242 名前:1 :03/05/31 17:14
母親が死んだ。 
優しい人だった。誰にでも笑顔で接し、亡き父からの暴力も耐え、 
家族にかすがいになってくれていた。そんな母が、死んだ。 
歳を経てからは妄言も多く、介護できる環境にもなかった為、 
結局は俺が紹介した、預かり先の病院での臨終だった。 
頼れる親戚も少なく、まだ独身だった俺は喪主の役割に忙殺され、 
母の死を悲しむ暇もなく、ただ、自宅での葬儀を整えた。 
葬式には誰かも知らない親戚がパラパラを集まり、香を焚いていた。 
俺は坊主のありがたそうな念仏を隣で聞きながら、よくやく一息ついた心地だった。 
母は老人になってからは苦労しか与えてくれない存在だったが、 
こうして亡くなってしまうと、自分が子供の時の、若く優しい母の記憶しか思い出せない。 
涙腺が緩むのを感じながら、俺は目前の棺桶の中の、母の死に顔を見つめていた。 
ふと、母の閉じた口から、白いモヤが立ち上るのが見えた。 
煙にして薄い、しかしそれは消える事なく、家の天井に吸い込まれた。 

俺は呆気にとられ、すぐに参列者の皆に目配せをした。 
しかし、誰も彼もが下を俯き、目の前も坊主も目を閉じて経を上げている。 
(俺だけが見た?他は誰も見ていない?こんな事ってあるのか!?) 
しばらく待っても、誰も顔を上げようとはしない。それはなぜか恐ろしく感じる光景だった。 
失礼、と呟いて席を離れた俺は、天井の上、つまり2階へ行く為に階段を上った。 
あのモヤは気のせいではない。そう心中で確認しながら、俺は2階に着くと、 
廊下の一番奥の、丁度一階の天井の上に位置していた部屋の襖を開けた。中は真っ暗闇だった。 
そこは使わない荷物置きにしている部屋なのに、なぜか空気が流れていた。 
部屋の床を見てみる。何のシミもない。床をじっと見つめていると、 
すぅっと引き込まれる感じがした。ヤバイ。これは危ない。 
「真ちゃん!どうしたの?大丈夫!?」 
大きな声に、はっ!と意識が醒めた。不自然に思った親戚が来てくれたようだ。 
「あ、ああ、大丈夫、大丈夫。すぐ戻るよ」 
もう一度、俺は部屋を睨むように見渡すと、乱暴に襖を閉めた。 

「ねぇ、どうしたの?ホントに大丈夫?」 
すでに傍らに来ていた母親の手をとると、俺は階段に向かって歩いた。 
「あー、何でもない。何か変なのが見えてね」 
「変なのって・・・ええ?怖いモノ?でも葬儀の席では、馬鹿な事言ってはダメよ」 
「はいはい、かーさんはいっつも・・・・・・・」 
俺の足が止まった。 
母親は死んだ。今夜は母親の葬儀だ。俺のかーさんは 死んだ。はず。だ。 
見ると、母は俺の顔を凝視していた。亡くなった時のままの、白い患者服を着たままで。 
俺は恐怖で声が出ない口を大きく開けて、子供みたいに手をバタバタさせながら、 
廊下の壁に張り付いた。 
「・・・・・お返事は?真ちゃん」 
「・・・・!・・・!・・・!」 
俺は息をするので精一杯で、何もしゃべれなかった。 
「・・・・真ちゃんはいつから、いい子から悪い子になったの?」 
母は子供みたいに、ベーっと舌を出して、首をかしげた。 
自分の母親の、その仕草はあまりにもおぞましすぎて、俺は息をするのも忘れた。 
母は舌を垂れたまま、首を振り子のように振りながら近づいてきた。 
「ヒィィィィアアアア・・・・・・」 
やっと出た俺の悲鳴は小さすぎて、廊下の奥闇に吸い込まれて消えた。 

母の顔はすでに俺の目の前にあった。老人特有の臭い口臭が、鼻についた。 
ブジュッ ブジュッ ブジュッ ブジュッ ブジュッ 
母の舌は恐ろしく長いものになっており、その俺に向かって伸びている舌を、 
ボロボロの歯で噛み潰しながら、ゆっくりと俺に近づいてくる。 
舌は簡単に血を吹きながら床に赤い染みを作り、母はまるでそれを辿るように、 
舌を飲み込みながら、噛み、租借し、近づき、飲み込む。 
ブジュッ ブジュッ ブジュッ ブジュッ ブジュッ 
俺は、意識が脳の戻っていくような感覚で、失神寸前だった。 
それでも、言葉は出なかった。口は開きっぱなしだった。 
いつの間にか、母の舌が俺の口の舌にピッタリくっつき、繋がっていたからだ。 
ブジュッ ブジュッ ブジュッ ブジュッ ブジュッ 
俺の舌が痛み始めた。今、母は俺の舌と繋がっている箇所を食いちぎっているのか。 
意識を失う寸前、最後に、俺は母の目を見た。 
母の黒い瞳には、何も写っていなかった。 

俺は親戚達に、半ば強制的に精神病院に入院させられた。俺は抵抗はしなかった。 
考える時間が欲しかったし、その気ならすぐに退院できる事も知っていた 
どうせ、ここの連中は、金さえ払えば診察も無く、誰でも即入院させるのだ。 
見るからに脱力症になっている俺でも。 
俺が世話を焼くのに面倒になった、俺の母親でも。 

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