絵 《Ⅲ》- 師匠シリーズ

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2013年4月20日 18:08

師匠から聞いた話だ。


大学二回生の秋だった。
人生二度目となる大学祭のシーズンが来て、イチョウの落ち葉が道を覆っているキャンパスを歩いていると、そこかしこで模擬店や様々な出し物の準備が行われていて、すべてが楽しげに浮き足立っているように見えた。
 自分はというと、所属しているサークルの模擬店にも参加せず、ブーイングを浴びながらも軽くそれを受け流し、そんなものよりももっと楽しいものを探してうろうろとしていた。
「どいてください。どいてください」
 海賊よろしく頭にタオルを巻いた二人組がなにかの看板を抱えて、僕の脇を走り抜けた。周囲にはざわざわとした喧噪が敷き詰められている。
 息苦しさを感じて、頭を掻いた。
 僕以外の楽しげな連中に吸い尽くされ、笑い尽くされて、このあたりにはあまり空気が残っていないような気がした。その希薄な空気の層を縫うように歩く。結局のところ、自分が立って、歩いている場所など、普通の人々が生きている場所とほんの少し形而上学的な意味でずれているのだろう。
 そうして僕は、「師匠」と声を掛ける。
 そんな僕にとって楽しいものは、たいていその人が知っていた。
「よう。明日、大学祭に行こう」
 そう、例えば大学祭に。
 大学祭?
「何故ですか」
 少しうろたえて僕は訊ねた。普通の若者が楽しむようなお祭りなど、鼻で笑うはずの人からそんな言葉が出るとは。まるで、で、デートではないか。
「友だちから誘われたんだ。特美で絵を描いてる子なんだけど、作品の展示をするからって」
 デートだ。完全にデートだ。本来であれば、サークルに所属している学生は大学祭でなんらかの出し物をするために狩り出されるところだが、そんな苦労などどこ吹く風で、彼氏彼女とデートをするために不参加を決め込み、あまつさえそのサークルの模擬店などを冷やかしに行くといった鬼畜の所行をナチュラルに敢行する連中がいる。ありえない。そんなことが許されるのか。
「行きます」
「じゃあ明日な」
 この時期、わがキャンパスは黄色い。イチョウ並木とその落ち葉とで黄色一色に染められている。どこか甘い香りのする濃密な空気を胸一杯に吸い込み、浮き足だった足取りで僕は歩き出した。

◆

 その夜だ。家に帰って、昼間の出来事をじっくりと反芻していると、どう考えてもなにかオチがあるに違いないという結論に至った僕は、師匠のアパートを訪ねた。
「どういうことですか」
 そう切り出しただけで、すべて承知した師匠は語り出したのだった。
「後輩にな、特美で絵を描いている子がいるんだ。福武有子っていって、今四回生かな。もう卒業か。学部も違うけど、ちょっとしたことで知り合って仲良くなってな。たまに相談に乗ったりもするんだけど。変わった子でさ。変な絵を描くんだ」
 師匠はそう言って、押し入れに頭を突っ込んだ。
「まだこっちにあったかな。……あ、あった」
 振り向いたその手に、簡素な額縁に納まった絵が掲げられていた。
 それを見た瞬間、僕はなんとも言えない不安な気持ちになった。じわじわと気持ちの悪さが首をもたげてくる。
「この絵は、福武が去年描いたのをもらったんだ。これはなんだと思う?」
 それは鏡の前でたたずむ人物画だった。油絵だろうか。女性が大きな化粧鏡の前に座り、それを背後から描いているのだが、背中越しの鏡の中に女性の顔が映っている。まだ若い女性だ。微笑むでも、自分の顔を見つめるでもなく、ただ無表情で座っている。そんな絵だ。自画像なのかも知れない。それだけなら、どうということもない絵だ。だが、そんな女性の隣に、もう一人の人物がいるのだ。
その人物は女性のすぐ隣に座っていて、こちら側に背中を向けている。つまり並んで鏡の方を向いている。はずなのだ。はずなのだが、鏡の中にも背中が映っている。両面とも後ろ姿なのだ。身体の前面という、顔に代表されるその人のその人らしさを象徴する部分がどこにも存在していない。匿名的、というにもあまりにおぞましい、異様な絵だった。
 シュールレアリズムというのだろうか。画集を見たことがあるルネ・マグリットの作品にそんなモチーフの絵があっただろうかと考えていると、師匠は続けてこう言った。
「この絵は本人曰く、シュールレアリスムじゃなくて、レアリスムだとよ。実際にこういう、後ろ姿しかないやつを見たんだって」
 ぞくりとした。
 見た? こんなやつを?
「福武は子どものころから、こういうこの世のものではないやつを良く見るそうだ。そんな時はいつも見たものを絵に描く。そうすることで、怪異から自分の身を守れると信じている。絵の中に閉じ込める、って言ってたけど、さあ、それはどうだろうな」
 師匠はそう言って絵の表面をなぞった。薄ら笑いを浮かべながら。
「ただお化けを見るってだけなら、私だって、お前だってそうだ。だけどそれが画家だと、なんだかずっとしっくり来るんだよな。幻視者って言葉が」
 げんししゃ。
 確かに。口の中でその言葉を転がし、そう思った。絵の中の、何も色彩を持たない背中と、鏡の中の何も色彩を持たない背中。
「福武が一番多く描いているのが、身体の一部が大きい人間だ。片目や、片手や、鼻だけが異様に大きい人間。あいつは、昔見たんだってよ。そういう人間を。いや、こう言っていた。彼らは、身体の一部だけを残して小さくなってしまった巨人だと。それから、そんなやつらの絵を描きまくってると見えなくなったそうだ。めでたしめでたし」
 師匠が冗談めかして語るその話に、僕はふいに緊張を覚えた。なにかが繋がりそうな気がしたのだ。恐ろしいなにかが。
「ところが、最近になってから、また見えるようになったというんだ。はっきりと目の前で見ているんじゃなくて、どこかにそういうやつがいるのが見えるんだと。まさに幻視ってやつだな。しかも子どものころに見ていたやつらとは少し違っていた。最初は分からなかったらしい。ただ、ほんの少しの違和感を覚えた程度だと。やがて福武は気づいた。目だけが大きいやつや、手だけが大きいやつ。そんな不気味なやつらに現れた、新しい共通点」
 師匠は化粧鏡の絵を下ろし、僕を試すように見つめた。
「片目じゃなくて、両目だったというんだ。身体に対して異常な大きさを持っているのが。手がでかいやつは、片手じゃなくて両手。片足じゃなくて、両足。片耳じゃなくて、両耳」
 想像してみろ。と師匠は言った。
 両目だけが、異常に大きく、顔からはみ出てている人間。まるで子どもが描いたような絵から抜け出て来たようなやつだ。そんな人間が街を歩いている。小さな身体と小さな手足で。そしてその大きな目で見ている。そこから見える景色。なんて小さいんだろう。世界は。
「それは」
 僕は思わず絶句した。
 今年の夏だった。小人と巨人にまつわる出来事に遭遇したのは。そのことと関係があるというのだろうか。胸がドキドキする。
「福武がな、明日からの大学祭で作品を展示するんだけど、その中に見て欲しい絵があるって言うんだ」
 師匠はそう言ってにやりと笑った。

◆
 
 翌日、僕と師匠は待ち合わせて、一緒に一般教養の学部棟へ向かった。講義室の一室を借りて、そこで特別美術コースの学祭展をしているそうだ。
様々な模擬店が立ち並ぶキャンパスの間を抜け、大学祭の喧騒から離れていくと、少し物寂しい気持ちになる。途中、ささやかな学祭展の看板が目に入ったが、こんなもので足を運ぶ人がいるのだろうかと、人ごとながら心配になった。
 開放されていたその講義室は二階にあり、階段を登った先にある廊下を抜け、そこに並んだ扉の一つに入ると四方の壁を覆うように白い足付きのボードが並んでいて、そこに沢山の絵が展示されていた。
「浦井さん」
 展示会場の奥にいた女性がこちらに気づいて近づいてくる。小柄で端正な顔をしていて、髪が長い人だった。この人が福武さんか。
痩せているが、病的というほどでもない。だが、どこか不健康な印象を受けた。
「ありがとうございます。来てくれて」
「ようフクタケ。開店休業状態か」
 師匠は会場内を見回す。福武さんと一緒にいたもう一人の女性は恐らく同じ特美の学生だろう。会場当番ということか。それ以外に会場内にいるのは、僕らを除くと一人だけだった。学生ではない年配の女性で、模擬店で買ったらしい焼きソバかなにかのビニール袋を右腕に引っ掛けて、あまり熱心にでもなく一つ一つの絵を見て回っていた。
 あ、いや、そう思っている間に一人増えた。学生らしい服装の若い男がキョロキョロしながら入って来たのだった。それにしても寂しいものだ。
「あれ? 浦井さん。彼氏ですか」
 福武さんは僕の方を見ながらそう訊いてきた。
「家来だ」と師匠が言うので、僕は「家来です」と言うほかなかった。せめて弟子と言って欲しかったが。
 物珍しそうな視線をかわして、僕は壁際の絵に近づいた。学生が描いたにしても、やはり高校生とはレベルが違う。透明感のある夕暮れの街の風景や、バスケットに盛られた果物の精密な絵などを眺めながら、僕は自分の中に、それでも感動の欠片も浮かんで来ないのを感じていた。昔から絵はあまり好きではないのだ。
 それでも来場者がまた増えたようだ。カップルらしい二人組が入って来て、変な歓声を上げている。
「で、見て欲しい絵ってのはどれ?」
 師匠がそう訊ねると、福武さんは少し緊張した面持ちで、入り口から見て左隅の壁を指さした。
「あれか。いつ描いたの」
 師匠はそう言いながら左隅の壁際のボードに近づいていった。
「完成したのは五日くらい前です」
 師匠と、福武さんの後に続いて僕も歩き寄る。
 それは、大きな絵だった。三十号だか、四十号だか知らないが、そのくらいの大きさの絵がボードに掛けられている。
 師匠がその絵の前に立った瞬間、なにか異様な空気の緊迫を感じた気がした。師匠はその姿勢のまま固まり、身じろぎ一つしない。
 僕はなぜか足が重くなり、師匠の背中を見つめたまま絵の方に近寄れないでいた。
「なぜこの絵を描いた」
 師匠が絵を見据えたまま落ちついた口調でそう訊ねる。だがそれは張り詰めた空気の中を慎重に泳ぐような声色だった。
福武さんは「それは」と言ったきり口ごもり、言葉を探している。もう一人の特美の学生は、増えた来場者の対応で入り口のあたりにいる。展示会場の奥の一角には僕ら三人しかいない。
「見たんだな」
 念を押すような師匠の言葉に、福武さんは頷いた。
「どこで見た」
 師匠は絵から目を逸らさない。福武さんは一歩だけ近づき、「どこだか分からない、どこかで」と言った。
 師匠が言っていたとおりだ。福武さんの幻視は、その目で景色を見るようなものとは少し違うのだろう。この世のものではないものを街のどこかに、あるいは、どこだか分からないどこかに、幻視しているのだ。
 僕は重い足を引きずりながら、師匠の隣に近づいていった。
 大きな絵だった。油絵だ。夜を思わせる黒い背景の中に、気持ちの悪い生き物たちがいる。それは良く見ると裸の人間たちで、誰もかれも身体の一部が大きかった。鼻が身体の半分ほどもあるもの。両手がアホウドリの翼のように大きいもの。両目が寄生虫に侵されたカタツムリのように大きいもの……
 そして、両目と両手が大きいもの。
両耳と足先だけが大きいもの。
 顔全体が大きいもの。
「なんですか、これ」
 僕は呻いた。そんな人間とも呼べないような人間たちばかりが十人以上、両手を天に突き出しながら集っている絵だった。そのどれも、虚ろな表情をしながら、どこか狂気を孕んだような茫漠とした目つきをしていた。
サバトを思い浮かべた。まるで悪魔の宴だ。
 そしてちょうど絵の中央に、身体の一部が大きい人間たちが崇め奉るようにして囲んでいる化け物の姿があった。
「お前、これがなんなのか、知っているのか」
 師匠が押し殺した声でそう訊ねる。福武さんは首を左右に小さく振った。
「知らない」
 小さな声でそう答える。
 身体の一部が大きい人間たちが崇拝しているように見えるその怪物は、おぞましい姿をしていた。僕の身体は小刻みに震える。その姿をどこかで見たことがあるような気がしたが、ふいに湧いてきた全身を覆う悪寒に、記憶を辿ることもできない。
 見ている。
 悪寒の正体が言葉になった瞬間、張り詰めていた空気が、ねとくつような密度を持ち始めた。
 見ている。絵の中から。
 朝からここに飾られていたはずのただの絵が、僕らの来訪とともに、変質しようとしていた。いや、僕らじゃない。師匠だ。師匠の存在に呼応しているのだ。
 絵は静かにそこにあるだけだ。しかし、少しでも目を逸らすと、その狂気の宴が動き始めそうな気がして、僕はとてつもない息苦しさを感じていた。怪物の目がぐるりと動くような錯覚を立て続けに感じる。
「なんの冗談だ、これは」
 師匠が吐き捨てるように呟く。その言葉に違和感を覚え、僕は恐る恐る訊ねた。
「これがなんなのか知っているんですか」
師匠はゆっくりと頷いた。そして絵から視線を逸らさず、その中央に横たわる怪物を指さした。
「名前だけは、誰でも知ってる。でも、姿を知っている人は少ないだろうな」
 師匠はそうして怪物の名前を告げた。
「え」
 その名前に、僕は唖然とした。
「これが?」
 確かに、なんの冗談なのだ。偶然のはずはない。それではまるで……
「ちょっと、押さないでよ」
 甲高い声が展示会場の中に響いた。突然の大きな声に驚いて振り返ると、いつの間にか講義室の入り口のあたりには沢山の来場者がたむろしていた。ちょうど開け放した扉のあたりにいた学生らしい女性が、後ろから来る人の圧力で転びそうになっている。
 さっきまで閑散としていたのが、嘘のような盛況だった。
 そのわいわいとした賑やかさに、僕は生唾を飲み込んだ。降って湧いたような賑やかさの中で、まだ僕らの周りの張り詰めた空気と、絵の中からの異様な視線は続いていたのだ。
 異常な状況だった。
「押さないでください」
 福武さんの仲間が声を張り上げて、来場する人々を会場の奥へと誘導する。僕と師匠と福武さんが立ち尽くす一角へも人の流れがやって来ようとしている。
 先頭を行く女性が「なんなのよ、もう」と言いながら、戸惑った様子で歩いて来る。師匠がそこへ駆け寄り、早口で訊ねた。
「どうしてここへ来たんだ」
 女性は学生らしく、話しかけてきた相手が年上なのか年下なのかとっさに値踏みするように見つめていたが、師匠の切羽詰った様子に「どうしてって、なんとなく」とだけ答えた。
 師匠は続けてその後ろにいた男に声を掛ける。無精ひげを生やしていて、学生ならばドクターあたりの年齢だろうか。
「誰か宣伝でもしていたのか」
 師匠に肩を揺すられ不快そうに眉をひそめたが、男は「別に」と答えた。
「なんなの」「やめて、押さないでって言ってるでしょ」「ちょっと、もう出ようよ」「出よう」「なんか怖い」
 人々は困惑した様子で口々にそう言い、絵を見ようという余裕はすでになくなりつつあった。しかし、次から次へと講義室の入り口から人が入って来る。
「なんなのこれ」
 福武さんは、怯えた様子で口元を手で塞ぎ目を見開いている。
 その混乱の中でも、師匠は人々に声を掛け続け、この事態が一人ひとりの行動に絞って確認する限り、単に「学祭展をやってるらしいから、見てみるか」というありふれた動機から来ていることを突き止めていた。
 だがその一人ひとりの個人的な行動が、大学祭に来ていた多くの人々の中に生まれうる蓋然性を、はるかに超えた異常な割合で発生していたのだった。
「押さないでください!」
 悲鳴のような声があがった。出入り口の混乱状態はすでに収拾がつかないような状況のようだった。
「実行委員会に連絡しなきゃ」
 仲間が焦った様子で福武さんの肩を揺する。しかしそのすべはなかった。ここから出て、大学祭の役員を呼んで来ようにも、押し寄せる人の壁にとても出来そうになかったのだ。
「戻って、戻って」
 出入り口のあたりの人が廊下側に声を掛けるが、人の流れは止まる気配がなかった。徐々に講義室の空間が人間の群で狭くなっていく。
 僕は想像する。恐らく講義棟の入り口あたりには、特美の学祭展に行こうとする人の行列が出来ているのだろう。その行列が人々の注目を集め、なんの興味もなかった人々までも集め始めているのだ。これから並ぼうとする人たちは多分、これがなんの行列なのかすら分かっていないだろう。
「痛い、痛い!」
 廊下の方でどよめきが起きた。転倒があったようだ。密集地帯で倒れた人に押されて隣の人が倒れる、という恐ろしい循環が生まれたのだ。人々の悲鳴があっという間に充満する。
 恐慌が起ころうとしていた。
 目の前で展開する現実的な恐怖に僕の身体は震え、なにをすればいいのかも分からなかった。
「どけ」
 師匠が周囲にそう怒鳴ると、福武さんたちが使っていたパイプ椅子を掲げて、講義室の奥にあった申し訳程度の小さな窓に叩きつけた。ガスン、という大きな音がしたが、ガラスは割れなかった。
「くそ」
 師匠は悪態をつくと、窓ガラスに近づき、その構造を確かめる。胸元の高さに窓が設置されている。僕も駆け寄ったが、空気を入れ替えるための最低限の形でしか開かないように調整されているらしく、専用の器具もない現状では窓を開けようにもほんのわずかな隙間しか作れなかった。
 水平方向に軸があり、上部が手前側、そして下部が向こう側へと斜めに傾いた窓ガラス。その窓の外は二階だ。その向こうを見つめ、師匠が短く言い放った。
「ここから出る。その間に窓を押されたら腹が潰れかねない。お前はここで死守しろ」
 師匠はそう言ったかと思うと、素早く振り向き、あの悪夢のような絵を壁から外した。
「フクタケ! こいつは危険だ。処分するぞ」
 本人が頷くのも確認せず、師匠は再び窓に駆け寄り、その隙間から絵を講義室の外に落とした。そしてサッシに手をかけ、ひと一人が通れるか通れないか、という狭い隙間から、その身体を柔軟にしならせるようにして、外へ出ようとした。
 案の上、窓から出られることに気づいた周囲の人間が殺到しようとする。僕は吼えながら、それを力づくで押しとどめる。人の壁の物凄い圧力に恐怖を覚え、もう駄目だ、と思った瞬間、師匠の姿が窓の外へ完全に消えていった。
「あとは任せろ」という声を残して。

◆

 師匠が窓の外へ消えてから、ほどなくして人の流れは途絶えた。密集状態は徐々に緩和されていったが、人の喧騒が生んだ異様な熱気と、怪我人の呻き声はいつまでも周囲に漂い続けていた。
 救急車とパトカーが来て、ようやく事態が収拾したのは一時間以上経ってからだった。実況見分が始まり、大学祭の実行委員会の役員と、福武さんたち特別美術コースのメンバーが事情を聞かれている中、僕は大した怪我もなく、するするとその場を逃げ出した。
 師匠がどこにいったのか分からず、しばらくあたりを探し回っていたが、やがて諦めて一度自分の家に帰った。家から電話を掛けると、師匠は自分の家に戻っていた。すぐさま外へ飛び出して、師匠のアパートへ向かう。
 ノックだけをしてすぐにドアを開けると、師匠は部屋の真ん中であぐらをかいていた。
「よう。無事だったか」
「僕は大丈夫です」
 師匠はなぜか、服のあちこちが破れていた。窓から落ちる時に引っ掛けでもしたのかと思ったが、そんなにあちこちが破れるものだろうか。疑問に思っていたら、師匠は言った。
「あの後の方が大変だった」
 それはどういうことかと訊いても詳しく教えてくれなかったが、とにかく絵は処分したのだという。
「燃やしたんですか」
「ああ。焼却炉で」
 サークル棟のそばに学生が管理を任された焼却炉があるのだが、そこで燃やしたのだろう。
「あの絵はなんなんですか」
 僕はそう訊ねると、師匠ははぐらかすように言った。
「ばけものの絵だ」
 そうして、やぶれた肘のあたりを弄り回していた。

(完)

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