ただ夜を恐れる原初的なものではない。もっと、なにか、忌わしいもの。 
ゆっくりと立ち上がり、摺り足で畳の軋む音を聞く。 
キシ……キシ……キシ……
庭に面した窓のあたりは板張りになっている。窓に掛かった重いカーテンが外と内とを閉ざしている。 
息をのんで、そっとカーテンの生地を掴む。窓の端から外を覗き込む。 

一瞬、窓ガラスの表面から夜の冷気が流れてくる。吐く息でガラスが白く曇った。 
パジャマの袖でそれを拭うと、ささやかな庭と植木、そしてブロック塀の向こうの道路が見える。寝静まる住宅街。
豆電球の暗い黄色の明かりとは違う、細い針のような月の光が、かすかにそれらを照らしている。 
庭を横断する石畳の筋。それを囲む背の低い芝生。その向こうに玄関の門。 
誰かいる。
冷たく高まる鼓動を聞きながら、ガラスに顔を近づける。冷たい空気が頬を撫でた。 
門の石柱の前に立たったまま、チャイムを鳴らすでもなく、庭に入り込もうとするでもなく、その誰かは身動き一つしない。 
『夜中に急に目が覚めるのは、家の外に誰かが訪ねてきているからだよ』 
………… 
一度も外を覗いたことはなかった。 
本当はその度ごと、こんな風に誰かが外に立っていたのだろうか。 
吐く息が冷たい。身体中が悪寒に震えている。 
雲の切れ間が変わったのか、一瞬、その誰かの顔を冴えざえとした月光が浮かび上がらせた。 
虚ろな顔。男。覚えはないが、なぜか懐かしい。 
そう言えば小学校の同級生に、似た顔の子がいたような気がする。大きくなればこんな顔だろうか。 
男は月の光に怯えたように、顔をゆっくりと左右に振る。
そして後ろを向くと、肩を落として歩み去って行った。闇の中へ。消え入るように。
近くの森に棲む山鳩の、ほうほう、という声が聞こえる。 
自分が眠ってさえいれば、そして寝床から出さえしなければ、誰も知らなかったはずの光景が、そうして終わった。
カーテンを戻し、窓際を離れてもう一度布団に向かう。 
知らなくていいことは、知らずにいよう。 
そう思った。

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