暗い沼

891 :暗い沼(多分1/15):2011/09/01(木) 22:42:05.30 ID:I1BdW+fm0

誰もが知っている国民的アイドルの一人が、過去に通っていたことのある高校だが、
この高校が出来る前は広大な沼地と、深い森が広がっており、夕方になると天気の良い日でさえ、
薄暗くなるような寂しい場所だった。
当時、この近隣に住む親は、子供達がこの沼の周辺で遊ぶことを堅く禁じているようだった。
平均すると膝丈程度の浅い沼は水の透明度が高く様々な水生動物の宝庫だった。
在来種の他にも外来種のアメリカザリガニなどが豊富に生息しており、
釣り道具とバケツを持って行けば溢れんばかりの収穫が常に約束されていた。
こんな面白い遊び場は他になく、実際に親の言い付けを守る者などは一人もいなかった。
あの忌まわしい事件が起こるまでは…。

先に触れたように、この沼の水の透明度は異常な程クリアで、
沼の縁から見渡せばおよそ7~8メートル四方の水域が手に取るようにわかる。
水の中には細い竹のような背の高い植物が散在し、見渡す限り奥の方まで沼が続いているように見えた。
奥に行くほど水面から自生する植物は増え、より暗くなっていく。
水面から底までの深さも概ね安定しており、水底は泥が沈殿したような状態になっていた。
ただ、時々その沈殿した泥が実際の深さを見誤らせる事があった。
この沼には、一見すると何も危険が無いかのような穏やかな雰囲気が漂っていた。
しかしこの沼の本当の恐ろしさは、その周囲一帯を覆う囲いの厳重さに現れていたのかもしれない。
沼と周辺地域は自生する木々の他にも、人工的に設けられた柵によって完全に隔てられていた。

沼の穏やかさに対して、柵は全くアンバランスと言っても過言ではないほどの、
異様な雰囲気を醸し出していた。
黒塗りの鉄で作られた厳重な柵が沼の周囲をぐるりと囲むように設けてあり、
その高い柵の上下には、ご丁寧にも鉄条網が複雑に絡めてあった。
柵には煤けた注意書きの看板があり、現在では決して見ることが出来ないような、恐ろしい絵が描かれていた。
それは邪悪な死神が、幼い子供を沼の底へ引きずり込もうとしている不謹慎なものだった。
漢字で書かれた複雑な注意書きの他に、子供でも読める平易な文字が記されており、
赤いペンキで「このヌマはたいへんキケンです。ぜったいに、なかであそんではいけません」という
警告文が読みとれた。

あえて手書きされたもので、所々に含められたカタカナと、
血のように垂れて滲んだ文字の演出が恐怖感を煽っているようにも見えた。
今振り返ってもこれほど、入る者をためらわせる雰囲気の場所は他に無かったと思う。
しかし、こんな場所にもたった一つ、草木に隠れて外からは容易に見えない入り口があったのだ。
誰かが鉄条網の一部に切り込みを入れ、普段はそれとはわからないよう、
針金でしっかり固定した状態で隠されていた。
その日も仲の良いクラスのメンバーが男ばかり10人ほど集まって厳重な柵の合間をすり抜け、
沼のほとりに立っていた。
背後の柵やその周囲は木々に覆われており、自分達が立っている場所が近隣の民家からは
完全な死角になっていることを確認済みだった。

いつものようにリーダーの勇次が先頭で沼に足を踏み入れる。
「今日は第五地区の先の、新しい地域を切り開くぞ。みんな遅れずに俺に付いてこい。」と
後ろを振り返りながら宣言した。
我々は新たな目的地まで到達すると勝手な地域名を数字で割り付け、徐々に沼地の奥へと進んでいった。
既に長い時間をかけて五番目の地域までは制覇し、その日は新たに第六地区を切り開くことになっていた。
我々の知る限りこれほど深くまで沼を進んだ者は誰もいなかった。
既に何度も足を踏み入れた第五地区までは順調に到達した。
新たな目標地点の入り口に立つとその先は猛烈に暗い。
木漏れ日が所々に水面へ明かりを落としていたが、
折り重なるようにして無造作に立ち並ぶ雑木林が多くの光を遮っていた。

前回来たときは人数も少なく、正直勇次も他のメンバー数名もこれ以上の探索を諦めざるを得なかった。
今回はその反省を踏まえた上での大規模編成というわけだ。
勇次は慎重に一歩ずつ歩を進めた。「足下が緩いところがある。気を付けて進め。」
その言葉を発した直後、ズボッという激しい音を立てて勇次の体が腰の上まで一気に吸い込まれた。
その瞬間周りの連中が驚き、口々に勇次に声をかけた。
これまで太もも当たりまでの深みは経験が有った物の、これほどの急な深みは経験したことがなかった。
しかし勇次はあくまでも冷静だった。
「ここにかなりの深みがある。底は堅くて安定しているけど、一旦引き返して別のルートを進む。」
その言葉を聞くとみんなは安心して、「今のは危なかったな」などと安堵のため息が漏れた。
勇次はその場で180度向きを変えこちらに戻ろうとした。その瞬間表情が曇る。

「あれ? 何かが足に絡まってる…。」
「おいおい、大丈夫か?」
「何かって何だよ。枝か何かが絡まったのか?」
「いや、ち、違う、これは…」
そこまで言い掛けると、再びズボッという音とともに勇次の体が胸まで引き込まれた。
その瞬間みんなが息を飲む。
「おい、まさか底なし沼じゃないだろうな?」
誰かがとっさに勇次に声をかける。
勇次の顔は先ほどの冷静な表情とは打って変わって恐怖に支配されていた。
「違う! あ、足を、両足を掴まれてる。何かが俺の両足を…」
そこまで言い終わらない内に、ズボッという音を立てたかと思うと、勇次の体は首まで水面下に沈んでいた。
勇次は突然腕を滅茶苦茶に振り回しながら恐怖に歪んだ顔で自分の足を掴んでいる何かを振り払おうと、
死に物狂いでもがき始めた。

水面に出た僅かな部分で力一杯水面を叩いたので、激しく水しぶきが飛び散った。
勇次に最も近い位置にいた3人の連中は金縛りにあったように全く動けなくなっていた。
その様子を背後から見ていた俺と金子は咄嗟に前へ駆けだし、前方の三人を押しのけて勇次を救いに行った。
勇次は体を狂ったようにバタつかせ、もはや完全に恐怖に支配されていた。
狂気じみた目には助けるために近寄った俺と金子が見えていないようだった。
「助けてっ! 引き込まれる! 腕が! 沢山の腕が俺の足を掴んでる!」
その言葉を聞き、戦慄が走る。勇次の周りには巻き上げられた泥が激しく渦巻き、
深みに何が潜んでいるのか全く確認することができなかった。
俺は勇次の暴れ方と狂気じみた表情に心底ビビってしまい、
暴れる勇次を目前にして全く動けなくなってしまった。

そんな俺の様子を確認した金子は、勇気を振り絞って勇次の側まで行き、
暴れている彼の腕を何とか掴んだ、そして俺の方を振り返り鋭く命令した。
「河本! ここは深くない。勇次の体を引っ張り上げるから、手を貸してくれ!」
その言葉で我に返った俺は、素早く前に進むと勇次の反対側の腕を掴み、力一杯引き抜こうとした。
その瞬間再び不自然な勢いで勇次の頭までが完全に水没した。掴んだ腕には激しい痙攣が生じ、
水中で叫んだのかガボガボという音とともに、大量の気泡が浮かんできた。
もはや一刻の猶予もない。
俺と金子は必死に引っ張り上げようと力を込めたものの、二人だけではうまく引き上げられなかった。
そこですぐ近くにいた3人に応援を頼む。
「島田、秋山、下川! 手を貸してくれ!」

呼ばれた3人も弾かれたように我に返ると、
慌てて近寄ってきて勇次の体で掴める部分を掴み、力一杯引き抜きはじめた。
5人掛かりで一気に力を込めると徐々に勇次の体が持ち上がってきた。
俺は得体の知れない恐怖に押し潰されそうになりながらも、必死に勇次の腕を引っ張った。
勇次の体が胸まで水面に出ると金子は何のためらいもなく勇次の背後に回り、
脇の下に両腕を差し入れてから一気に体を引き抜いた。
勇次の体がようやく元の高さまで引き戻される。
勇次は濁った泥水を吐き出すと激しく咳き込んだ。
どうやら溺死は免れたようだ。
安心した俺たちは抜群の連携で勇次を助け出すと、一気に来た道を引き返し始めた。

他の連中もようやく動けるようになり、
バシャバシャと激しい水しぶきが上がるのも気にせず、全力で駆け戻る。
沼の入り口の安全な場所まで戻り、完全に岸に上がったところで、
服が汚れるのも構わず俺たちは大の字にひっくり返った。
呼吸が整うまでの数分間、誰も何も言わないまま、激しい呼吸の音だけが辺りを支配した。
みんなが落ち着きを取り戻した頃、金子がポツリと口にした。
「あそこは全く深くなかった。」
「勇次のいた所だけが、偶然深かったようだな。」
俺は恐怖を振り払うように言葉を絞り出した。しかし金子がそれを否定する。
「いや、勇次のいたところも深くはなかった。あいつを助け出した直後、
 足で勇次が埋まってたところを確認したが、どこにも穴なんて開いてなかったんだ。」

「そ、そんばバカな! 現に勇次は頭まで沈んでたじゃないか!」
「そうだな。だがあいつの背後に回ってもあいつの体は、そこにはなかった。
 助けた後、あいつが埋まってた場所に足を取られないよう慎重に探ったが、穴なんか無かったんだ、
 そもそもあいつの体を引っ張り出してるときも、踏ん張るために、
 穴に落ちないギリギリの所を探ったが、穴なんて無かった、手を水底に入れて確認したが、
 あいつの体と地面の間には、全く隙間が無かったんだ!」
「それじゃあ勇次は『どこに』落ちてたんだ?」
「それはわからない、少なくとも地面に深い穴は開いていなかった。」

勇次が吸い込まれ始めたときに勇次の側にいた秋山・下川・島田の3人は、
俺と金子のやりとりを一通り聞いた後に次々と重い口を開きはじめた。
「勇次の体には無数の青白い手が絡みついていた。」
「全部水の底から延びていて、水の中へ引きずり込もうとしているようだった。」
「手しか見えなかったが、あれは完全に人の手の形だった」
それぞれの表情を見ながら聞いていたが誰もが嘘を付いているようには見えなかった。
そしてポカンとだらしなく口を開け視線の定まらない勇次に声をかけた。
「勇次、今回は本当にやばかったな。」

しかし返事がない。
「おい、勇次! 大丈夫か?」
勇次の肩を揺さぶりながら話しかける。
それでも彼は返事をしなかった。
口はポカンと開いたまま、端からはトロッとしたヨダレが垂れ始めていた。
その後の呼びかけにも答えることはなく、虚ろな視線は最後まで合うことがなかった。
勇次の体は暗い沼から戻って来られたが、彼の心は沼の底に永遠に持って行かれてしまったのだった。

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