もどり雪

238 名前:林人13号 ◆tjIwFprWic [sage] :04/09/29 19:28:53 ID:w+rkiq6d
真冬、立木も少ない吹きさらしの斜面で、降り積もった粉雪が強風にあおられて、 
下から上へと昇ってゆくように見えることがある。 
ある地方ではその現象を、天に戻って行く雪という意味で「もどり雪」と呼ぶそうだ。 

そんな「もどり雪」にまつわる話。 

1月の終わり、山守りのハルさんは山の見回りを終えて山を下っていた。 
左側の谷から、強烈な北風に舞い上がった粉雪が吹き付けてくる。 
ちょっとした吹雪のような「もどり雪」だった。 

と――雪煙の向こうに人影が見えた。 
道端にある山土場に佇んで谷の方を向いている。 
ヒュゥゥゥ―と唸る風の音をついて、何事か話す声が聞こえてきた。 
その人影が誰かと話をしているようだが、相手の姿が見えない。 

近付くにつれ、影の正体が判明した。同じ在所の源さんだ。 
「おぉい!そんな所で何やってるんだ?」 
ハルさんが声を掛けると、源さんはゆっくりとこちらに向き直った。 
ゴツゴツとした厳つい顔が、今は少し強ばっているように見える。 
「……何だ、ハルさんか」 
「何だとは何だ。それよりお前、誰かと喋っていたようだが」 
「ああ、ちょっとな、翔太と話をしていたんだ…」 
「何だって?」 
ハルさんは、しばし呆気にとられた。 

翔太と云うのは源さんの一人息子だが、 
先年の春、7才になる前に小児ガンでこの世を去っているのだ。 

翔太が死んでからの源さんの様子には、一見何の変化もなかった。 
元来、黙して語らずといった雰囲気の持ち主だったし、 
寄り合いの席などでむっつりと押し黙っているのも、以前と変わりない。 
悲嘆に暮れているような姿も、ついぞ見せたことがなかった。 

翔太の葬式の時など、俯き加減で泣き続ける細君を尻目に、 
居並ぶ参列者を、仇でも見るような目つきで睨みつけていた。 
そんな源さんの立ち振る舞いを見て、ハルさんの心中に去来したのは、 
――意地を張ってるんだろうなぁ… 
という思いだった。 

たぶん、そうすることで悲しみを無理矢理押さえ込んでいたのだろう。 
あれから9ヶ月余り。今日までずっと、源さんは意地を張り続けている… 

「…歩いてたらさ、土場に差し掛かったあたりで誰かに呼ばれたような気がして。 
 で、そっちを向くと、すぐそこに翔太が立っていたんだ」 
ハルさんは、無言で源さんの独白に耳を傾けた。 
いつの間にか風は止んでいて、周囲の山は時が止まったかのように静まり返っている。 

「翔太のヤツ、お母さんをいじめちゃだめだよ、なぁんて言うんだ。 
 そりゃあ俺も、翔太のことではアレを随分叱ったからな。 
 いつまで泣いているんだ、泣いてどうなるものでもないだろう、なんてな」 
そのことは、妻を通じてハルさんの耳にも届いていた。 
田舎の井戸端ネットワークは全く侮れない。 
「悪いとは思ったけど止められなかったんだ。そうやって気力を奮い立たせてたんだな。 
 いや、逃げていたのかもしれない。で、気が付いたら会話が無くなってた」 
源さんは顔を空に向けて語り続けた。いつになく口数が多い。  

「あいつはそれが心配だったんだとさ。久しぶりに会った我が子に説教されるとはなぁ。 
 まったく、腹が立つやら情けないやら……なんだかなぁ………けどよ…」 
そこで一旦口籠もり、そのまま空を振り仰いだまま立つ尽くす。 

「…けどよハルさん。何でかなぁ…涙が止まらねえんだよ」 

上を向いた目からジュワッと涙が溢れ出し、頬を伝ってこぼれ落ちたかと思うと、 
源さんは、そのままオォォォォォ…!と声を張り上げて泣き出した。 
我慢に我慢を重ね、意地を張り通してきた源さんの号泣は容易には止まらず、 
後から後からこぼれ落ちる大粒の涙が、雪面にポタタタタ…と穴を穿つ。 
そのすぐ向こう、真っ新な雪の上にポツリと一組だけ、小さな子供の足跡があった。 

やがて――再び勢いを増した風が激しく雪を舞い散らすと、 
足跡はあっという間にかき消されてしまった。 
しかし、それは源さんの心の内に消えることなく焼き付いたのだろう。 
山を下りた源さんの厳つい顔は、近頃になく晴れやかだった。 

もどり雪が、ほんの少しだけ時を戻してくれたのかもしれない。 

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