牛深

524 名前:459 :2006/03/23(木) 00:55:52 ID:4pZlpe5S0
俺が小学校6年生の頃、父の実家、熊本県牛深市で体験した出来事。

ぐぐってもらうとわかるんだが、牛深という場所は、天草(天草四郎の出生地)という地方をさらに奥へ進んだ昔で言う、いわゆる漁村なのだ。
漁村といってもそこへ行くためには熊本からいくつもの小島を橋を渡っていかなければならないし、山もいくつか超えなければならない。
つまりは、当時は熊本から隔絶された集落といってもよかった。

そこで体験した奇妙な体験はいくつもあるのだが、今回はそのうちの一つを話したい。

やはり、田舎というところは先祖との結びつきが一段と強い気がする。牛深も例外ではなかった。
牛深では、盆は8月13日に始まり、15日に終わる。
近所の墓は小高い山(標高にして数十メートル)に所狭しと立っていた。
牛深では習慣で、お盆の最終日(15日)の夕方にその小高い山の墓場で送り火のかわりに様々な花火をするというものだった。
線香花火でもよし、ねずみ花火でも、ロケット花火でもよかった。墓場で花火をするなんて不謹慎ではないか、と母は父に常々言っていたが、父が言うには「最後にご先祖様と花火をして盛り上がるんだよ」と。
俺と弟は祖父に豪華な花火セットを近所の駄菓子屋で買ってもらい、毎年楽しく遊んで送り火をしたものだ。

当時は俺が小学校6年生で、弟は小学校2年生だった。二人で色々な花火を楽しんでいたわけだが、中でも一番面白かった花火は、打ち上げ花火だった。
しかも打ちあがった後にパラシュートみたいなものが空から降ってくる仕掛けになっていたので二人揃ってそのパラシュートを追っかけて墓のある小高い山を走り回っていた。
その日は、風も強く、パラシュートが風に流され、どんどん遠ざかっていく。その小高い山の墓場には同じように花火をしている子供もいれば墓参りしている大人もいっぱいいた。
そんな人たちを離れてパラシュートは飛んでいく。俺と弟はどっちが先にそれを取れるかということで、パラシュートを追いかけた。
今となっては、どちらが勝ったのかはわからない。それ以上に、気が付いたら辺りは薄暗くなり全く見知らぬところへ俺たちは来ていた。
当時の小学生だった俺たちからすると、その小高い山の向こうは未知の世界であったし、夏独特の夕暮れに感じる嫌な蒸し暑さのなか、俺たちは心細くなった。
祖父の住所など知っているはずも無く、近くの家に駆け込んで助けを求めるということもしなかった。
弟はとうとう泣き出して、走り出してしまった。俺はしばらく呆然としていたが、すぐに我にかえり弟を追いかけた。
5分くらい走っただろうか、浜辺に出た。よくテレビとかで見る沖縄のきれいな浜辺と違って、ここの浜辺は海草やらゴミやら魚の死骸が打ち上げられ、不気味なことこの上なかった。
すると、その浜辺にポツンと弟と同じくらいの男の子が座り込んで何かをしていた。
辺りが暗いせいでよく見えず、俺たちは恐々近寄ってみると、その子は自分の持ってきた袋に打ち上げられた海草や魚の死骸を入れていた。
どうみても腐乱しているものをどうするのだろう?俺は気味が悪くなって弟の手を引っ張ってその場を去ろうとした。
すると、その子が「ねぇ、手伝って!」

前にも書いたと思うが、俺は人一倍怖がりだったので心臓が止まるかと思った。
普段から口数が多い弟もこのときは黙って息を呑んでいた。
すると、その子が続けて、
「うちのおかあちゃん病気なんで。父ちゃん昔海で死んでおらんで。俺が飯とってこないかんの。」
まさかその腐乱した魚の死骸や海草をその母親が食べるわけが無い、と思った俺は「そんなのあげたらお母さん余計下痢するんじゃないの?」
そう言った。
その子は「そんなことないで。いつもありがとありがというて食べよるで。」
俺は負けじと「嘘付け!」 その子も大声で「本当で!」
頭にきた俺は「きっとお前のお母さん、無理してたべよるんと思うよ!ばーか!!」
その子は泣き出して袋を握り締めて走り去って行った・・・。

今思うと、俺は本当にその子に悪いことを言ったと思う。
その子の母親が、最初の一口だけ食べて、トイレで吐いたり下痢したりする姿、我が子供の思いやりに涙しながら苦しまなければならない姿を想像すると、当時はただの怖い体験としてしか感じなかったものが違う形でよみがえってくる。。

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