新月

281:N.W◆0r0atwEaSo 05/24(水) 05:00 sCjLjMSO0 [sage]
異国の、山間の清流の畔に建つ宿に泊まった時の事。 

同行のローカルスタッフが俺に言った。 
「今夜は新月だから、外へ出ないで下さい。良くないものが出ます」 
訳をきくと、彼はこんな話を聞かせてくれた。 

───昔、ある男が祭りで一人の娘と知り合い、恋に落ちた。 
娘の家は川向こうの山の中に会ったが、娘は毎晩のように舟を出し、対岸にある 
男の家を訪れ、二人は夜毎の逢瀬を楽しんでいた。 
娘は雨の日も風の日も、男の許を訪れた。 
男は大変心配し、無理をしてはいけないと言ったが、娘は笑って聞き入れなかった。 

ある日、強い嵐が辺りを襲った。 
山の木々は強烈な風に左右に捻られ、普段は美しく澄んだ水の流れる川は、茶色く 
濁った水がうねるように盛り上がっている。 
夜になり、多少はましになったとは言うものの、雨脚はまだまだ強い。 

これでは流石に娘も来れまい。 
男はそう思っていたのだが、その夜遅く、ずぶ濡れになった娘が男の部屋を訪れた。 
そして、いつものように愛を交わすと、男が止めるのも聞かず、激しい風雨の中を 
戻って行った。

男は不意に娘が恐ろしくなった。 
きっと、妖怪か何かに違いないと思った。 
そこで、両親にこれまでの事を打ち明け、どうすればいいかと尋ねた。 
両親もたいそう驚き、それはきっと妖怪に違いないと言った。 

鉄の矢で胸を射抜き、川へ沈めてしまえばいいだろう。 
ただし、月明かりがあると、鏃が光って妖怪に見抜かれてしまう。 
新月の夜なら、暗い上に、向こうが舟の舳先の灯りをなお強くするから好都合だ。 
話はそう決まり、男はそれから何日も何食わぬ顔で娘を迎え入れた。 

やがて、新月の夜、川向こうに一つぽつんと明かりが灯った。 
水に煌く火影を映しながら、川面を滑るように近づいて来る娘の舟が、もう少しで 
いつもの場所に着こうとした時、ひゅんと鋭い矢音がし、鋼の矢がぷっつりと 
娘の胸を射抜いた。 
娘は声も立てずに船の上に崩れ折れ、漕ぎ手を失った舟はそのまま川下へ流れ去った。 

それから、新月の夜になると、殺された娘が舟に乗って姿を現すようになった。 
自分が落命した辺りに舟を止め、一晩中立ち尽くしては、時折男の名前を呼ぶ。 
間もなく、男は亡くなり、家は没落して、家人は夜逃げ同然にこの地を去った。 

十数年後、大洪水で男の家はきれいさっぱり流れてしまったが、娘は相変わらず、 
新月の夜になるとその場所に現われると言う。 
「その家の跡地に建ったのがここなんです」 
ローカルスタッフは真面目な顔でそう言った。 

───しかし、その夜彼女が来たかどうかは、爆睡していた俺には定かではない。 

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