幽霊物件- 師匠シリーズ

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2014年6月8日 01:58

師匠から聞いた話だ。


大学2回生の春だった。
僕はバイト先の興信所である小川調査事務所のデスクに腰掛けて、所長ととりとめもない話をしていた。
「鮭のムニエルならいいんですよ。鮭のムニエルなら」
「いや、他のムニエルも駄目ってわけじゃないよ」
「ええ、それはそうですよ。まあなんでもそれなりに美味いわけですし」
「しかし、なんでもムニエルにすれば良いってもんじゃないよね」
「それですよ。結局」
お互いの溜め息を聞いて、顔を見合わせる。
さっきからやり玉に上がっているのは、僕の調査員のバイトの先輩である加奈子さんの手料理のことだった。
加奈子さんは生活費に困窮すると、人に食べ物をたかる悪癖があった。ただ奢らせるわけではなく、一応手ずから料理は作ってくれる。その料理の腕もそれなりに上手いので、けっして悪い気はしない。ところが、基本的にめんどくさがりなので、いつも似たようなメニューになるのだ。それがムニエルだった。
もともと魚が好きらしいのだが、とにかく調理方法といえば切り身に小麦粉をまぶしてバターで両面をカリッと焼く、ムニエル。ムニエル。ムニエル。ひたすらにムニエルなのだ。
定番の鮭のムニエルに、サバのムニエル。アジのムニエルに、タラのムニエル。ヒラメにカレイにスズキにタイ……。
とにかくなんでも小麦をまぶしてバターで焼き、レモン汁をぶっかければいいという実に短絡的な料理ばかりなのだ。
確かに簡単な料理なのであまりハズレはないのだが、さすがにこうもムニエルばかりだと、一緒に食べているこっちはその常習性に閉口してくる。それどころか、もはやなんの魚なのかよくわからないものまでムニエルとして出してくるのだ。
「ボクはムニエルのムニエルというのを食わされたことがあるよ」
所長の小川さんがボソリと言った。
加奈子さんはこの小川調査事務所のオフィスでも、据付の台所を使って料理を作ることがあるのだが、やはりムニエルばかり出してくる。
「僕なんかムニエルを食べさせられました」
「ム……ムニエルを?」
お互い絶句して、(何のだよ)という突っ込みをあえて飲み込んだまま沈黙が流れた。
その加奈子さんは今、タカヤ総合リサーチという大手興信所に依頼人を迎えに行っている。そこは小川所長が昔所属していた興信所で、独立した今でも付き合いがあり、ときどき仕事を回してもらっているのだ。
ただし、ただの依頼ではない。この業界では『オバケ』と呼ばれる、どこにも相手にされないような奇妙な依頼だ。今回の件も、タカヤ総合リサーチに持ち込まれたおかしな依頼に対し、普通ならやんわりとお断りしてお引取りいただくところを、市川さんというベテラン事務員の機転でこちらに連絡をもらったのだった。
『オバケ』事案専門の調査員である加奈子さんなら、なんとかできるかも知れないという希望的観測のために。
ムニエルを作る人、という肩書き以上に僕は、このオカルト道の師匠でもある彼女の行動に、発想に、思考に、信念に、そして推理に、ゾクゾクするような期待を抱いている。
「あ、帰ってきたな」
所長の言葉に振り向くと、階段を登ってくる二人分の足音が聞こえてきた。

◆

「で、結局どうなさりたいんですか」
小川所長が額に手をやって髪をかき上げる仕草をした。『まいったな』というときにするポーズだ。確かに、今回の依頼はただの依頼ではなかった。隣で聞いている師匠も難しい顔をしている。
「だから、僕の借りてる部屋に幽霊がいる。ルームシェアと同じ状態だから、遺族に半分家賃を負担させたい。簡単な理屈でしょう」
応接机の向かいに座る男は、苛立ってそう繰り返した。
依頼人のその男は三好健二という名前で、30歳独身。1ヵ月ほど前から、市内のあるアパートの1階に越してきて、住み始めたのであるが、その部屋に幽霊が出たのだそうだ。
驚いて、紹介した不動産屋に文句を言いに行くと、幽霊が出るなどという話に、まったく取り合ってくれない。嘘だというなら見にこい、と言って無理やり不動産屋の親父を部屋に連れてきたものの、どこにもそんなものは見えないと言われ、いい加減にしてくれと逆切れをされる始末。
『そんなにこの部屋が気に食わないなら、出て行けばいいでしょう』
不動産屋は、今なら敷金を全額そのまま返すとまで言ったのだが、依頼人の三好は部屋から出ることを拒んだ。理由は、勤務先であるスーパーマーケットと目と鼻の先にあるこの物件を、やっと見つけたばかりだというのに、幽霊ごときのために手放したくない、というものだった。
幽霊をなんとかしてくれ、と言っても、そもそもそんなものはいない、という不動産屋とのやりとりでは埒が明かず、ついに彼が出した結論は、勝手に居座っている幽霊にも部屋代を半分出させるという、おかしな落としどころだった。
「あの部屋で死んだ人の幽霊ですよ。間違いなく。そういう事故物件って、貸すときには事前に説明しないといけないはずでしょう。それを黙って貸しといて、バレた後で気に食わないなら出て行けって。そりゃあ横暴ってもんですよ、横暴」
三好はテーブルをバン、と叩いた。
「まあ、落ち着いてください」
小川所長が、やんわりとそう言って今の衝撃で少しこぼれたお茶を持ち上げ、おしぼりでテーブルをサッと拭いてから、もう一度差し出した。
「……すみません」
三好は鼻息を吐き出してから、お茶に手を伸ばして口をつけた。
彼がお茶を置くのを待ってから、師匠が口を開いた。
「不動産屋は、その部屋で人が死んだということ自体を認めていないんですか」
「そうですよ。人が死んだりしたことなんてなかったって」
「なのに、部屋に幽霊が出るんですか」
「疑っているのか!」
「いやいや、そういうわけじゃないですよ。私もそういう幽霊がらみの話は専門ですし」
小川調査事務所を訪ねてくる『オバケ』事案の依頼人は、たいていほかの興信所を門前払いされてから、最後の最後に流れ着くようにしてやってくるので、信じてもらえないということに関して非常にコンプレックスを持っている。なので、いつも気を使うところだった。
しかし、だからと言ってそんな話を鵜呑みにできるわけはない。なにかの見間違いや、ただの気の迷いということだって、往々にしてあるのだから。
「ええと、その、事故物件のことですがね」と小川さんが言った。
「宅建法に『重要事項説明義務』って言うのがありましてね。まあ、よくトラブルになるんですけど、そういう死亡事故があったとかいうようなことは、賃貸借契約における主観的瑕疵というものになりうるので、契約に際して、借り主に説明をしないといけないということになっています」
「俺も自分で調べたけど、書面で交付しないといけないんでしょ。もらってないですよ。そんな書類」
「いや、ちょっと違いますね。直接35条の案件だったらそうですけど、例えば自殺みたいな不慮の死亡事故の場合は、47条のほうの告知義務になって、口頭でもOKのはずです」
「なんだかよくわかんないけど、口頭でも聞いてないよ!」
「ええと。よく言われるんですけど、1人挟めば2人目はOKっていう慣例がありましてね。その部屋で死亡事故があっても、次に借りる人にさえ説明すれば、さらにその次の人が借りる時には説明しなくていいっていう基準があるんですよ。次の人で問題がなければ、いつまでも延々と引きずらなくてもいいでしょっ、てことでそういう慣習になってるみたいです。まあこれも正確には根拠のないガイドラインみたいなもので、それなら訴えられても大丈夫かなという程度のものらしいですけどね。借りた人数にかかわらず、5年は実質的に告知義務がある、とかいう話も聞いたことありますけど、とにかくこの街の不動産屋はだいたい、1人挟めば2人目はOK、ってことでやってるみたいですよ」
「そんな横着なこと許されないでしょ!」
三好はまた興奮して身を乗り出した。
「いや、まあそれも自発的に説明するかどうかという話だから、三好さんがそういう事実があったのかきちんと問い合わせているのに、嘘をついて隠しているというのは完全にアウトだと思いますよ。それは不動産屋もわかってるはずですけどね」
「だったらどういうことなんですか」
「……」
ようするに、実際のところその部屋でそんな人死にがでるようなことはなかった、ということではないだろうか。
小川さんもはっきりそう言うべきか、迷っているような表情を浮かべていた。
「とにかく、現に幽霊は出るんですよ。俺の部屋に。お札とかもらってきて、貼り付けても全然効きやしない。追い出せないなら、遺族にそいつの家賃分を肩代わりさせないと気が済まないんだよ。家賃っていう名目じゃなくても、迷惑料でもなんでもいいよ。なのに、不動産屋の親父がなにも教えてくれないから、どこに言いに行けばいいかもわからないんだ!」
三好は大きな声で言いたいことを言い切ったからか、少し満足げな顔をして、椅子に深く掛けなおした。
「ね。だから、探して欲しいんですよ。幽霊の遺族を。別に幽霊を問い詰めろなんて言いませんよ。現にそこで人が死んでるなら、調べればわかるはずでしょ。興信所なら」
気持ちの悪い猫撫で声でそう言う三好に、小川さんは苦笑いを浮かべてから師匠の方を見た。
「では、ご依頼はその部屋で死んだ人の遺族を探し出す、ということでよろしいですね」
多少回り道をしたが、依頼内容を整理すると、わりに耳慣れたものになった気がする。
師匠の言葉にようやく三好は頷いて、「お願いします」と言った。

◆


しかし、この依頼人はどこかズレている、というか変なところでクソ度胸が据わっているなあ、と僕は感心してしまった。
幽霊が出るのには目を瞑るから、遺族から迷惑料をせしめたいというのだ。幽霊が出るとわかっていながら、そこで住み続けようという神経が信じられない。
聞くと、やはり子どものころからそういう幽霊のたぐいはよく見るのだそうだ。霊感が高じて、どこかが麻痺してしまっているのだろうか。
料金の説明などをしたあと、調査に係る契約書を交わした。
「今から部屋に伺ってもいいですか」
師匠がそう提案すると、三好は頷いた。事務所の壁掛け時計を見ると、まだ昼の三時だった。まだ幽霊が出る時間帯ではないかも知れないが、師匠なら昼間でもそういう存在を見ることができる可能性が高い。もちろん、本当にその部屋に幽霊がでるとすれば、であるが。
そうして小川所長を残し、依頼人の三好と師匠と助手の僕、という3人で問題のアパートへと向かった。結構遠かったが、三好が歩いてきていたので、帰りのための自転車を押しながら一緒に歩いて行くことにした。
道々、師匠はいくつかの質問を依頼人にぶつけた。
「その部屋にあなたが入る前に住んでいた人のことは調べたんですか」
「ああ。不動産屋に、前の住人がどこのだれで、いったどこへ引っ越していったのかを訊いたんだけど、個人情報だからとか眠たいことヌカしやがって、どうしても教えてくれないんだよ。仕方ないから、両隣の部屋の人とかに訊いたら、なんか近くの弁当屋でパートをしてた、五十歳くらいのおばさんが1人で住んでたって」
「そのおばさんが……ってことはないんですか」僕がそう訊くと、三好は首を横に振った。
「その幽霊、おばさんじゃないから」
さっきも事務所で師匠が、具体的にどういう幽霊が出るのか訊ねても妙に歯切れが悪かったが、やはりあいまいなことしか言わない。
なぜだろうと訝しく思っていると、師匠が続ける。
「そのパートのおばさんに、話を訊きにいってはいなんですね」
「ああ。どこに行ったか知らないし。でも、それはあんたらの仕事のうちに入るだろ」
師匠は頷いた。
「そのアパートの他の住民たちも、あなたの部屋で幽霊が出ることについて、なにか知っているようなことはなかったんですね」
「そうだよ。だれか死んだなんて話は聞いたことがないって、みんな言っている」
いらいらした様子で三好は自分の頭を指さし、くるくると回してみせた。そのまま強張った半笑いで、なにか言おうとしていたが、結局なにも言わずに黙った。
やがて僕らは問題のアパートに到着した。建てられてから20年は経っていそうな、2階建ての木造アパートだった。住宅街の一角にあり、近くにも似たようなアパートがいくつか散らばっている。
「この部屋だよ」
4部屋ある1階の、右から2番目のドアに向かって近づいて行き、三好は鍵を開けた。
「散らかってるけど」
そう言って玄関で靴を脱いだ三好に続いて、僕らはドアのなかへ入った。
師匠が靴を脱ぎながら言う。
「昼間でも見えることはありますか」
三好はその言葉に振り返り、「さあ」と言って、またはぐらかすような強張った表情を浮かべると、「どうぞ」と僕らを室内へ誘った。
散らかっているとは言ったが、玄関から入ってすぐの台所は綺麗に片付けられていて、食器の洗い物などは見当たらなかった。
しかし部屋に入って僕はすぐに気づいた。その部屋全体を覆う、なんとも言えない薄暗さに。台所の左手には風呂場とトイレのドアがある。そして正面には居間へ通じるドアがあった。上半分に四角いすりガラスが嵌っている。
そのガラス越しに漂ってくる暗さは、今がよく晴れた昼の3時過ぎだということを、一瞬忘れさせるような気がした。
確かに薄気味が悪い感じだ。
師匠の横顔を窺うと、少し緊張したような面持ちで、足音を殺すようにしてそろそろと進んで行く。
三好が正面のドアノブを回して、その向こうの部屋に入っていった。僕らもそれに続く。
そこは洋間で、8畳ほどの広さのなかに、あまり多くない家具類が収まっていて、一見してゆったりとした印象を受けた。その向こうはベランダへ通じる窓だ。1Kということになるが、単身者には十分な広さの部屋に思えた。
しかし、窓から漏れる光は暗い。窓のカーテンに落ちる黒い影は、向かいの建物が遮蔽物となっているためにできているようだ。
「すぐそばに4階建てのマンションがあってな。日当たりが悪いんだ」
僕の視線に気づいたのか、三好が自嘲気味にそう言った。
師匠と僕はさらに1歩、2歩と進んで居間に足を踏み入れ、慎重になかを見回した。確かに明かりをつけていない部屋は薄暗く、どことなく気味が悪かった。生唾を飲んでドキドキしながら幽霊の痕跡を見つけようとしたが、そういうものはどこにも見当たらなかった。
少しホッとして、僕は口を開いた。
「この部屋、ひと月いくらぐらいなんですか」
「共益費入れて5万弱だな」
5万円か。日当たりは悪そうだけど、駅からもそんなに遠くないし、室内も意外と小綺麗で、そこそこいい物件のようだ。自分の職場からも近いとなると、確かに手放したくないという気持ちもわかる気がする。
「カーテン開けていいですか」
僕がそう言うと、三好は「ああ」と言って自分から窓に近づいた。カーテンを開け、窓のロックを外す。
サッシの上を窓ガラスが滑り、外の光こそあまり射し込んではこなかったが、気持ちのよい風が室内に入ってきた。
やや肌寒い風が頬を撫で、吹き抜けていく。
そうして生まれた空気の流れで、入ってきた部屋のドアが背後でバタンと閉まる音がする。
なにも喋らなかった師匠がその瞬間に振り返る。僕もつられてゆっくりと振り向くと、閉じたドアの前に首吊り死体がぶらさがっていた。
「えっ」
思わず後ずさり、転びそうになる。まったく予期していなかった光景に、心臓が爆発するように鳴る。首吊り死体だと?
「こ、こんな」
絶句した僕の横で、師匠が身構えたまま好奇の笑みを浮かべる。
「ほんとに、見えるんだ」
三好が強張った声をあげる。
こいつ、試しやがった!
幽霊について多くを語らなかったあの態度は、本当に僕らが幽霊を見ることができるのか確かめるためだったのだ。
首吊り死体は、この世のものではなかった。物質として、そこにぶらさがっているわけではない。だが、伸びた首、伸びた舌、表面に膜が張ったように光を失った瞳…… どれもそこにありありと見えるのだった。
ゾクゾクする悪寒に、足が竦む。
首吊り死体の霊からはなんの意思も感じられない。まるでただ、冷たい肉の塊としてそこにあるようだ。
「こいつか」
師匠が、首吊り死体の霊から視線を逸らさずに訊ねる。
「そう」
「こうしているだけなのか」
「そうだよ」
「昼も、夜も?」
「いや、昼間に見えるのは珍しいな。だいたい夜だ」
「ずっといるのか」
「出たり、消えたりだ」
師匠からさっきまでの依頼人に対する敬語が消し飛んでいたが、真剣な口調に違和感がまったくなかった。
霊は女だった。髪が肩まであって、それが顔に掛かっているが、まだ若い女だということはわかった。師匠がゆっくりとドアに近づき、その顔を下から覗き込む。頭はドアの上部、天辺に近い位置にある。霊はそのドアに背中をぴったりつける形で首を吊っていたが、いったいどうやっているのだろう。
もやもやと不安定に霊体の輪郭がぶれるなか、僕は目を擦りながらもっとよく見ようと意識を集中した。すると、彼女の首に掛かった細い紐のようなものが、その頭上に伸びていて、ドアと天井とのわずかな隙間から向こう側へと消えていた。
師匠が慎重な手つきで、彼女の体の脇にあるドアノブを握ると、静かにこちら側へ引いた。首吊り死体の霊をぶらさげたドアは、まるでなんの荷重もないかのようにゆっくりと開いていった。
ドアの上部の隙間へ消えていた紐の続きは、台所側には存在していなかった。どうやら霊は、居間の側にしか現れていないようだ。
しかし師匠は、首吊りの構造を把握したらしい。
「台所側のドアノブに紐の先端を括りつけ、ドアの天辺を通すことで、そこを支点にして体重を支える構造だな。で、ドアを閉じてから、たぶんこっちの居間の側のドアのすぐそばで椅子かなにかを台代わりにして立ち、天井にできるだけ近く頭を持ってきておいて、喉の下に通して輪っかにした紐の先端をキツく調整してから、その台を蹴ったと。こういう手順だな」
なるほど。それなら1人でも首を吊れるし、ドアを動かしても首吊り死体は落ちたりしない。
僕が頷くその横で、依頼人が感心した様子で口を尖らすような表情を浮かべた。すりガラスの向こうが嫌に暗かったのは、死体の霊の背中がそれを覆っていたからなのか。
師匠は再びゆっくりとドアを閉め、居間のなかほどに3人並んで立った。
「これ以上のことは、なにも起こらないんだな」
「そう」
「それにしても、あんた、いい根性してるな」
そうだ。こんな気持ちの悪い霊と1ヵ月も同居しているなんて。
「最初は寝られなかったさ。友だちの家に泊めてもらったりして。でももう慣れた」
変に自慢げな口調に、師匠は同調をせず、むしろ諌めるように言った。
「いや、こんな状況はまずい。いつからこの霊がこうしているのか知らないが、いずれ変質する可能性はある」
「へ、変質って……」
男は不安げに師匠を見る。
「昼間からこんなにはっきり出る霊は、かなり強い存在理由を持っている。簡単には消えていかないし、状況からして完全にこの部屋に地縛している。今はなんの意志も感じられなくても、今後もずっとそうかなんてなんの保証もない。たとえば夜寝ているときに……」
師匠はそう言って、三好に右手を伸ばした。
「手が自分の方へ伸びてきたら、どうする」
「よ、よせ」
三好は師匠の右手を避けるようにあとずさった。
「まあ、根本的な解決ができるかどうかわからないけど、この霊が生前ここで首を吊った経緯を調べないと、どうにもならないな。とりあえず予定通り、彼女が何者なのかを調べるとしよう」
僕はその霊を前にして平然と喋っている師匠を、信じられない思いで見ていた。そのドアにぶら下がった姿を見ていると寒気が止まらず、早くこの部屋から出たくてたまらなかった。
しかし師匠は霊に近づいて、よりじっくりと観察を始めた。自分の手帳に、鉛筆でその姿のスケッチをしている。
「プロなんだな」
三好がぼそりと言った言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、師匠は淡々と観察を続ける。僕も一応、自分の手帳を広げ、目に付いた状況を書き留めていった。
だがその間も、悪寒が止まることはなかった。首吊り死体の霊のすぐ目前にこうして立ち、じっと観察しているなんていう異常な状況が、自分でも信じられなかった。一かけらの意思も感じられない、抜け殻のような霊がしかし、僕が手帳に目を落としたその一瞬に、冷たい手を僕の首筋に伸ばしてきていたら……。
そんな想像をしてしまうと、生きた心地がしなかった。
しばらくして、師匠が「うん?」と一声唸った。その声にドキリとする。
「どうしました」
僕が恐る恐る師匠の手帳を覗き込むと、鉛筆の先が、スケッチされた死体の首の辺りで、トントンと紙の上に打ち付けられている。
「おかしいぞ」
鉛筆の動きを止め、師匠が死体の霊を指さした。その喉の辺りをだ。細い紐が首に食い込んでいる。僕はそもそものこの状況の異様さに、今さらあえて指摘するほどのおかしさがどこにあるのかわからず、首を傾げた。
「爪痕がない」
師匠はそう言って喉に食い込んだ紐の周囲を、手にした鉛筆で指し示す。
「そうこん?」
爪あとのことか。喉に、確かにそんなものは見当たらない。しかしさっきから、見えている霊体の濃度がだんだんと薄れてきていて、僕には正直もうあまり精密には見えてない。というか、ぼんやりとしている。首筋にそんな爪のあとなど、ここにある、と指摘されてもわからないかも知れない。
「首吊り死体の特徴として、全体重が首に掛かった瞬間に頚骨を骨折して意識を失った場合などを別として、窒息の苦痛に紐や縄が食い込んだ喉を、掻き毟った痕跡が残っている場合が多い。どんなに死のうという意識が強い人間でも、実際に死に迫る苦しみのなかに陥ると、なんとかその苦しみから逃れようと足掻いてしまうものだ。だからこそ、確実に死ぬため、逃げ出せないように足場を蹴り倒して、人は首を吊るんだ」
ここを見てくれ。
師匠はそう言ってぶら下がる霊の左手首を指し示した。そこにはリストカットのあとが幾重にも残っていた。僕もそれには気づいていて、自殺を思い立った彼女が死のうとして、手首を切ったもののなかなか死に切れず、何度か繰り返したあと、とうとうドアを利用して首を吊ることでその思いを完遂したと、そういうストーリーを頭に描いていた。
「霊体がどのようにして現れるかは、霊自身の選択だ。あるいは無意識のそれにせよ。彼女がためらい傷を身体に残したまま現れていることは、彼女がそれをことさら秘匿しようとしていないことを示している。そして衣服の緻密さなどからも死の瞬間の身体の状況を正確に再現しようとしていることもわかる。なのに、喉を掻き毟ったあとがない。これは不整合だ」
爪もこうしてあるのに、と師匠は彼女の指先の辺りを顎でしゃくって見せる。
「だったら、一瞬で気絶したんじゃないですか。首の骨が折れて」
僕のその指摘に、師匠は頭を振った。
「彼女は見てのとおり痩せている。体重はかなり軽いだろう。室内のドアのこんな窮屈な仕掛けで、高い木の枝から首に縄をかけて飛び降りるケースみたいに、一瞬で首の骨が折れたり、失神したりするだろうか」
蓋然性を考えると、違和感がある。
そう言って師匠は険しい顔をした。
「だったら」
僕はそう言いかけて、あとに続く言葉を飲み込んだ。師匠があえて口に出さないその言葉を、自分から言い出すことに恐怖を覚えたのだ。
もし想像してしまったとおり、これが自殺に偽装した他殺死体だとしたならば、この霊の持つ意味がまったく変わってしまうのだから。
依頼人の三好もそのことに気づいたようで、表情を硬くして言葉を失っている。
押し黙って考え込んでいる僕たちの目の前で、ドアにぶら下がる霊体の姿が徐々に希薄になり、静かに溶けるように消えて行こうとしていた、
「消える」
僕がそう呟いた瞬間に、霊は消えた。もう見えない。三好と師匠の目を見たが、2人とも頷いた。どうやら消えてしまったようだ。
しかし、三好が言っていたように、元々現れたり消えたりする霊らしいので、一時的に消えたのだろうと思われた。霊のバイオリズのことはよくわからないが、そういうことは経験上よくあった。
そのまましばらく待ってみたが、やはり首吊り死体の霊は現れなかった。
それから師匠と僕は三好を部屋に残して、このアパートの住人を順番に訪ねて回り、聞き込みを行った。
わかったことは、1ヵ月前に三好がこの部屋へ引っ越してくる前は、近所の弁当屋でパートをしていた、田坂という名前の50年配の女性が住んでいた、ということ。そしてその前に住んでいたのがだれだったのか、だれも知らない、ということだった。
と言っても、訊ねたときに住人が部屋にいたのは三好を除く7つの部屋のうち、4つの部屋だけだった。そこで師匠は自分の名刺に102号室に関する情報が欲しい旨を書き付けて、残り3つの部屋の玄関ドアの下の隙間からなかに滑り込ませた。
最後に付け足した『薄謝進呈』という言葉がどこまで効果を発揮するかは、神のみぞ知る、というところだ。
そして次に先住者がパートをしていたという弁当屋に歩いて行った。その弁当屋はよく見るチェーン店で、夕方のかき入れどきの直前という、ギリギリ客が途絶えているタイミングで訪ねた僕らを、いかにもベテランという佇まいの60歳くらいの女性店員が出迎えた。
「ああ、田坂さん? 覚えてるもなにも、辞めてからまだ3ヵ月よ。まだもうろくはしてないわ。あはは。え? どうして辞めたかって訊かれてもね。……家庭の事情って私は聞いたけどね」
師匠が興信所の名刺を渡し、田坂さんの住んでいた部屋で昔起こったかも知れないある事件のことを調べている、と告げると興味津々という様子で身を乗り出してきた。
「今の連絡先、私知ってるわよ。こっちからは教えられないけど、今本人が家にいたら、あなたたちのこと話してみましょうか」
そうして彼女は頼みもしないのに、店の電話を使ってどこかに掛け始めた。
弁当屋のパートという同じ場所でのルーチンワークをこなしている日常に、興信所の人間がある事件について調べていると言って訪ねてくるという、テレビドラマのなかのような展開に、少なからず興奮しているらしい。
やがてかしましい挨拶を電話口で交わしたあと、女性店員は「はい」と言って受話器をこちらに預けてきた。師匠が電話に出て、しばらく話していたが、やがて礼を言って受話器を返した。店員は「もういいの?」と言いながらまた電話に出て、甲高い声で相手とやりとりしたあとで、チンと切った。
事件とやらのことを詳しく訊きたがっている彼女を、上手くなだめすかして、師匠と僕は弁当屋をあとにした。
「田坂さんはシロだな」
「関係なさそうですか」
「ああ」
102号室の前の住人である田坂さんは、4年ほど前からその部屋に1人で住み始め、弁当屋でパートをしていたが、3ヵ月前に郷里の母親が倒れたのでパートを辞め、介護のために実家へ帰ったのだそうだ。
そして2ヶ月ほどの空き家期間を経て、今回の依頼人である三好が不動産屋の紹介で102号室を借りた。そして1ヵ月経って今にいたる、ということになる。
肝心の、田坂さんの前にだれが住んでいたのか、という問題については、残念ながらなにもわからなかった。
田坂さんが覚えていたのは、自分が越してくる前は、しばらく空き家だったらしいということだけだ。
ただ、学生が多く、住人の入れ替わりが激しいあのアパートのなかで、2階の204号室の住人は、パン屋でバイトをしている陰気な男らしいのだが、恐らく自分より前からあそこにいたはず、ということだった。
思い出してみると、204号室は不在で、名刺を放り込んだ部屋だった。なんとかして、その男に話を訊く必要がありそうだ。
「田坂さんは、幽霊なんて見たことがないってさ」
ずいぶん直球で訊いたものだ。しかし、それが本当だとするならば、あの102号室の幽霊は、田坂さんが出て行った3ヵ月前から、三好が越してくる1ヵ月前までの、およそ2ヵ月間に空き部屋に侵入し、首を吊ったということになる。
「いや、そもそも幽霊なんて、生まれてこのかた一度も見たことがないそうだ。だから、ずっと部屋のなかに現れていたのに、気づいていなかった可能性もある」
なるほど。見ない人はとことん見ないものだ。ましてあんななんの主張もしない霊ならば、坂田さんがあの部屋の住人であった間、存在しないも同然だった可能性は高い。
そうして、僕や師匠のように霊感の鋭敏な三好がやってきてから、再びあの霊の存在が再開された、というわけだ。
そう考えていて、ふと、嫌な予感がした。
もしそうだとしたら、あの霊は4年以上前からあの部屋にいたことになるが、そこには4年間という時間の経過による安定性が保証されていないことになる。
なぜなら、霊体は僕らのような霊感の強い観察者の存在によって、逆に影響を受けることがあるのだ。霊感の強い三好がやってきて1ヵ月。つまり観察される対象となって、まだ1ヶ月ということだ。ということは、ああいう、ただそこに現れるだけの無害な存在として安定しているとは、まだ言い難いのではないか。
そのことは、出たり消えたりする、という三好の証言とも一致する。
なんだか不安な気持が増してきた。胸が静かに高鳴り始めている。
そうだ。三好は、昼間に出るのは珍しい、と言っていた。たまたまだ、としか思わなかったが、本当にそうだろうか。今日は師匠がいた。あの底の知れない霊感を秘めている師匠がいたのだ。その師匠に反応して現れたのではないだろうか。
だとしたら、今あの霊は非常に不安定な状態にあるのかも知れない。
変質、という言葉が脳裏に浮かんでゾクリとした。
「一度アパートに戻る」
同じことを考えていたのか、師匠はそう言うと、心なしか早足になった。部屋には今、三好が1人でいる。久しぶりの休みを取ったから、掃除をしておきたい、と言っていた。
その背中を、いつの間にか現れた首吊り死体の霊が、じっと見つめている。さっきは自分の足元を見下ろしていたはずなのに。
その両手が苦しげに蠢き、後ろを向いた三好の背中に、どろどろと伸ばされる。指先が届かないはずのその距離が、なぜか縮まっていく……。
ああ。
思わずそんな恐ろしい妄想を頭から振り払う。
歩いてアパートに戻った僕たちは、すぐに三好の部屋を訪ねた。
「大丈夫か」
「え、なにが」
三好は取り込んだ洗濯物を畳んでいる最中だった。首吊り死体の幽霊は出ていないようだ。
師匠は、この部屋の先住者だった田坂さんから聞いたことを説明した。
「204号室の男か。確かに暗そうなやつだったな。ほとんど見ないけど、昔からずっといるなら、この部屋のことも知ってるかも知れないな」
頷いている三好に、師匠が忠告をした。
「この件が片付くまで、だれか友だちの家にでも泊めてもらうのがいいと思う」
「そうかな」
三好は不承不承頷いた。
「少なくとも、夜は家にいないほうがいい」と言って、師匠は「さあ、次は不動産屋だな」と僕に目配せをした。
やっぱり行くのか。無駄足だと思うが。
借り主が訊きに行っても、個人情報をタテに前に住んでいた人が誰なのか教えてくれなかったのだ。それが前の前の住人のことだと言っても同じことだろう。
しかし師匠は三好に不動産屋の場所を聞いて、「よし、行こう」と僕をせかした。来るときには歩いてここまで押してきた自転車にまたがると、師匠はその後輪の車軸に足をかけた。
そうして2人乗りで走ることしばし。回りに更地が目立つ場所にその不動産屋はあった。
『オキワ不動産』という屋号が見える。
「こんにちは」
ガラス戸を開けてなかに入ると、奥の事務机にいた眼鏡を掛けた小太りの中年男が、読んでいた雑誌を置いて顔を上げた。
「学生さん?」
そう訪ねる不動産屋に師匠は首を振って、「ちょっと尋ねたいことがあるんです」と言った。とたんに不動産屋の親父の顔が曇る。
三好の依頼を受けた興信所の者だと名乗って名刺を渡し、あの部屋でなにか事件がなかったか、そして前の前の借り主はだれだったのか訊ねた。
親父は不機嫌そうに、「何度来ても教えられない。そんな事件もなかった」と繰り返すだけだった。
師匠は、頭のおかしい依頼人に変なことを頼まれて、こっちも困っている。幽霊の遺族に家賃を半分払わせるなんて無茶なことは絶対させないし、できるわけもないけど、落としどころがないとあの依頼人も納得しない。このオキワ不動産にも何度も来て迷惑を掛けることになる。任せてくれたら、元の住人に迷惑を掛けるようなことのないように上手くやるから、教えて欲しい。
そう言いつのったが、親父は首を縦に振らなかった。
「ケチ。ばか」
師匠は最後にはアカンベをして捨てセリフを吐くと、顔を真っ赤にした親父に追い出された。
師匠から「おい、もう1回行って、ドケチって言ってこい」という指示があったので、僕は1人でそれに従う。
飛んできた消しゴムの黒いプラスティックケースを避けながら、その不動産屋を後にした。
「さて、次はどうしようかな」
僕の運転する自転車の後輪に乗っかって、師匠は妙に楽しそうだ。
「あの。考えたんですけど。市内で若い女性が首吊り自殺って話だったら、ニュースとか新聞に出てる気がするんですよね。僕、こないだ事務所のスクラップ記事を分類ごとに整理して、ファイリングしたんで、ひょっとしたら見つけられるかも知れませんよ」
僕の提案に、師匠は賛同した。
「よし、手分けしよう。そっちはそっちで探してみろ。私は三好のアパートに戻って、もう少し周辺を探る」
師匠が自転車を持っていた方がいいだろうということで、僕は歩いて小川調査事務所に戻ることにした。
「おい、これ持っていけ」
師匠が紙を渡そうとする。首吊り死体の霊をスケッチしたものだった。かなり上手い。本当に器用な人だった。
「大丈夫です。僕だって見えましたから」
変な自尊心で断ろうとしたが、「いいから持っとけ」と押し付けられた。
「じゃ、後で」
師匠と別れ、僕は歩き出した。
事務所に着くと、小川所長がデスクに座ったまま居眠りをしていた。
これでかつては大手興信所のタカヤ総合リサーチの敏腕調査員だったというのだから、本当かと疑いたくなる。
僕は新聞記事のファイルが詰まった棚を眺めて、そこから『事故・自殺・変死』という分類のものを抜き出した。そして自分のデスクでそれを広げる。
この事務所を開設した数年前からのものが多かったが、それ以前のものもある。所長が個人的に収集していたのだろうか。『自殺』というインデックスを貼った項目があり、そこに地元で起こった自殺に関する報道記事が集められていた。所長の指示で僕が整理したものだ。労働が報われたような気になる。
しばらくファイルをめくっていると、小さな記事に目が留まった。

『○○日午後1時ごろ、○○市下内田の会社員、田岡章一さんの次女、早苗さん(17)が、自宅アパートで自殺しているのを家族が発見し、119番通報した。警察では事件性はないものとして動機などを調べている』
 
これだけの記事だった。しかし、その横に添えられていた顔写真に僕の目は釘付けになった。あの首吊り死体の霊だ。間違いない。
念のために師匠が書いたスケッチを見たが、特徴を良く捉えている。同一人物に違いなかった。
ただ、生きていたころの彼女は、モノクロの紙面のなかで学生服を着て微笑んでいる。あの嫌に暗い部屋で見た、生気のない表情とは違う、可愛らしい笑顔だった。
新聞は地元紙の夕刊で、当日昼の出来事だったので、恐らく入稿ギリギリのニュースだったのだろう。自殺の様子など、詳細は不明なままだ。翌日以降に後追い記事がないかと思ったが、そのスクラップには閉じられていなかった。
日付は5年前の今ごろだった。
田岡早苗。生きていたら22歳くらいか。名前がわかった。これは大きな収穫だ。
僕は興奮して三好の家に電話を掛けた。番号は依頼の契約書に書いてあった。
「はい、もしもし」
三好が出たが、師匠が近くにいたので呼んでもらった。
「わかりましたよ! どこのだれなのか」
記事の内容を説明すると、師匠は怪訝そうな声を出した。
「下内田? ここは岩田町だぞ」
指摘されて気づいた。そういえばそうだ。
もう一度記事を読み直す。
『下内田の会社員、田岡章一さんの次女、早苗さん(17)が、自宅アパートで自殺……』
そうか。自宅アパートという言葉で誤解したが、早苗さんは実家から出て、岩田町のあのアパートで一人暮らしをしていたのではないだろうか。確かに、あの三好が住むアパートは単身者向けで、家族が住むには狭すぎるだろう。
そう説明すると、師匠は「不正確な記事だな」とぶつぶつ言いながらも「よし、こうしよう」と提案した。
「岩田町のアパートがあくまで田岡早苗の一人暮らし先だったなら、下内田にはまだ家族が住んでいる可能性が高い。父親の名前もわかっているし、広い地区じゃない。そのあたりでちょっと聞き込みをしたら家はわかるだろう。今日はもう日が暮れるから、明日朝から行ってみよう」
その言葉に顔を上げると、通りに面した窓からいつの間にか夕日が射し込んでいた。
小川所長は机についたまま、まだ寝ている。なんの夢を見ているのか、やけに嬉しそうな寝顔だった。
「今日はもう帰っていいぞ。ご苦労だった」
師匠からそんな言葉があった。
電話を切って、今日あったことを考えてみる。
幽霊が出る、というアパートに行き、実際にその幽霊を見るだけでなく、それがどこのだれなのか探し当てたのだ。こんなことができる興信所がほかにあるだろうか。
それを思うと、その一員であるということが無性に誇らしかった。

◆

次の日、僕と師匠は2人で下内田という地区に向かった。
土曜日だ。朝から春の気持のよい風が吹いていた。
昨日二手に分かれた師匠のほうは、大して収穫がなかったようだ。結局、パン屋で働いているという204号室の男は帰ってこず、名刺に書いた薄謝進呈にひかれての連絡もないままだった。
三好は忠告どおり友人の家に泊まりに行き、その部屋を空けた。もう慣れたよ、とうそぶいていたが、師匠の言う「霊の変質」という言葉に恐れを抱いたに違いない。ただ、師匠は夜もしばらくその部屋で見張っていたらしいが、首吊り死体の霊は出なかったという。
眠そうな顔をしながら歩く師匠と、下内田の住宅街で少し聞き込みをすると、すぐに田岡章一の家は分かった。
「あの家か」
田岡、という表札のある家の前に立つ。
「さて、どういう作戦で行くかな」
いろいろシミュレートしたが、師匠が1人で訊ねて行って、「早苗さんとは同級生で親友だったが、しばらくぶりに地元に帰ってきたので、線香をあげさせて欲しい」と頼むのがいいだろう、ということになった。そして自殺の様子や背景をそれとなく訊き出す、という作戦だ。
僕もついて行きたかったが、師匠と僕と早苗さんが同い年の同級生だというのは、少し無理があったので、田岡家の人に余計な疑念を抱かせないため、仕方がなかった。というより、師匠は僕がボロを出すのを恐れたのかも知れない。そう思うと、少し悔しい。
「じゃあ行ってくる」
田岡家の玄関へと向かう師匠の背中を見送った。
しばらく待たないといけない、と思っていたが、思いのほか10分と経たずに師匠が家から出てくる。
その後ろでピシャン、と乱暴に玄関の戸が閉められた。
失敗したな。師匠の浮かない顔を見て、そう思った。
「あ~、駄目だ」
開口一番そう言って。悔しそうな顔をする師匠が説明するところによると、家には早苗さんの母親がいて、父の章一氏は不在だったそうだ。
線香を上げるところまではなんとか上手くいっていたが、自殺の話になると、とたんに母親の態度が硬化した。
早苗は親友の私になにも言わないまま、あんなことが起きてしまった。あのときのことは、自分もとても悲しくて今でも引きずっている、と母親の気持に同調しようとしたが、けんもほろろの扱いで、結局詳しいことはなにも訊き出せなかったという。
その動機さえわからなかった。
「だけど、学校がわかったぞ」
早苗さんが当時通っていたのは市内の公立高校だった。そして1人だけだが、当時の友だちの名前もわかったらしい。母親がぽろりとこぼしたのだった。
「話を聞けるといいけど」
師匠はそう呟くと、「よし、行くぞ」と僕の自転車の後ろに乗った。
次に向かった先はタカヤ総合リサーチだった。依頼人の三好が最初に相談に行ったところだ。そこから小川調査事務所へ下請けに出された、という形だ。
『タカヤ総合リサーチ』という大きな看板を掲げたビルに、2人で乗り込んで行くと、受付にいた事務員の市川さんが「あら」と言って手を振る。
「どう? あの依頼、上手くいってる?」
「まあぼちぼちです。それで、市内の公立高校の住所録か卒業アルバムを見せて欲しいんだけど」
「たぶんいいと思うけど、所長がいるから直接訊いてみたら」
市川さんは奥の部屋を指さした。
どうも、と言って師匠はその部屋へ向かう。所長室だ。重厚感のある木目の浮き出たドアをノックすると、「どうぞ」という返答。
「こんにちは」
なかに入ると、いかにも高級そうな材質の大きな机に、初老の男性が背筋を伸ばして座っていた。
所長にしてオーナーでもある高谷英明だ。
いつも忙しい人で、事務所にいるのは珍しかった。
「よう。加奈ちゃん。儲かってるか」
読んでいた書類を置いて立ち上がり、健康的に日焼けした顔に皺を浮かべて笑いかけてくる。精力的な男だった。常にエネルギーが身体のなかから噴き出しているようで、頭に白髪が混じっているその年齢を感じさせない。そしてなにより憎らしいことに、濃い顔立ちの男前なのだ。ちょっと外を歩けば、道行く主婦などコロリと参ってしまいそうだ。
「お、助手の坂本くん、だったかな。君も儲かってるか!」
この人はこれが口癖なのだ。けっして下請け興信所のバイトの助手、という我が身をからかっているわけではない。はずだ。
ちなみに、この人は僕の本名を知っているはずだが、ちゃんとバイト用の偽名で呼んでくれる。できた大人だった。爪の垢を煎じてどこかの所長に飲ませたい。
「市内の公立高校の卒業アルバムを見せて欲しいんですが。生徒の家の連絡先がわかるものを」
「加奈ちゃんの頼みじゃ、断れないな」
高谷氏は机から鍵を取り出すと、所長室を出た。向かう先は2階にある資料室だ。鍵を開けてもらい、なかに入ると、整然と並ぶ棚の1つに目当てのものがあった。
棚には様々な装丁の背表紙がずらりと並んでいるが、そのすべてが小中高校の卒業アルバムだった。聞いたことのある名前が多い。おそらく市内のめぼしい学校が揃っているのだろう。どうやって入手したのかわからないが、ここまでやるのか、と思うと恐ろしくなった。この興信所という稼業がだ。
師匠は目当ての高校の目当ての学年のものを探し当て、その場で開く。高谷氏からは見えない角度で。そして情報を記憶したのか、すぐに頁を閉じた。
「ありがとうございました」
「もういいかのかい」
「ええ」
もう一度礼を言って僕らは資料室を後にした。
「どうだい、小川くんのところは」
1階に降りたところで、高谷氏が訊いてきた。師匠は苦笑して「楽しいですよ」と答える。
「自由にさせてくれるし」
「それにしてもオバケの専門家か……。『オバケ』なんて本当はババをつかんでしまったときの言葉なんだけど。まさか、それを専門にするなんて、考えもしなかったな。加奈ちゃんがうちに来てくれたら、そんな依頼が外へ流れずに済むなあ。どう? バイト代、倍出すけど」
倍!
師匠が小川さんからいくらもらっているのか知らないが、その倍とは太っ腹だ。それだけ師匠の能力は貴重なのだろう。
「考えときます」
師匠は笑ってそう答えたが、表情はどこか硬かった。『倍出すけど』という言葉を聞いたとき、師匠が一瞬見せた険しい目つきに、僕はついこの間の心霊写真にまつわる事件のことを思い出していた。
師匠は松浦というヤクザから料金を5倍出すと言われ、依頼を引き受けることを強要されたのだった。たぶんそのときのことが頭をよぎったのだろう。
「ま、気が向いたらいつでも声を掛けてくれ。なんなら、小川くんごと引き受けてもいいよ」
高谷氏はそんな大きなことを言って、爽やかに笑った。

◆

タカヤ総合リサーチを出て、近くの公衆電話から電話を掛けた。
自殺した田岡早苗の親友だったという吉田直美という女性の家だ。師匠は同窓会の幹事に成りすまし、その家の母親から吉田直美の住むマンションの電話番号を聞き出した。
そして次にその番号に電話すると、はたして本人が出たのだった。
狭い電話ボックスに無理やり2人で入り、いったい師匠はどうするのか、と固唾を飲んで至近距離から見守っていると、驚いたことに単刀直入、それも「興信所です」と名乗ったではないか。
すると思いのほか、相手は饒舌になった。
『えー、なになに? 早苗のお姉ちゃんの結婚相手から? そんな調査ほんとにあるんだ! すっごおい。え? 自殺の理由? ううん。言っていいのかな。……いや、違う違う。そんなんじゃない。誤解されるくらいなら言うけど、悪い男に騙されたのよ。私はやめとけって言ったんだけど、早苗聞く耳持たなくて。なんかどんどんドツボに嵌っていった感じ。いや、でも、私だけじゃなくてみんな知ってたよ。最後のあたりは《首吊って死んでやる》って口癖にみたいに言ってたし。リスカもしてたな』
そこまで喋ったところで、吉田直美の声はトーンダウンした。そのころのことを思い出して、悲しくなったのか。
『でも早苗ほんとに好きだったんだよ。その男のこと。高校生のころってさ、思い込むと一直線だから…… その男?年上の大学生だったと思うけど、どこのだれかは知らない。早苗、絶対みんなに教えなかったし』
僕はすぐそばで、息を飲んでその会話を聞いていたが、その声がどんどん暗くなっていくのがわかった。
『あ、やっぱりごめんさない。あの、ごめんなさい』
そう言って、一方的に電話は切られた。
「あ、もしもし。もしもし?」
師匠はため息をついて、受話器をフックに戻した。吐き出されてくるテレフォンカードを掴みながら、「やっぱり男か」と言う。
これで動機はわかった。騙されたのかどうかはわからないが、痴情のもつれによる衝動的な自殺だ。一見は、だが。
僕は考えていたことを口にした。
「早苗さんの首吊り死体の喉には、もがいたときにつくはずの爪の痕がなかった。ということは、自殺に偽装した他殺の可能性がある。でしたね」
「ああ」
「首を吊って死ぬ、と周囲にもらすほど思いつめていた彼女が、実際に首を吊った死体で発見されたら、当然自殺と判断されますよね」
痴話喧嘩がこじれ、死ぬ死ぬと喚く早苗さんが邪魔になった男なら、そう考えるはずだ。
ただの幽霊がらみの依頼だったはずなのに、恐ろしい真相が現れ出そうな、不穏な気配が漂い始め、僕は背筋が冷たくなってきた。
「警察を舐めないほうがいい。そんな憶断だけで捜査はしない。自殺と判断したのなら、それなりの根拠があるはずだ。たとえば……」
師匠は考えるそぶりを見せた。
「たとえば、あの部屋が密室だったなら」
密室殺人!
ミステリーではよく見る言葉だが、そんなものと現実に関わるなんて、信じられない。僕は唖然として師匠を見つめた。
「そんな目で見るなよ。たとえばの話だ。でもあの首の吊り方、妙に機械的な仕掛けだっただろう」
そうだ。背中側のドアノブを使った滑車のような吊り方だった。天井の高くない賃貸アパートの部屋での首吊りとはいえ、ほかにもやりようがあるような気がする。そして機械的な分、密室状態においても、なにか偽装工作が可能な気がしてしまうのだった。
自殺を報じた新聞記事では、家族が発見した、とあった。ということは、おそらく合鍵で入ったのだろう。連絡がつかなくなった娘を心配して。
そして、鍵の掛かっていた室内で、娘の変わり果てた姿を見つけてしまう。窓にも鍵が掛かっている。アパートの部屋だ。他に出口はない。
自殺――。
本当にそうなのか。
僕はゾクゾクしながら息を吐いた。
「さて、その辺の警察側の判断を聞いてみますかね」
師匠が言ったその言葉に驚く。
「どういうことですか」
「このあと1時に約束してるんだよ」
不破という刑事と会う約束を取り付けているのだという。本当に根回しが早い。
不破は西警察署の刑事で、階級は巡査部長。よく師匠とつるんでいる不良刑事だった。僕も何度か会ったことがある。
不破から当時の捜査情報を得るのなら、今朝以降にやっていた情報収集は無駄だったのではないか、という思いが湧いてくる。
しかし師匠は、甘いな、と言った。
「市川さんとか、看護婦の野村さんみたいな世話好きのおばちゃんに甘えるのと、はわけが違う。刑事に作る借りは最低限にしたほうがいい」
そういうものだろうか。
不破刑事とは市内の『ジェリー』という喫茶店で待ち合わせをしていた。西署からは離れている。土曜日で非番だからだろうか。家に近いのかも知れない。
師匠と2人で4人掛けの席について待っていると、少し遅れて不破がやってきた。
入り口のドアを開けた瞬間から、店内の視線が一斉にそちらに向いた。白っぽいスラックスに縦ストライプのシャツ、そして黒いジャケット。かなり空いた胸元にはチェーンが覗いている。短く刈りそろえた頭に、周囲を威圧する鋭い目つき。右目の眉の上には刃物でついたらしき古傷がある。
どう見てもカタギの人には見えない。それが不破刑事だった。
強張った顔で接客に向かったウエイトレスを片手で制して、彼は僕らのところにやってきた。
向かいの席に乱暴に腰を下ろし、「よう」と言った。そして水とおしぼりを持ってきたウエイトレスに、「ブレンド」とだけ言ってこちらに向き直る。
「仕事中だから、長居はできねえぞ」
不破はおしぼりで顔を拭きながらそう言った。
えっ。非番じゃないんだ……。
改めてその格好をまじまじと眺める。西警察署、通称西署の刑事第二課二係主任。それが不破巡査部長の肩書きだった。
刑事第一課が強行犯や盗犯の係で、二課は知能犯や暴力犯の係だ。そのなかでも二係は暴力犯を担当しており、ようするに対ヤクザの部署にいるということだ。ヤクザ相手の仕事をするには、刑事も舐められないようヤクザばりの格好をしないといけないのだろうか。
「儲かってるか?」
水を一息に飲んだ後で、不破がそう訊いてきた。それを聞いて師匠が苦笑いをする。さっき会ったばかりのタカヤ総合リサーチの所長の物真似だったからだ。
「まあ、ぼちぼち」
師匠がそう言うと、不破は「いいよなあ。自営業は。公務員はつらいぜ。何人挙げたところで、金にならねえ」と大袈裟にため息をついてみせた。
「うちの所長が言ってましたよ。不破は刑事臭が抜けるまで10年はかかるから、こっちに来ても役に立たないって」
「けっ。デカ臭が染み付く前にケツまくったヤツに言われたかねえよ」
青びょうたんが。不破は吐き捨てるようにそう言った。
小川所長と不破刑事は警察学校の同期だった。飄々とした小川さんと、元暴走族だったという強面の不破は、なぜかウマが合ったらしく、配属先が分かれても、いつもなにかにつけて、つるんでいたそうだ。
それぞれ所轄署に卒配されたあと、努力の甲斐あって2人とも念願の刑事になれたが、南署の盗犯係でキャリアをスタートさせた不破に対し、小川さんは県警本部の刑事部捜査第一課で強行犯の係に抜擢された。バリバリのエース部署である。
しかしそこでの活躍も、巡査部長に昇進していた27歳のときに唐突に終わりを迎える。
県警本部の捜査第一課長だった高谷警視が、県警を突然退職し、親戚がやっていた興信所を買い取って、開業をしたのだ。そのときに、部下だった小川さんが引き抜かれる形で、合わせて退職をしたのだった。いずれ県警のナンバー2である、警務部長の席は確実、と言われていた切れ者の高谷警視の退職は、県警内部でも憤りの声とともに、なぜ、どうして、という疑問符を持って迎えられた。
しかし、そのあと興信所は短期間に発展を遂げ、今ではタカヤ総合リサーチとして自社ビルを構えるにいたっている。そんな辞めた方をしたにもかかわらず、県警とのパイプを維持している高谷所長の才覚がそうさせたのだろうか。
不破は刑事を辞めた小川さんと一時は絶交状態だったらしいが、今ではまた付き合いが復活しているらしい。
こんなところが小川所長の来歴のはずだが、そのタカヤ総合リサーチも辞めて、いまやボロい雑居ビルの小さな事務所で昼間から居眠りをしている姿を見ている僕には、いまいち信じられないところだった。
しかし、そんな小川所長のつてもあって、師匠はこうして現役の刑事である不破と、一定の協力関係を築いている。とは言っても、よくある刑事と民間協力者の、紙のように薄っぺらい関係とは少し違っているようだ。
所轄でもその手段を選ばない豪腕を恐れられ、また同時に鼻つまみ者である不良刑事の彼もまた、師匠の『オバケ事案』に関する能力を知っていて、面白がっている人間の一人だった。
「で、田岡早苗の件だがな」
不破が懐から手帳を取り出した。
「自殺だ。事件性はねえよ」
「当時の資料をあたってくれたのか?」
不破は首を横に振った。
「そんなに暇じゃねえよ。人をあたっただけだ」
当時の捜査員に聞き込みをしたということか。
「警察は、喉の爪痕がないことは気づいていたのか」
師匠の問い掛けに、不破は怪訝な顔をした。
「爪痕だと? なんのことだ」
「首を吊ったときの、ためらい傷だよ。喉を掻き毟った痕がなかったんじゃないのか。それを見逃さなかったら、他殺の疑いも出ていたはずだ」
「なにを言ってやがる」と不破は馬鹿にしたように笑った。「田岡早苗は自宅の風呂場で手首を切っての失血死だぞ」
「なにっ?」
師匠と、そして僕も驚いて身を乗り出した。
「首吊り自殺じゃないんですか!」
そう言った僕をギロリと睨んでから、不破は手帳に目を落とした。
「当時田岡早苗は下内田のアパートで親子3人暮らし。その日は両親ともに外出していて不在。夕方帰宅した母親が浴室でぐったりしている娘を発見、119番通報し、救急病院に搬送されるが、死亡が確認された。3時間ほど前に、調理用カッターで手首を切って自殺を図ったものと断定された」
「岩田町のアパートじゃないのか」
「あん? なんだ岩田町って」
不破は手帳をめくるが、そんな言葉はどこにも出てこないらしい。
師匠と僕は顔を見合わせた。なにがどうなっているんだ。
「自殺の理由は?」
「どうやら進学のことを巡って、家庭内で揉めていたらしい。そのころは娘もノイローゼ気味で、自殺をほのめかすようなことを口にするようになっていたから、親も気が気じゃなかった。そんな最中の出来事だとよ」
以上だ、というように不破は手帳を閉じて、コーヒーに口をつけた。
師匠は険しい顔をして、考え込んでいた。僕らが見た、あの岩田町の三好の住むアパートに出る首吊り死体の霊は、いったいなんなのだ。
顔は完全に新聞に出ていた田岡早苗と一致していた。はずだ。
先に記事のほうを見ていたら、思い込みでそう見えてしまうこともあったかも知れない。しかし僕らはアパートの霊のほうを先に見ているのだ。記事の写真を見てから記憶が改ざんされたわけでもない。師匠の描いたスケッチがその証拠だった。
師匠はそのスケッチを取り出し、不破に見せた。首を吊っている田岡早苗の姿をだ。
不破は手帳に挟んであった写真の白黒コピーと見比べて、唸った。
「本人だな。おまえ、これをどこで見たんだ」
師匠は岩田町のアパートの住所と部屋番号を告げてから、言った。
「この部屋に田岡早苗の幽霊が出ている。彼女が自殺した時期に、この部屋に住んでいた人間のことを調べて欲しい」
「幽霊って、おまえ本気でいってんのか」
「私たちは、そこでその女が自殺したと思っていた。いや、首を吊っていたのに、喉に掻き毟った痕がなかったから、自殺に見せかけた他殺の可能性もあると」
「おいおい。もう終わった事件だぞ。それが今さら実は死因が別で、しかも死亡場所も偽装した殺人だった、ってのか。そんなわけあるかボケ」
口汚く言い切った不破に、それでも師匠は引かずに顔を突き出した。
「あんたらが、刑事として仲間の捜査を信じているように、私も私の目を信じている」
テーブルの上に身を乗り出し、自分の瞳を指さして師匠は言った。
不破は気圧(けお)されたように椅子に深く座りなおし、「けっ」と言ってコーヒーを飲みきった。
「小川によろしくな。また律子さんの手料理食いてぇ、って言っといてくれ」
立ち上がった不破に、「おい」と師匠は被せたが、「仕事なんだよ、こっちはよ」とそっけなく返された。
「丸山って警部、いるよな。西署に」
「なに?」
師匠からさっきまでとまったく違う話を振られ、不破はリズムを崩したようにぎこちなく振り返った。
「こないだ、色々裏話教えてもらったよな。石田組の松浦のこと。その松浦が、丸山警部によろしくってさ」
不破の顔色が変わった。
「不破さんの、隣のシマにいたよな。丸山警部。刑事第一課長じゃなかったか」
「おい」
「小川所長が県警本部にいたときの主任かなにか、とにかく上司だったって聞いたことあるぞ。でもって高谷さんの元部下か。今でも刑事畑の一線で活躍しているそんな人に、ヤクザがなにをよろしくなんだろうな」
「おい、やめろ」
不破が静かに言った。店内の空気が冷たくなったように感じて、僕は息を飲んだ。師匠も口をつぐんで不破を見つめている。
「お前は、その目で、見られるものだけを見てればいい」
そう言い捨てて、不破は喫茶店をあとにした。
代金はあいつらにつけろ。
ウェイトレスにそういうジェスチャーをしながら。
「……どうします」
行ってしまった不破を見送ってから、僕は師匠に話しかけた。
「どうなってやがる」
師匠は不機嫌そうな顔でズボンのポケットに両手を突っ込み、ズズズと椅子に沈み込んだ。
喫茶店を出たあと、僕らは小川調査事務所に一度戻ることにした。
「お疲れさん。調査は順調かい」
小川所長は事務所のデスクで1人、足の爪を切っているところだった。
「不破刑事が、律子さんの手料理食べたいってさ」
「ふうん。また家に呼んでやろうかな。……って、あいつ、まさか、りっちゃん狙ってんじゃないだろうな!」
律子さんというのは、小川所長の奥さんだ。僕も家にお邪魔した時に会ったことがある。事故で右足が不自由になってしまっていて、いつも杖をついている人だった。タカヤ総合リサーチの高谷所長の一人娘でもある。
いつもは飄々としている小川さんだったが、律子さんのことになると血相を変えるので面白い。
「トーマがね。不破が大好きで家にきたら喜ぶんだ。なんであんな危ない男が好きなのかね」
そう言ってぶつぶつと呟いている。
トーマというのは小川さんの1人息子だ。この春に小学校1年生になったばかり。おとなしくて可愛らしい子だった。
「お、そう言えば、204号室のニシノって人から電話があったよ。今日は家にいるってさ」
小川所長のその言葉に、師匠は指をパチリと鳴らした。


「わからないな。男だったってことしか覚えてない」
「表札の名字だけでも覚えてないですか」
「……」
204号室の男、西野は黙って首を振るだけだった。
依頼人である三好の借りている102号室に、弁当屋のパート田坂さんの、さらに前に住んでいたはずの人間の情報を、聞き出そうとしたのだが、空振りに終わりそうだった。
「女性が出入りしていたなんてことはないですか」
「見たことはないと思う。自信はないけど」
そんな実にならない会話をしばらく交わしたあと、師匠は『薄謝』の入った封筒を、惜しそうな顔をしながらしぶしぶ西野に渡した。
「あーっ、クソ。陰気なやつだったな」
204号室を出た後、師匠はそんな悪態をついた。その足で102号室の前に行ってみたが、鍵が掛かっていて入れなかった。
三好は今日、夕方8時過ぎまで仕事があると言っていた。さすがに合鍵までは預かっていない。
「今日はもういいや」
「いいんですか。晩にまた出てきてもいいですよ」
「ちょっと手詰まりな感じだしな」
師匠は他人ごとのようにそう言うと、大きな欠伸をした。


次の日だ。日曜日、僕は電話で師匠のアパートに呼び出された。部屋に上がると、開口一番、師匠は「ハードボイルドだぜ」と言って笑う。
手に手帳の切れ端のようなものを持っている。朝、それが郵便受けに入っていた様子を再現して、延々と笑っていた。
手帳のメモには、市内の住所と『酒井良平』という名前だけが記されていた。他にはなにも書かれていない。たぶん、というか間違いなく不破刑事がくれた情報なのだろう。僕らがこれだけ苦戦したことをこんな風にあっさりと。
さすがにプロだ。感心していると、師匠は「しかし、デカへの借りは高くつくぞ。今度やらせろ、って言われたらどうしよう」と真剣な表情で冗談めかしてそう言うのだった。
それから昼時を狙って、僕らは酒井良平の家へ向かった。
岩田町からは車で十五分くらいの距離にあるマンションだった。特に作戦を打ち合わせることなく、師匠は部屋のチャイムのボタンを押した。
『はい』
インターフォン越しに、男の声がした。
「酒井さんですか。興信所のものです。実は、亡くなった田岡早苗さんのことで少し、お話をうかがいたくて参りました」
向こうで、息を飲んだ気配があった。
師匠は「しっ」というジェスチャーを僕に見せながら、黙っていた。
しばらく沈黙が続いていたが、やがてガサガサという音が扉の向こうから聞こえてきて、ドアがゆっくりと開いた。
「なんなの。わけわかんないこと言って」
ドアから顔を覗かせたのは、肩口まである長髪をなびかせた優男だった。年齢は20歳後半くらいか。5年前に大学生だったという、早苗さんの友人からの情報と合致する。
「お時間は取らせませんので、少し上がらせていただいてよろしいですか」
「いやいやいや、ちょっとなに言ってんの。わけわかんないんだけど」
酒井はそう言いながら、うろたえたような様子を見せた。動揺している。本当になにを言っているのかわからないなら、もっと気持ち悪そうな顔をして、帰れと言ってドアを閉めればいい。しかし、彼はドアから出てきて、僕らのことを観察していた。僕でもビンゴだということはわかった。
「5年前に早苗さんが亡くなったとき、あなたは岩田町のアパートに住んでましたよね。そのときのことを詳しく訊きたいんですけど」
わざと声の音量を上げて喋っている師匠に、酒井は動揺を隠し切れない様子だった。そして、階段のあたりでこちらを怪訝そうに窺っている住民の視線に気づき、酒井は、「ちょっと、入って」と言った。
「ありがとうございます。お時間は取らせません」
師匠は澄ました顔でそう言って、僕にウインクをした。

◆

その日の夜。僕らは102号室の依頼人の部屋にいた。
目の前には月明かりに浮かび上がった首吊り死体がある。いや、実体はない。首吊り死体の霊だ。
生前、田岡早苗と呼ばれた女子生徒だった。今ではただ、寒々とした部屋でなにも言わずドアに背中をつけてぶら下がっている。口から出た舌はだらりと伸び、それでも苦痛の表情を浮かべず、ほぼ無表情で目を見開いている。ぞっとする姿だった。
「会ってきたよ。あなたの恋人に。酒井良平。大学生だったんだね。高校生だったあなたには、ずいぶん大人に見えたんだろうね」
師匠はその首吊り死体の霊に語りかける。
「遊び人だったんだな。あなた以外にも付き合っている女は何人かいたみたいだ。一度部屋に上げたのも、気まぐれだったってさ。そんなまだ子どもの女子高校生が、結婚してくれないと死ぬ、なんて思いつめちゃって、困ったって。もう別れる、なんて言っても聞きやしない。死ぬ死ぬ死ぬの繰り返し。だったら死ねって言ったんだってね。リストカットは致死率の低い自殺方法だ。成功率は5%もないくらい。何度か未遂を繰り返したある日、あなたはとうとう本当に死んでしまう」
開け放ったベランダの窓から、さらさらと木の葉を揺らす風の音がする。張り詰めたような月の光を背負い、師匠は真っ直ぐに前を見据えて続ける。
「自分の家の浴槽に身を横たえて。たった1人で。酒井良平はそのニュースを見て、驚く。それでも自分には関係がないと、言い聞かせて。でも次の日の夜。あなたはこの部屋で首を吊った。死んでなお、恋人に自分の思いの深さを知って欲しかったから。どれほど愛していたかを、知って欲しかったから。あなたは、霊魂になってから、首を吊ったんだ。舌が伸びているのは、ドラマで見たことがあったから。首吊り死体について知っていることは、無意識に再現した。そうなるはずの死体になりきるために。でも喉の爪痕は知らなかったんだね」
師匠は静かに語り掛ける。
田岡早苗の霊は、なんの表情も浮かべないままだ。
「酒井良平は驚いた。死んだはずのあなたの霊が部屋に現われたことに。そして次の日、すぐさま引越しをする。あなたは彼の引っ越し先を知らない。次の日の夜もこの部屋に出た。首吊り死体の霊として。だれもいない部屋に。次の日も、その次の日も。だれもいないこの部屋に。そうして数年が経ち、住人が入れ替わっても、あなたはこの部屋に現われた。思いは消えない。消えていない。恋人はあなたの元を去ったけれど、ほかにどうしようもなかった。いつかまた、恋人がこの部屋に戻ってきて、俺が悪かった、結婚しようと言ってくれるかも知れない。その日が来るまで、あなたはこの部屋から離れられなかったんだ」
違うかな。
師匠は首を軽く傾けた。死体の霊は何も語らない。
「だけどあなただって本当はわかっている。恋人はもう戻ってこない。あいつは、たくさんいる女友だちの1人としてしか自分を見てくれていないことも。高校生はめんどくせえ。友人にそう言っているのを、あなたに聞かれてしまったこともあったんだってね。あいつは女たらしのクソ野郎だ。私も話していて胸糞が悪くなったよ」
師匠はそこで言葉を切り、ゆっくりと酒井良平の住所を告げた。
「あいつは今、そこにいる。もうこの部屋に出るのはよせ。でも、今のあいつの部屋に行くのもよしなよ。くだらないから。なにもかも」
師匠は右手を挙げて見せた。手のひらから、拳にかけて包帯が巻かれている。
「話していて、つい手がでちまった。まさか殴るつもりはなかったんだけどな。あなたのやりたかったこととは、違うだろうけど。ちょっとは気が晴れたかな」
師匠がそう笑いかけると、首吊り死体はゆらりと揺れた。
「あ」
見ている僕らの前で、その姿が徐々に薄くなっていった。存在が揮発していく。音もなく、溶けるように。すべてが消え行くその瞬間、表情のないその頬に、一筋の涙が流れたような気がした。
「消えた」
息を飲んですべてを見守っていた依頼人の三好が、そう呟いた。
「消えた」
もう一度繰り返す。
いつもの霊の消えるときとは、あきらかに様子が違うのだろう。今度は本当に、そして永遠に消えてしまったのかも知れない。
「凄いな、あんた」
三好は真剣な表情で師匠を見つめる。僕もまた、同じ気持だった。
「多分、もう出ないと思うよ。一応念のため、今夜はまた友だちのところにでも泊めてもらって、この部屋にはいない方がいい」
明日また見にくる、と言って、師匠と僕は102号室を出た。
「あ~、終わったぁ」
師匠は両手を上げて伸びをしながらそう言った。
「幽霊が首を吊るなんて、そんなことがあるんですね」
僕がそう言って感慨深い溜め息をついていると、師匠はこちらを振り返る。
「盲点だったな。浮遊霊なら色々な現れ方をするけど、ああいう一見典型的な地縛霊に見えるやつが、そういうことになるなんて。思いつかなかった。奥が深いな」
この世界は。
そう言いながら、師匠は右手の包帯をクルクルと剥がし、近くのゴミ袋に投げ捨てた。
 

(完)


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