雨上がり - 師匠シリーズ

450 :雨上がり  ◆oJUBn2VTGE :2007/03/07(水) 23:05:24 ID:OPG460nV0

昨日から降っていた雨が朝がたに止み、道沿いにはキラキラと輝く水溜りがいくつもできていた。
大学2回生の春。梅雨にはまだ少し早い。
大気の層を透過してやわらかく降り注ぐ光。
軽い足どりで歩道を行く。

陽だまりの中にたたずむようにバス停があり、ふっと息を吐いて木目も鮮やかなベンチに腰を掛ける。
端の方にすでに一人座っている人がいた。
一瞬、知っている人のような気がして驚いたが、すぐに別人だとわかり深く座りなおす。
髪型も全然違う。それにあの人がここにいるはずはないのだから。
バスを待つ間、あの人に初めて会ったのは今ごろの季節だっただろうかと、ふと思う。
いや、確かもう梅雨が始まっていたころだった。1年たらず前。
彼女は別の世界へ通じるドアを開けてくれた人の一人だった。
そのドアを通して、普通の世界に生きている人間が、何年掛かったって体験できないようなものを見たり、味わったりしてきた。
もちろんドアなんてただの暗喩だ。けれどそれが、そこにあるもののよう感じていたのも事実だった。
そのドアのひとつが閉じた。もう開くことはないだろう。
春が来たころひっそりと仕舞い込まれる冬色の物のように、彼女は去っていった。
そのことを思うと、ひどく感傷的になる自分がいる。
結局、気持ちを伝えることはできなかった。
それが心の深い場所に澱のように溜まり、そして渦巻いている。

目の前でカラスが一羽、鳴いて飛び立った。
だれも通る者もいない春のバス停で、まどろむようにそんなことを考えている。
「夢を見るということは、   に似ているわ」
空からピアノの音色が聞こえた。そんな気がした。
ベンチの端に座っている女性が、前を向いたままもう一度言った。
「夢を見るということは、   にも似ている」
春のやわらかな地面から、氷が沸いてくるような感覚があった。
それがミシミシと心臓を締めつけはじめる。
急に錆付いたように動かなくなった首を、それでもわずかに巡らせて横を見る。
顔を覆うかのような長い黒髪の女性。
空色のワンピースからすらりと伸びた足が、かなりの長身を思わせる。
もう一度言った。
「夢を見るということは、    」
また一部分が聞こえない。
いや、聞こえているのに、頭の中で認識されないような、不思議な感覚。
彼女は目を閉じている。
「あなたは誰ですか」
わかっていた。
大脳のなかの古い動物的な部分が反応している。彼女が誰なのか知っていると。
「あの子が持っているものが欲しかった。手に入れても手に入れても、蜃気楼のように消えた。
 これも、あの子と同じ長さにしたつもりだったのだけれど」
彼女は左手で髪に触れた。細く、しなやかな指だった。

「たったひとつしかないものを永遠に手に入れるには、方法はたったひとつしかない。
 いちどはそれに届いたと思ったのに」
この雨上がりの清浄な空気に、あまりに似つかわしい涼やかな声だった。
「あの手ざわりがまぼろしだったなんて」
すっと手を下ろした。
目を閉じたまま前を向いている。
その横顔から目を逸らせない。
わかりはじめた。
同じ長さだったのだろう。彼女にとって。
あの日、あの人は自分の『半身』を失った。
その謎が今解けた。
「目が……」
見えないんですね。
そう言おうとして、言葉が宙に消えた。
喋っているのに、頭の中で認識されないような感覚。
肯定するように、白い手がベンチの上に寝かせている杖を引き寄せる。
「あの子のたったひとつしかないものは手に入らなかったけれど、かわりにすばらしい世界をもらったわ」
音楽のように言葉が耳をくすぐる。
まるで麻薬だ。
その声をもっと聞きたい。壊れやすい宝石のように会話は続く。
「夜がその入り口になり、わたしは恋を知った少女のように新しい世界を俟っている。
 眠りが卵になり、わたしはそれを抱いてあたためる。そして夢を見るということは    」
言葉が消える。
けれどわかる。
彼女はあの人の悪夢を手に入れたのだ。

悪夢を食べるという悪魔が呼ぶ悪夢。あの人を苦しめてきた悪夢。
あの強い人が、どんなことがあっても、もう二度と、ただの一度でも見たくないと言った、その悪夢を。
彼女はなにかを呟いている。聞こえているのに聞こえない。まるで現実感がない。
太股を抓ろうとして躊躇する。彼女がそれを待っているような気がして。
あの人の『半身』は、彼女によって消滅させられた。彼女はそれをあの人だと思っていたのだ。
あの人が『少し若くみえる私』と表現していたのを思い出す。
つまり、あの人にしか見えず、触れず、知覚できなかった『半身』は、
いつか喫茶店の誰もいない椅子に座っていたその『半身』は、
髪が長かったころのあの人の姿をしていたのだろう。
目が見えず、手が触れられない場所にいた彼女は、
人知の及ばない何らかの方法でその『半身』を見、そして捕らえた。
あの人を手に入れたつもりで。
そして『半身』と『悪夢』は消えた。
あの人は、あの人を長年苦しめ惑わせたふたつのものから、同時に解き放たれた。
そして去っていった。
「ラ・マンチャの男はあいかわらずかしら」
美しい旋律のような声が踊る。すぐにその言葉の意味を理解する。
ナイトだと言いたいのだろう。あの人を守った人物のことを。
「あいかわらず法螺を吹いています」
少し上擦ってしまったその言葉に、彼女は満足したようにかすかに頷く。
今にして考えることであるが、彼女が彼のことをラ・マンチャの男に例えた裏には、
あの人の、ドルシネア姫でありながら、またアルドンサでもあるという2面性を暗に物語っている。
このことは、のちに彼の秘密に近づいたとき、その真の意味を知ることになるのだが、それはまた別の話だ。

沈黙があった。
少し前に飛び立ったカラスの気持ちがわかる。
いまこのバス停の周囲には、二人のほか動くものの影ひとつない。
ただやわらかな大気に包まれているだけだ。

彼女のいる方向を「空間が歪んでいる」と、以前あの人が語ったことを思い出す。
目を閉じたままでいると、まるで眠っているように穏やかな横顔だった。
彼女は少なくとも、高校時代には盲目ではなかったはずだ。
いったいなぜ視力を失うに至ったか、想像することも躊躇われる。
もし視力を失っていなければ、そして奇跡のような取り違えが起こらなければ、とてもあの人や彼が敵う相手ではなかった。
推測などではなく、わかるのである。
格などという言葉は使いたくない。使いたくはないけれど、つまりそういうことなのだった。

排ガスの匂いをまといながらバスがやって来た。
その瞬間に、このバス停を覆っていた不思議な膜のような空気が、霧消したような錯覚があった。
解放されたのだろう。
少し離れてバスは止まり、ドアが開いた。
自分が乗るつもりだったバスだろうか。
なぜか思い出せない。どこに行こうとしていたのか。
しかし、これに乗らなくてはならない。そんな気がした。
ベンチから立ち上がり、笑いそうな膝を奮い立たせて歩く。
「これを」
彼女がそう言ってすっきりと伸びた首元から、ペンダントのようなものを取り出した。
タリスマンだ。
あの人が以前、五色地図のタリスマンと呼んだ物。
「どこかに捨てて。もうわたしにはいらないものだから」
彼女がはじめてこちらを向いた。
足をとめ、正面からその顔を見る。

「さあ」と言って手を伸ばし、目を閉じたまま微笑を浮かべるその顔を、生涯忘れることはないだろう。
こんなに綺麗な人を見たことがない。
このあとの人生の中でどんなに美しい人を見たとしても、あれほどの深い感動を受けることはないと思う。
吸血鬼と謗られたことなどまるでとるに足りない。
そんな言葉では彼女の側面を語ることさえできない。そう思った。
「さあ」
もう一度彼女は笑うように言う。
震える手で受け取った。
ジャラリと鎖が鳴る。かすかに錆の匂いがした。
不思議な模様が円形のプレートの一面に描かれている。けれど、それだけだ。
『この世にあってはならない形をしている』と称された物とはとても思えない。
平面に描かれたどんな地図も、必ず4色以内で塗り分けられるという。
試すまでもなくわかる。きっとこれも4色ですんなりと塗り分けられるのだろう。
少なくとも彼女の手を離れた今は。
遠慮がちにクラクションが鳴らされる。
昇降口にそっと足を掛ける。2度と会うことはないだろう彼女に背を向けて。
乾いた空気の音とともに扉が閉まる。
別の世界へ通じるドアがまたひとつ閉じたのだった。

やがて間の抜けたテープの音が次の目的地を告げる。
動き出したバスに揺られ、衝動的に振り返った。
彼女がまるで最初からいなかったかのように消えてしまっている気がして。
けれど揺れる視界の中で、一枚の絵のように切り取られた窓の中で、遠ざかりつつある雨上がりのバス停に彼女はいる。
そしてベンチから立ち上がり、白い杖をついて、ゆっくりと、ゆっくりと歩き出そうとしている。
その細く長い足が、戸惑うような頼りない足取りで水溜りを跳ね、それが淡く銀色に輝いて見えた。
彼女を見た最後だった。

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