良栄丸事件

845 :あなたのうしろに名無しさんが・・・:03/07/05 23:20
■発見されたミイラ船
1927年10月31日、カナダ西海岸バンクーバー島。 
ワシントンのシアトル港への帰路についていた、アメリカの貨物船「マーガレット・ダラー」号は、
行方不明になっていた小型漁船「良栄丸」を発見した。 
ボロボロに朽ち果てた船体、ミイラの転がる甲板、激しい死臭、白骨体、足の無い死体。 
船室には、頭蓋骨を砕かれた白骨体とミイラがあった。
船室奥の部屋には、おびただしい血痕が染み付いていた。 
船尾の司厨室では、海鳥の白い羽が至るところに散らばっており、
コンロの上にあった石油缶の中には、人の腕が入っていた。 
船内には食物も飲料水も無く、エンジン機関部は全て破損していた。 
ところが、船長室から見つかった3冊のノートには、信じられない惨状が書かれていたのだった。 
そのノートによると、良栄丸の情報は以下の通りだ。

重量は19tで1本マスト 
船主は和歌山県の藤井三四郎 
船長は三鬼時蔵 
機関長は細井伝次郎 
乗組員は12名 
神奈川県の三崎港を出港したのは1926年12月5日 
約1年間漂流していた 
ここで疑問が浮かぶ。 
発見された死体は9体、記録には12名とある。 
3名はどうなったのだろうか。

■不幸な漁船 
1926年12月5日、神奈川県の三崎港を出港した良栄丸は、千葉県銚子沖にマグロを求めて進んでいた。 
天候も思わしくなく、エンジンが調子の悪い排気音を立てていたため、翌12月6日に銚子港に寄港した。 
しかし、エンジンに故障はなく、銚子の沖合いで大量のマグロを水揚げした。 
が、暴風に見舞われて航行不能に陥ってしまった。 
そして12月15日、銚子の東方沖合い1000マイルほど流された時、
紀州船によく似た船が現れたので、信号を送ったり船員が叫んだりしたのに、応答も無く通り過ぎてしまったという。
三鬼船長は漂流を決意、記録には「4ヶ月間は食べられる」と書いてあった。 
12月16日にも「東洋汽船」と書かれた船が近くを通ったが、応答はなかったという。 
なんとか日本へ戻ろうと努力したが、どうやっても逆に流されていった。 
記録にはこう書かれている。 
「どう工夫しても西北へ船は走らず絶望。ただ汽船を待つばかり。
 反対にアメリカへ漂着することに決定。帆に風を七三にうけて北東に進む・・・。
 しかし、漁船で米国にたどりつこうとするは、コロンブスのアメリカ大陸発見より困難なりと心得るべし」 

■恐怖の記録 
ここからは説明は要らないだろう。 
記録文のみで充分に迫力が伝わってくる。 

「12月27日。カツオ10本つる」 
「1月27日。外国船を発見。応答なし。雨が降るとオケに雨水をため、これを飲料水とした」 
「2月17日。いよいよ食料少なし」 
「3月6日。魚一匹もとれず。食料はひとつのこらず底をついた。恐ろしい飢えと死神がじょじょにやってきた」 
「3月7日。最初の犠牲者がでた。機関長・細井伝次郎は、
 「ひとめ見たい・・・日本の土を一足ふみたい」とうめきながら死んでいった。全員で水葬にする」 
「3月9日。サメの大きなやつが一本つれたが、直江常次は食べる気力もなく、やせおとろえて死亡。水葬に処す」
「3月15日。それまで航海日誌をつけていた井沢捨次が病死。かわって松本源之助が筆をとる。
 井沢の遺体を水葬にするのに、やっとのありさま。
 全員、顔は青白くヤマアラシのごとくヒゲがのび、ふらふらと亡霊そっくりの歩きざまは悲し」 
「3月27日。寺田初造と横田良之助のふたりは、突然うわごとを発し、
 「おーい富士山だ。アメリカにつきやがった。ああ、にじが見える・・・。」などと狂気を発して、
 左舷の板にがりがりと歯をくいこませて悶死する。いよいよ地獄の底も近い」 

「3月29日。メバチ一匹を吉田藤吉がつりあげたるを見て、三谷寅吉は突然として逆上し、
 オノを振りあげるや、吉田藤吉の頭をめった打ちにする。
 その恐ろしき光景にも、みな立ち上がる気力もなく、しばしぼう然。 
 のこる者は野菜の不足から、壊血病となりて歯という歯から血液したたるは、
 みな妖怪変化のすさまじき様相となる。ああ、仏様よ」 
「4月4日。三鬼船長は甲板上を低く飛びかすめる大鳥を、ヘビのごとき速さで手づかみにとらえる。
 全員、人食いアリのごとくむらがり、羽をむしりとって、生きたままの大鳥をむさぼる。
 血がしたたる生肉をくらうは、これほどの美味なるものはなしと心得たい。
 これもみな、餓鬼畜生となせる業か」
「4月6日。辻門良治、血へどを吐きて死亡」 
「4月14日。沢山勘十郎、船室にて不意に狂暴と化して発狂し死骸を切り刻む姿は地獄か。
 人肉食べる気力あれば、まだ救いあり」
「4月19日。富山和男、沢村勘十郎の二名、料理室にて人肉を争う。
 地獄の鬼と化すも、ただ、ただ生きて日本に帰りたき一心のみなり。
 同夜、二名とも血だるまにて、ころげまわり死亡」 

「5月6日。三鬼船長、ついに一歩も動けず。乗組員十二名のうち残るは船長と日記記録係の私のみ。
 ふたりとも重いカッケ病で小便、大便にも動けず、そのままたれ流すはしかたなし」 
「5月11日。曇り。北西の風やや強し。南に西に、船はただ風のままに流れる。
 山影も見えず、陸地も見えず。船影はなし。
 あまいサトウ粒ひとつなめて死にたし。
 友の死骸は肉がどろどろに腐り、溶けて流れた血肉の死臭のみがあり。
 白骨のぞきて、この世の終わりとするや・・・」 

日記はここで切れている。 
だが三鬼船長は、杉板に鉛筆で、以下のような家族宛ての遺書を残していた。 

「とうさんのいうことを、ヨクヨク聞きなされ。
 もし、大きくなっても、ケッシテリョウシニナッテハナラヌ・・・。
 私は、シアワセノワルイコトデス・・・ふたりの子どもたのみます。
 カナラズカナラズ、リョウシニダケハサセヌヨウニ、タノミマス。
 いつまで書いてもおなじこと・・・でも私の好きなのは、ソウメンとモチガシでしたが・・・
 帰レナクナッテ、モウシワケナイ・・・ユルシテクダサイ・・・」 

■奇妙な事実 
しかし、記録を調べるうちに、奇怪な事実が浮かびあがった。 
数十回に渡って他の船にであっていながら、救助に応答する船は一隻としてなかったことだ。 
そして、吉栄丸は太平洋横断の途中、たった一つの島さえも発見できなかったのである。 
しかし、アメリカの貨物船「ウエスト・アイソン」号のリチャード・ヒーリィ船長は、次のように述べている。  

「1926年12月23日、シアトルから約1000キロの太平洋上で波間に漂う木造船を発見したが、
 救助信号を送っても返事が無いので近づきました。 
 しかし、吉栄丸の船窓や甲板に立ってこっちを見ていた10人ほどの船員は、誰一人として応えず、
 馬鹿らしくなって引き上げたのです」 

だが吉栄丸の記録にこのことは書かれていない。 
一体、彼らにはなにが起こっていたというのだろうか。

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