浮かずの池

918 :本当にあった怖い名無し[sage] :2009/12/15(火) 01:28:52 ID:W0pmduV60
そこには、浮かずの池という池があり、その池には何を沈めても決して浮いてこなかったという 
底なし沼のような不気味なものだと思われるかもしれないが、 
浮かずの池は、それはそれは澄んだ水をたたえた美しい池であり、 
なんとは無い雑木林の中にあって、はしからはしまでを苦も無く見渡せる程度の大きさものであった 
深さもたったの3,4メートルといったところで、まるで海の浜のようにきめ細かい砂利が、 
底にしきつまって、波にゆらゆらと揺れて見える
その砂利が、不思議と捨てられたものを捕らえてはなすことがなく、水底にゆるやかに拘束する 
水辺の浅いところを歩いてみても、その砂利に足首が埋もれて恐ろしい目にあうということも無いのに、 
何故か打ち捨てた道具や死んだ動物などは、壊れてちりじりになり腐り果てても、 
美しい水を汚すことも無く、ゆっくりと底へ底へと沈んでいき、いつの間にか消えてなくなってしまう 
とはいえ、一夕の間に何もかもが失せてしまうということもなく、 
沈めたモノは数日の間、池の底にその姿をゆらゆらととどめていて、 
それはとても物悲しく情緒ある眺めであったそうだ 
澄んだ水の底の世界は、どこまでも素直で清浄で、秘密めいたものなどひとつもない 
なので、怪しげな物品や死体などが投げ込まれたなどという噂のひとつも上ったことはなかった 
その地で死んだ者は、他の地と相違なく、丁重に荼毘に付された 
灰となった誰かがまかれたということもあったかもしれないが、砂利よりも細かくなってしまった魂を、 
浮かずの池の底に沈めたとしても、誰の噂にものぼらないようなことだ 
得体の知れない不気味さというより、美しい池のつつましい自浄作用の神秘 
それが、浮かずの池の不思議にふさわしい感じ方だった 
今はもう何かの条例で池は保護されることになり、本当にそれが浮かずの池なのかを確かめるすべはなかった 
もちろん浮かずの池にものを沈めることができなくなったのは、沈めてはならぬものが捨てられたからではなく、 
単にこの池がもう滅多に見られないほどに美しいからに違いない

ところが、ただ平和で退屈な毎日に溶け込んでいたはずの池の中に、珍妙なものを見つけてしまった 
岸からそう遠くない水底に、美しい女が沈んでいた 
それが目に入ったせつなには、驚き腰が抜けるほどで、すぐに人を呼びに行かねばと思ったはずなのに、 
次にはもう、女の美しさに見惚れていた 
女は砂利の隙間から、その美しい顔と細い首、肩の鎖骨、それ以外には、右手首から先までだけを見せていた 
閉じたまぶたと頬にはまだ血が通っているかのように桃色がかすんでいる 
前に池に足を運んだのが一昨日の朝のことであったから、 
この女が池に沈んだのが一昨日の夜か、昨日のことか 
それにしても砂利にからめとられるのがこれほど早いのは見たことが無い 
自ら水に入り、砂をまとって休んでいるのではないか、それとも、湖の精だろうか 
そんなことが一瞬のうちに頭をよぎった 
その場を去ることも女のそばによって見ることもできずに立ちすくんだ 
どうすれば良いのか、その女に惚れてしまった 
雑木林の中は静まり返っている 
ここは本当は足を踏み入れてはいけない地区であり、訪れるものは誰もいない 
いたとしても、建前だけの監視役が気まぐれに来るだけで、さほどとがめられもしないだろう 
そうだ、この女は後数日で砂利の中に消えてしまう、それまでは、自分だけの女なのだ 
その場から逃げるように立ち去った

翌朝に訪れると、女はまだ美しい顔のまま底に沈んでいた 
こころもち顎を突き出したようで、額のほうが昨日よりも砂利に埋まってしまっているようだ 
瞼とくちびるがかすかに開いているように見える、それが、とても妖艶に見えた 
昨夜は女の存在を隠している罪悪感と、一方で、自分の見たものすべてにリアリティが持つことのできない興奮の中、一睡もできなかった 
女の右手の指が、海草のようにゆらゆらとうごめいている、呼んでいるのだ、もう、本当にその場から動けない気がした 
都会でそれなりに安定した地位につき始めたころ、何とはなしに会社を辞めてしまった 
恋愛は昔から苦手で、ずっと独身だった、夜遊びもしない 
気づけばそれなりの額になっていた貯金だけを頼りに、この地に旅行に来ていた 
色々なことに疲れていた、夢を無尽蔵に持てる年でもないが、先のことが見えてくるほどの年でもなかった 
それでも漫然と続いていく毎日に、何故か疲れてしまった、日常に留まらせるしがらみも持っていなかった 
旅先で浮かずの池のことを聞き、その美しい池に沈んでしまおうかと思ったが、本気で思い詰まっていたわけではない 
執着すべき何事も持てなかった、生きることも、死ぬことも 
だが、今は、彼女が呼んでいる 
彼女に会いに水の底へと行くためならば、執着心を持つことができるのかもしれない 
それでも、勇気が無かった、仕事と長く住んだ街を離れる決心はすることができたのに 
そうだ、決心といえるほどの決断ではなかったのだ 
ここにいるのもきっと、彼女に誘い呼ばれただけだったのだ、そのような気がした 
泣きながら摘んだ野花を水辺に浮かべる、なぜか花弁は水に沈まない、彼女に捧げるための花であるのに、届かない 
水鏡に一面の花が浮かんでいる

それからどれくらい彼女を見つめていたのか、黒く、青く、輝く水面の中、彼女の白い顔が朽ちていく 
私はまだ決心できないでいるのに、花が沈み、彼女が消えていく 
輪郭がゆがみ始めた彼女を、花が覆い、池の底が奪っていく 
彼女は美しいままで消えていくのだ、それ以外何もかもすべてが、みっともなく朽ちていくのに 
この池のせいで、彼女を忘れることもできないまま 
私はまだ決心できないでいるのに 
私はまだ決心できないでいるのに、花が沈み、彼女が消えていく 
輪郭がゆがみ始めた彼女を、花が覆い、池の底が奪っていく 
彼女は美しいままで消えていくのだ、それ以外何もかもすべてが、みっともなく朽ちていくのに、 
この池のせいで、彼女を忘れることもできないまま、何もかもが 
私はまだ決心できないでいるのに
そして彼女はいなくなってしまった 
何事も無かったように、ちりひとつ浮かばない静寂な池があるだけだった

あの地を去る前に、急にいなくなってしまったという若い女の噂を聞き胸がざわついたが、写真を見てみれば、彼女には似ても似つかぬ平凡で魅力の無い女だった 
心当たりのあるふりをして色々と聞くつもりであったが興味を無くした 
聞かれる側であった家の者も、それがもともとそこを出たがっていた何の取り得もない三女であったということで、私に特に関心も示さなかった 
浮かずの池にも訪れたが、やはりただ静まり返っているただの池で、初めて目にした時のような清浄な美しさを感じることができなかった 
残りの人生の中に彼女の面影などどこにもなく、平凡で、俗々しい日常だけが、残された

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