山に呑まれる

848 雷鳥一号 ◆zE.wmw4nYQ sage New! 2012/06/30(土) 19:18:43.65 ID:pL6kuC5u0 
先輩の話。 

一人で山を歩いていると突然、気分がどうしようもなく高揚したのだという。 
先輩はまず自分の歩くペースを乱さない人で、常に冷静な性格だったのだが、 
何故かその時は、全力で何処までも走りたくなったのだそうだ。 

「わはははははは!」と高笑いを響かせながら、普段は出さないような凄い 
スピードで山道を駆け出した。 
自分でも不思議なことに、とても身体が軽く、急勾配の上り坂でもまったく 
駆ける速度が落ちない。 
そのままどんどんと、自分でも信じられない速度にまで加速していく。 
堪らない快感だったという。 

岩場を飛ぶように駆け上った時には、まるで天狗にでもなった気がした。 
岩に取り付いていた登山者が、目を丸くして先輩を見ていた。 

そんな感じで全力疾走しているうち、意識を失ったらしい。 
電球が切れるように、パッと意識が途切れたそうだ。 

気が付けば先輩は叢に倒れていて、誰かに介抱されていた。 
「やぁ目が覚めたね。身体は大丈夫かい?」 
身体の節々が痛かった。限界近い力で全力疾走したような感じ。 

礼を述べながら話をすると、世話してくれていたその人は、岩場で追い越した 
登山者だったとわかった。 
「驚いたよ、僕の頭の上をタッタッタって飛び越えていくんだから。 
 どこかの修験者か山伏かと思ったよ」 

そう彼に言われた先輩は、 
「山を歩いていると突然全力で走りたくなったんです。 
 でも何故そんな気持ちになったのか、全然わからない。 
 あんな飛ぶように走るのなんて、自分には絶対できない筈なんです」 
そんなことを訴えた。 

その人はニコリと笑って答えた。 
「山に呑まれたね。天狗にでも憑かれたかな。 
 身体に無理させているだろうし、しばらく休んでから下りるとしよう」 

結局、下山するまで一緒に行動してもらったのだという。 
何度も礼を述べ、ペコペコと頭を下げてから別れたそうだ。 

「迷惑掛けちゃったけど、本当に助かったよ。 
 あれ以来、薬とか栄養剤とか、そちらの装備にも気を使うようになった。 
 山に呑まれた後で目が覚めた時、傷だらけだったり疲労困憊だったりしたら 
 大変だしな」 

幸いにも先輩はその後、山に呑まれてはいないそうだ。 

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