藤の花

586: 全裸隊 ◆CH99uyNUDE 2005/05/23(月) 06:32:49 ID:fBqbyjb30
日中の陽だまりが、まだそこに残っているような斜面だった。 
おおらかに藤の木が枝を広げ、薄紫の花が房を作り、ふわりと宙に 
浮いているように見えた。 
斜面はそのまま、静かな淵に落ち込んでいて、奇妙に優しい空間が 
その場を満たしている。
時刻は夕方、そろそろ今夜の寝床を決めたい時間だ。 
できれば、こんな気持ち良い場所で。 
行き当たりばったりにテントを張って山を歩いていると、気持ち良い 
場所というのは、案外、少ないものだと思い知らされる。 
思い知らされるからこそ、こんな場所で一泊したくなるのだ。

風が木漏れ日をすくい上げ、淡い光の粒を藤の花に差し出した。 
差し出された光を受け止めた藤の花が、ほんの一瞬透き通り、 
ふくれたように見えた。 
香りが散り、花が笑った。 
いや、花に顔などあるわけがない。 
あるわけないが、それでも、他に言いようがない。 
藤の木が、全身を揺らして歓喜していた。

とてつもなく奇妙な光景を目にしている事に、ふと気付いた。 
「ねえ、ここで咲こうよ」と、子供の声。 
「ぼくはもう、10年も咲いてるんだ」 
「淵に入ればね、来年から咲けるよ」 
奇妙なのは、目に映る光景ばかりではないらしい。
それでも、この場所で藤の花になって毎年咲くという考えは 
悪くない。 
悪くない考えだが、突拍子もない。

風が斜面を吹き抜け、ふたたび光を散らし、 
やがて日が暮れた。

「いつか、本当に咲きたくなったら、また来るよ」 
翌朝、そう声をかけ、歩き出した。 
藤の花は何も答えない。

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