堤は見ていた
294 :虚の中の男 ◆AFcPKj5UhQ :2006/12/16(土) 04:11:20 ID:xLdcVcE50
『 堤は見ていた 』
ある休日、K氏は運動がてらに、ぶらりと街中を散策に出た。
めったに通らない、山あいの地域にまで足を延ばし、木と土と水の匂いを満喫した。
ふと、目の前に溜め池があるのを見つけた。昭和初期に防災用として整備された堤らしい。
堤の周辺には、元々、日本には無かったのではと思わせる奇怪な植物が生い茂り、
そこに猿でもいれば、まるでアンリ・ルッソーの絵のようであった。
通りがかった農家の人に「これは何の花ですかね?」と聞いたが、
農夫は何も答えず、ブツブツと言いながら、ふらっと向こうへと行ってしまった。
堤には蓮の花があちこちに浮かび、どこからか飛んできた水鳥が魚をついばんでいた。
堤の端で釣りをしていた子供に「釣れるかい?」と問うたが、子供は
無言で糸を垂れているだけだった。お邪魔そうだったので、その場を後にした。
堤をぐるりと一周して廻った。辺りはやけに静かで、急激な寂しさに襲われた。
そろそろ帰ろうかと思い、堤に背を向けた途端、背後からバシャバシャッと音がした。
見ると、先ほどすれ違った農夫が、釣りをしていた子供の頭を鷲づかみにして押さえ、
堤の中へと沈めようとしていた。農夫は鬼のような形相で何かつぶやいている。
「これはいかん!」と、足元に落ちていた棒切れを拾い、子供を助けに駆け寄ろうとした。
だがおかしな事に、走れど走れど、凄惨なその場所にたどり着けない。
目の前に見えない壁でもあるのか、ずっとそこで足踏みをしているような感じだった。
奮闘も虚しく、やがて水の音は消え、辺りは元の静寂を取り戻した。
農夫はすでにいなかった。子供も水の中へと消えた。
すぐさま警察へと通報し、消防団員たちが堤をさらってみたが、子供は見つからなかった。
農夫の事をいろいろと聞かれたが、近所に該当する人物はいなかった。
狂言ではないかと、泥だらけの男たちに詰め寄られたが、その時、地元の老人が
「以前にも、この堤で子供が死んだ事がある。」と、ぽつりと話した。
老人の話によると、二十年ほど前、釣りをしていた子供が溺れ死ぬ不幸があった。
子供の親はその後、余所へと引っ越した。子を失った悲しみから逃れるためだと
誰もが思ったが、実は、莫大な借金を抱え首が回らなくなり、夜逃げ同然だったともいう。
その話を聞いていたベテランの巡査が「あっ!」と声をあげた。
巡査は当時の事故をよく覚えており、夜逃げした親の顔もよく知っていた。
それが、先ほど話した農夫の特徴とよく似通っているのだと言う。
その場に居合わせた一同が怪訝な顔をした。過去の出来事がそこで再現されたとでも
言いたげな巡査に、目撃者のK氏でさえ首を傾げざるを得なかった。
もう、とっぷりと日が暮れていた。帰る前に堤に向かって手を合わせた。
そして、手で耳を押さえながら、K氏は堤に背を向けた。