喫茶店の話 - 師匠シリーズ

321 :喫茶店の話 ◆oJUBn2VTGE:2009/03/15(日) 21:16:05 ID:kR+moc+u0 

師匠の部屋のドアを開けるなり俺は言った。 
「い、いました。いました。いましたよ」 
師匠は寝起きのような顔で床に広げた新聞を読んでいたが、めんどくさそうに視線を上げる。 
「まあ落ち着け。なにがいたんだ。……その前にドア閉めて。さむい」 
急いで来たので身体が温まっている今の俺には感じないが、今日はかなり冷え込んでいるらしい。 
「いたんですよ」
靴を脱ぎドアを閉めた俺は、師匠の前に滑り込むように座った。 
「なにが」
「愛想の悪いウエイトレスが」
「へえ、そう」
師匠はまた目を落とし、新聞紙を一枚めくる。 
俺は目の前の人間が、どうしてこんなに落ち着いていられるのか分からず、
苛立ちが足から頭まで駆け回るのを抑えられなかった。 
「へえ、そうって、冷静な振りしても無駄ですよ」 
後から考えると、かなり無茶なことを言っていたが、
伝えたつもりの情報と、相手に伝わった情報の、格差のことを考えるゆとりがなかったのも事実だった。 
「京介さんのバイト先、見つけたんですよ」
「なに?」
師匠が顔を突き出す。そして、「どこだ」と言いながら新聞を畳む。 
「だから、喫茶店です。ウエイトレスを……」
説明も半ばで師匠は凄い勢いで立ち上がり、その場でぐるぐる歩き回り始めた。 
「喫茶店と言ったね。どこだ。入ったのか?」 
俺はついさっきあったことを説明する。 
美味いという評判のラーメン屋を探して街なかを歩いている時に、
通り掛かった喫茶店の前で、京介さんらしき人を見つけたのだ。 

思わず身を隠してそちらを伺うと、店の入り口のそばに置いてある観葉植物に、水を遣っているところだった。
それも、普段見たことのないスカート姿に、白い前掛けをしている。 
フリーターをしている京介さんのバイト先は二つあるらしいのだが、どちらも教えてくれなかった。
知ったからといって、別に嫌がらせをしに行くわけでもなし、なぜ教えてくれないのか分からなかったが、
ずっと気になっていた。
その現場をついに押さえてしまったのだ。 
俺はドキドキしながら電信柱の影から様子を見ていると、
出入り口のドアが開き、中から客らしき中年の男性が出てきた。 
男性は外でジョウロを持っている京介さんに、片手を上げて声を掛けた。 
京介さんはほんのわずか、そうと言われないと分からない程度に頭を下げて、ボソリと返事をする。 
男性は苦笑するような表情を浮かべて去っていった。
やがて京介さんが店の中に消えると、俺はとんでもない秘密を見つけてしまったような気がして、
逸る気持ちを抑えきれずに、師匠の家まで飛んで来たのだった。 

そんなことを身振り手振りで説明すると、師匠は目を輝かせて言った。 
「僕は子どものころから、こう言われて育ったんだ。
 『どんなことでも一生懸命やりなさい。人の嫌がるようなことを進んでやりなさい』ってね」 
そこで言葉を切り、迷いのない爽やかな笑顔を浮かべる。 
「行くぞ。嫌がらせをしに」 
これか。
俺はその瞬間にすべてが分かってしまった。 
師匠は急に跳ね上がった異様なテンションのまま、部屋の中を這いずり始めた。 
なにをしているのかと見ている俺の前で、
座布団をめくったり、部屋の隅の古新聞の束をどかしたりと、忙しなく動いている。

そして、台所に置いてあった紙で出来た家を取り上げて覗き込み、吐き捨てるようにこう言った。 
「こんな時に限っていないなんて!」 
俺はそれを聞いて尻の座りが悪くなった。 
畳を叩いて悔しがっていた師匠だが、外から雨音が聞こえ始めたのきっかけに、
何ごとか悪巧みを練るような顔をしていたかと思うと、押入れに首を突っ込んだ。 
俺は窓辺に立ち、「ええー。傘持ってきてねぇよ」と呟く。 
けれど、せっかく水を遣ったのに京介さんも間が悪いな、と思うと少し微笑ましかった。 
「どうだ、まだ降りそうか」
師匠が押入れからなにかけったいなものを取り出してきてそう言う。 
「さあ、たぶん」
ふん、と頷くと、それを身に着け始める。藁で出来た身体を覆う服。
蓑だ。それに笠。 
いつの時代の人かと思うような奇態な格好だ。 
「いいかい。僕はその店に入るなりこれを脱ぐ。それで、ビショビショのこれを掛ける場所を店内に探す。 
 そしたらやっこさんが、『困りますお客様』ってやって来るから、
 おまえは、『この店は雨具を掛ける場所もないのか』って怒鳴るんだ」 
「嫌です」
「そうか。では、一人で演ずるとしよう」 
テキパキと蓑笠を身に着け終った師匠は、踊り出さんばかりの足取りでドアに向かう。 
「あ、僕の傘、使っていいから」
俺は、この人を止めるべきか、一緒に楽しむべきか、判断に迷いながら部屋を出た。 

その店は繁華街から少し外れた場所にあった。 
薄汚れた雑居ビルが立ち並ぶ一角で、雨の中にあるとその周囲はすべて灰色のモノトーンに包まれているようだった。

空は一層暗くなり、雨はまだ降り続きそうな気配だ。 
俺は傘を持っていない方の手で、その三階建てのビルを指差す。 
後ろに立っている人物が頷く。
蓑と笠の風変わりな出で立ちに、通り掛かった人が遠慮がちな視線を向けてくる。 
どうぞ見てください。それではっきり言ってやって下さい。おかしいって。 
雨脚が強くなった。
ズボンの足元が濡れて来て、嫌な感触が広がり始める。 
なんでもいいから早く入ろうと足を速めた時、隣の師匠がハッとしたように動きを止めた。 
喫茶店はもう目と鼻の先だ。どうしたんだろうと師匠を伺うと、その顔つきが変わっている。
上ずったような熱気が急に冷めたようだった。
「どうしたんです」
そう問い掛けるのもためらわれるような変化だった。 
師匠は喫茶店の店構えを見つめ、それからビル全体を眺める。つられて俺も傘を上げた。 
なんの変哲もない雑居ビルだ。 
喫茶店は『ボストン』という名前らしく、入り口にそんな看板があった。
すりガラスが嵌っているドアからは、中の様子が伺えない。
小さな窓はあったが、内側に帆船の模型のようなものが飾ってあって、同じく中は見えない。 
ビルの二階の窓には、消費者金融の名前が出ている。
そして三階には、なんとか調査事務所という控えめな看板が掛かっていた。 
「ここなのか」
師匠は呟くように言った。
ゆるやかな円錐形をした笠の縁から、雨が流れ落ちていく。 
その流れの向こうに、深く沈んだような瞳があった。 
俺は何も言えずに、二人並んで降りしきる雨の中にずっと佇んでいた。 
まだ訊けない、重い過去への扉が、その向こうにあるような気がした。

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