名も無き怪

137 :虚の中の男 ◆AFcPKj5UhQ :2006/12/06(水) 05:05:30 ID:dsQaRk7o0
『 名も無き怪 』 


ある山村に怪談好きの若者がいた。彼は祖父母から聞いた山の話や、幼少の頃に山で感じた恐怖感を元に、怪異な話を練り上げては、皆の前で話していた。 
彼の話は長ったらしいものだったが、それでも耳を傾けてくれる好事家たちがいた。 

そんな彼の口の利きっぷりが気に入らなかったのか、話の最中に背後から茶々を入れるモノがあった。 
振り返ったが、誰もいない。いや、かすかに人の形をした影が蠢いている。 
それは若者に目を向けたかと思うと、「つまらない」「鬱陶しい」などと辛辣な言葉を浴びせかけた。 
若者は、影がいったい何者であるのか分からなかったが、影は彼の名前を親の敵のように呼び捨て、一段高い所から見下しているつもりらしかった。 

影は若者の事がよほど気に食わぬ様子であったが、それでも彼から目を背ける事はせず、むしろ、努めて彼に眼差しを向けているようでもあった。 
かと言って、若者の身に直接被害が及ぶ事も無く、影は虚ろな目でこちらを見て、少ない言葉で、ぽつり、ぽつりと悪態をつくだけであった。

ある日、若者がいつものように話をしようと、村の寄り合い所に行くと、またそこに影がいた。 
影は虚無の空間を睨みつけ、「若者が自分の名前を消し、他人に成り済まして村を荒らした。」と、身に覚えの無い事を吹聴して廻っていた。どうやら、他の誰かと勘違いしているらしい。 
若者は冗談じゃないと憤ったが、ひとりで土俵に上がって拳を振り回している影の様を見て、滑稽に思うと同時に、何だか哀れになった。 

しかし、影のせいで寄り合い所の空気が悪くなった事は確かである。 
後日、若者は村の祈祷師の元へと相談に行った。影をどうにか出来ないかと。 
祈祷師は、あやかしの姿を見る事を避けて通れる『専武羅』という祭器と『逃冥唖煩』という経典を教えてくれたが、これらの力を使うには、影の名や、影が常時口にする言霊を知る必要があるという。 
残念ながら、どちらにも心当たりが無かった。 

それでは、と祈祷師は別のものを授けてくれた。それは『禍霊忍州流』という呪文だった。 
この呪文を唱えると、己の心に生じた苛立ちや迷いが消え、落ち着きを取り戻せるという。 
若者は、さっそく呪文を唱えながら、寄り合い所へと向かった。 

そこには、若者の話を聞いてくれる好事家たちしか見当たらなかった。 
若者は再び、いつもの調子で長い長い怪異の話をして聞かせた。 
好事家のひとりが時折り、蠅でも振り払うかのような仕種をしたが、気にせず話し続けた。

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