岩の蝶

807 名前: 全裸隊 ◆CH99uyNUDE 2005/10/02(日) 21:29:25 ID:zyRNN2/G0
part1で書き込み、まとめサイトで「赤い服の人」と 
名付けられた話で、詳しく触れていない部分なので恐縮だが・・・ 

友人が滝から落下し、救急車で運ばれた後、滝へ戻った。 
登り始める前に見たのと同じ滝だったが、大変な事故の後で 
見るそれは、明らかに違うものに見えた。 
自然が用意してくれた遊具のように見えていた滝が、まるで 
それ以上の侵入を拒む、開かれない城門のように見えた。 

自然は遊具など用意しない。 
そんな見方は、そこへ娯楽で踏み込む側の思い違いであり、 
甘えであり、思い上がりだ。 
さっきは気持ちよかった、朝の滝特有のひんやりした空気が、 
今は不気味な冷たさで俺を包んだ。 

友人が、顔を直撃させた岩が滝壷にある。 
救急隊が到着するまで友人が枕にしていた石がある。 
友人が背負い、落下時に千切れたザックがある。 
強引に滝の上まで伸ばしたザイルが、垂れ下がっていた。 

友人が落ちた時に聞いた笑い声は聞こえず、目の前に現れた、 
人の姿をした山の怪は、今はどこにも見えない。 

鼓動がせわしなくなり、全身が硬直し、力が入らなくなった。 
友人が顔から叩きつけられた滝壷の岩には、べっとりと血がついており、 
流れもせず、滝のしぶきを浴び、磨き立てたように光っている。 
茶色い蝶が岩にとまっていた。 
その蝶は、岩についた友人の血を吸っているようだった。 
蝶が血を吸うだろうか。 
とにかくそう見え、そう思えた。 

友人のザックを手に取り、散乱した荷物をうつろに拾い集めた。 
滝壷から引き揚げた友人を寝かせておいた場所には、 
大量の血が残っており、そこに寝ていた友人の姿が生々しく脳裏に浮かんだ。 
滝に張ったザイルを見た。 
回収は、俺には無理だと思った。 
理由や言い訳は、いくつも思いついた。 
とにかく、俺には無理だ。 

滝壷の岩に目をやると、蝶が、その数を増していた。 
多くの蝶が、羽を小さく、ゆっくり動かしつつ血を吸っていた。 
15メートルの高さから落ち、頭部を強打した人間は、普通死ぬ。 

滝壷でざぶざぶと手を洗い、岩にたかる蝶を見つめた。 
手や腕についた血は落ちきらなかったし、そこまで丁寧に洗う気にも 
ならなかった。 
顔に触れると、乾いた血が頬や額についているのが分かったが 
どうでも良かった。 

獣道しかないルートを、何度も転びながら降り、林道に止めた車に 
たどりついた。 
落下事故に遭った友人の車だ。 
ランクルのBJ40。 
リアゲートを施錠しないのはいつもの事だ。 
荷室にザックを置いた。 
鍵は持っておらず、車の回収がいつになるか分からない。 
持ち帰った方が良さそうな物はないかと、ザックと車内を探し 
いくつかの小物を、自分のザックに移した。 
それらの小物が、遺品になるのだと思った。 

不意に、何が何でもザイルを回収しようという気になった。 
下らない意地だったかもしれないが、自分でもよく分からない。 
自分のザックを背負い、滝へ向かった。 

滝まで戻ると、あの滝壷の岩が目に入った。 
蝶はさらに増え、びっしりと岩を覆いつくしていた。 
友人を寝かせた場所も、蝶で地面が見えないほどだった。 

滝を見上げると、誰かが見下ろしているように感じた。 
ここに戻ろうと思ったのは、ザイルを回収しようと思ったのは、 
果たして自分の意思なのだろうか。 
一人で回収するのは、やはり危険に過ぎる。 

感情が昂ぶり、友人を寝かせた地面にたかる蝶を追い払い、 
その一帯の小石と土をすくいあげ、滝壷に放り込んだ。 
ザックからタオルを取り出し、ざぶざぶと水に踏み込み、 
岩の蝶に構うことなく、目に付く限りの血をタオルでこすり落とした。 
乾いた血は、爪で掻き落とした。 

滝に背を向け、歩き出したとき、誰かの声が聞こえた気がした。 
どこかで、低い声で笑っているのが聞こえた気もした。 
構わず歩き去った。 
とにかく、怖かった。 

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