鬼叫

162 :N.W ◆0r0atwEaSo :2007/02/18(日) 05:12:25 ID:WYjKbv100
その年の暮れ─── 
主任と俺は、国土の大半を数千メーター級の山々に囲まれた所へ出張していた。       

正月だけは何とか日本で迎えたくて、必死で仕事をこなし、三が日だけは日本に戻ったが、4日には再びその国に戻る事になっていた。 
しかし、俺達が搭乗した飛行機は、途中で不調になって緊急着陸し、数時間後にやって来た代替機は、目的の空港まで後1時間余りの所で、現地の気象条件の悪化の為、最寄の空港へ降りる事になった。 

参った…が、こんな事はたまにある。 
時間が早ければ車でもチャーターするが、既にもう真夜中近い。焦った所で意味はない。 
明日、飛行機が飛ばないなら、別の方法を考えればいい。 
とりあえず、ホテルに予約を入れ、俺達は空港の外に出た。 
商売熱心なタクシーが「乗らないか?」と誘ってくるが、ホテルは目と鼻の先、断って歩き始める。 

十字路で、小さな荷車を引きながら、ゆっくり歩いてくる老人に出会った。 
痩せて、骨格がすっかり顕わになった、小さな身体。顔には、幾筋もの深い皺。年齢は 
80歳にも90歳にも見える。身なりは、そんなに貧しそうではない。 
彼は、俺達に気付くとゆっくり合掌し、歯の無い口で何事かをモゴモゴ呟きながら、おずおずと掌を蓮華の形に開いた。 
物乞いだった。 
彼の面には、心ならずも他人に恵みを請わねばならない、やりきれない悲しみと、消えてしまいたいような恥ずかしさが現われていた。 

ふだん、主任も俺も(自分は物を貰って当然!)と言う態度の物乞いには何も与えない。 
だが、この時、俺達は自分のポケットを急いで探っていた。 
まだ両替していないから、ほんの小銭しか持っていない。それでも、二人分合わせれば、この国なら2日は食べられる程度のお金と、機内で貰った飴が数個あった。 
老人の掌にそれらを乗せると、彼は押し戴くようにして受取り、大切そうに荷車の中へ仕舞い込む。 

主任が急に、自分の鞄の中から、ビニール袋に包まれた小さな物を取り出し、彼にそっと差し出した。 
穂の付いたまま、丸く束ねられた稲藁。それを飾る松葉、笹、センリョウ、紅白の椿と獅子頭。事務所に飾るつもりで買って来た“正月飾り”だった。 
受け取って、一瞬戸惑ったような表情を見せた老人の手を、次の瞬間、主任がしっかりと自分の手で包み込んだ。 
途端に、彼の両眼から大粒の涙がポロポロこぼれ始める。 

泣きながら何度も何度も礼を言い、また、荷車を引きながら、ゆっくりゆっくりその場から去って行く老人を、主任はなんとも言えない顔で見送っていた。 
「…勝手にやったりしてすまん。でも、あの爺さん…」主任は言いかけて少し言葉を切り、 
「もしかしたら、自分の親と同じような齢なんだと思ったら、何だか……」 
環境が厳しいこの国では、人々の平均寿命は約60歳。 
言いようの無い思いにとらわれながら、主任と俺は再びホテル目指して歩き出した。 

ふっつりと風が止んだ。 
だが、周囲の山々からだろうか、木枯らしとも虎落笛とも聞こえる音が、高く低く、遥か遠くから聞こえてくる。 
ホテルに着くと、俺達の姿を認めてドアを開けてくれたボーイが、急に驚いたような顔になり、「早く中へ!急いで!!」と叫んだ。 
訳がわからないが、とにかく俺達は慌てて中へ入った。。 
すると、彼は素早くドアの錠を下ろし、フロントへ駆けよって、地元の言葉で何か言った。 

フロントの男が大急ぎでこちらへ駆け寄り、妙に緊張した面持ちで尋ねて来る。 
「大丈夫ですか?気分はわるくないですか?平気ですか?」 
別に大丈夫だと、俺達がそれぞれ答えると、彼は安心したように溜息を吐いた。 
「ああ、それは良かったです…」 
ボーイもほっとしたように頷いている。 

「何なんですか、一体?どうしたって言うんです?」と、主任が尋ねた。 
「いえ」フロントが眉間に皺を寄せた「良くないモノが叫んでいたようなので…」 
「良くないモノって、何ですか?悪魔とか鬼とか、そう言う類?」 
主任が“鬼”と言う言葉を口にした瞬間、彼らは飛び上がりそうになった。 
「叱っ!!滅多な事を口にしないで下さい!!」 

彼らの説明によれば、良くないモノと言うのは、死んでしまったのに、まだ魂が身体の中に半分残っていて、半分の魂だけが野山を彷徨うばかりの、哀れな霊魂の事だと言う。 
それは、時折、死んでも死に切れない自分を嘆き悲しみ、狂ったように泣き叫ぶ。 
その叫びを生きた人間が聞くと、とても気が滅入り、間もなく自殺してしまう。 
俺達が聞いた、あの物寂しげな不思議な音が、その“鬼叫”らしい。 
「よかったです、無事にここへ辿り着けて」彼らは本気でそう思っているようだった。 

翌日、飛行機は無事に飛び、事務所へ舞い戻った俺達を、スタッフと仕事が待っていた。 
───そして1月15日。 
日本では小正月と言われるこの日、主任と俺を訪ね、一人の青年が事務所へやって来た。 
その人物に心当たりは全く無かったが、この辺では、誰かの紹介で見知らぬ人が訪ねて来ると言うのはよくある。 

それは育ちの良さそうな青年だった。彼は突然の来訪を詫びた後で、俺達に尋ねた。 
「もう10日余り前の事ですが、お二人は、どこかで、老人にお金と飴と飾り物をやった覚えはありませんか?」 
主任と俺は顔を見合わせた。たぶん、あの時の事に違いない。 
「ありますよ。でも、どうして、あなたがそんな事を知っているのですか?」と、主任が答えると、彼はやにわに椅子から降り、物凄い勢いで床へ額付いた。 

「えっ、ちょっと……?!」 
驚く俺達に、彼はそのままの姿勢で、更に驚くべき事を告げた。 
「ありがとうございました。あなた方のお陰で、父は成仏する事が出来ました!」 
「はぁ?」 
全く意味不明である。 
とにかく、彼を再び椅子に座らせ、事情を聞く事にした。 

「父は、とても吝嗇な人間でした」ゆっくりと彼が話し始める。「我が家は決して貧乏ではなかったのですが、父は、家族に一切の贅沢を許しませんでした。それどころか、お寺に寄付をする事も、お坊様にお布施をする事も、神様や仏様にお供えをする事すら許さなかったのです」 
それは、神仏への信仰厚いこの国では、とても考えられないような事だった。 

「そんな父が、去年の暮れに息を引き取りました。でも、1週間を越えても魂が移ったしるしがありません。4・5日なら世間でもよくありますが…生前の行ないが悪かったので、仕方ないと言えば仕方ない事でした」そう言って、彼は悲しそうな顔をした。 
こちらでは、呼吸が止まっても、魂がその人の身体から抜け出したしるしが無ければ、葬式は出来ない。 

「お坊様にも来て頂きましたが、このような場合は初めてだとおっしゃって、困っておいででした。家族も、親類も、皆それで大変悩んでいたのですが、今月の5日の朝、急にしるしが現われていて、ようやく葬式を出す事が出来たのです」 
彼の目にほんの少し、涙が滲んだ。 

「式の後で父の遺品を整理していると、愛用の荷車の中から、少しのお金と飴と、何か見た事もない飾り物が出て来ました。それで、我々家族にも合点がいったのです。良くないモノになって彷徨っていた父に、誰方かがお供えをして下さったのだと」 
彼は言葉を切り、俺達に向かって両手を合わせ、瞑目する。 
そして、彼はその飾り物が異国の物だったので、まずエアポートホテルを訪ねて行き、そこで“鬼叫”の話と俺達の事を聞き、やがてここまで辿り着いたと言う訳だった。 

目的を果たした青年は、晴れ晴れとして帰って行く。 
その後姿を見送りながら、主任が俺に言った。 
「…あの時の爺さんの表情と、あの涙の訳が、少しわかったような気がするよ…」 
「そうですね…」 
物はあくまで物でしかない。だが、そこに気持ちが加わった時、物は単なる物ではなく、気持ちを伝える器になる。 
一滴の水がやがて大河になるように、一片の温もりが誰かを救う事も有るのだと知った。

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