山中異界

968:しゅもくざめ 10/13(金) 00:24 fhVRqAw10 [sage] 
山中異界とはよく言ったものだ。 
海なのか、はたまた山なのか。 



2年、3年も前だったろうか。だが今迄で一番印象に残っている。 
東北の先での話しだ。 

よく電車の中から見える様な田と山に囲まれた、本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるような所だった。 
温泉の宿泊券を当てたというだけで赴いたが、見事に何も無い。――――失礼ではあるが。 
宿泊施設と云うのも人気のないその場所から、更に人気のない山の中に建っている。 
山と云っても鬱蒼としたものではない。小山と云って差し支えないだろう。 
そこに僅かばかり食い込んで建物はある。 
罷り間違っても観光地ではないな。目の前にしてそう思い、口許が引き攣った。 

期待していた訳でもなかったが温泉というのも、銭湯のソレと変わりない。 
とは云え、自宅の業務用冷蔵庫の様なものとは比ぶべくも無い。 
只ひたすらに温泉であるこの場所では、湯を頂戴するという本懐を遂げる事意外する事が無い為 
来て早々温泉に入った。 
冷えた体を湯に沈めながら学生時の野外活動を思い出し、又口許を引き攣らせた。―――昼間に風呂と云うのも悪くない。 
口に一滴湯が入る。何故だかしょっぱい。やはり温泉か。普通の湯とは違うらしい。 

陽は落ちて来ていたのだろうか、空がオレンジがかっている。 
随分と湯に浸かっていたらしい。体が蛸のソレに良く似ている。案内板を見ると近くに池があるらしい。 
湯冷ましを兼ねて池を見に行ってみることにした。 
宿泊施設を抜けて少し山の奥に入った所だろうか。沼があった。 
池と云うよりは沼といった感じだ。素直にそう思った。 

沼のほとりで老人が釣りをしていた。何が釣れるのか? 
聞くとクーラーボックスを見せてくれた。凡そ似つかわしくないモノが泳いでいる。鰈だ。 
一気に体が冷める。山の木々が光を遮り余計に雰囲気をかもしだした。 

何故鰈が?聞こうとした時足元で水が撥ねた。ぎざぎざに円く縁取られたように削られた木片がある。 
老人が追い討ちを掛けるように云う。鮫がいるから水辺には近寄るなと。 
一瞬息が止まった。瞬間的に体は動くもので、その一言で水辺から飛び退いた。こんなに驚いたのは何時以来だろうか。 
動物の死骸が浮いていた池以来かもしれない。どうにも山の水辺には縁がある。 
だがこの小さい沼で仮に鮫が居たとして生きていられるものなのだろうか? 
それを聞くと昔噺の様な話をしてくれた。 
この沼はもともと海と繋がっていたらしい。海と繋がっている頃、7匹の海の使いと云われる鮫が日本中の海を泳ぎ回っていたそうだ。 
そして1年に一度7匹が集まって四国の海を廻るのだという。だがある時其の内の一匹が獲られたのか死んだのか、居なくなってしまったらしい。 
そのせいで流行り病が流行したのだという。そしてその一匹と云うのが此処に居るらしい。形も他の鮫とは違い頭が金槌の様だと云う。 

寒気がした。見れば辺りは夕暮れを越して藍色が落ちて来ている。 
老人に礼を云おうと振り向くと、片足が無い。喉が酷くべた付いた。タイミングを逃して黙ると老人は云う。 
海と繋がっていたのは何百年も前だろうと。何故拘って未だ此処に居るのかと。暗くて勝手にそう見えただけかもしれないが、 
潜めた眉が悲しい顔に見えた。 
偶に腹が腐れた魚が釣れるのだと云う。最後に老人はそう語ると釣具の影に在った杖を着いてその場を離れた。 
場を離れる前に興味が沸いたのか名前を聞いて、今度は寒さから逃れるために宿に戻った。 
宿に戻り夕餉を頂きながら成る程だからしょっぱかったのか、等と関係あるのかないのか分らない事を考えた。 

次の日の帰り際、沼を覗くと老人が又釣りをしていた。よく見れば近くに祠も建っている。――――暗くて気付かなかったな。 
今日帰るのだという社交辞令の挨拶を交わすとそのまま帰路についた。 

帰りの電車でうとうとしていると後ろの会話が聞こえてきた。昨日の鮫の話らしい。―――案外有名なのか。 
聞き耳を立てると大まかな内容は、7匹の鮫の中金槌の鮫ともう一匹が争い尾びれの一部を食い千切られたというモノだった。 

又寒気がした。偶然は重なるから偶然なのだろう。老人の名は鰐と云った。鰐は鮫の古い言葉だ。 
山中異界。そんな言葉を思い出しながらどっと疲れが溜まるのを感じた。 

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