未 本編3- 師匠シリーズ

463 :未 本編3 ◆oJUBn2VTGE :2012/01/14(土) 23:37:27.49 ID:PnBJCiQI0

目が覚めたのは朝の九時過ぎだった。 
まだ頭が重く、肌触りの良い布団から出るのは億劫だったが、なんとか気合を入れて起き上がった。
三時間ほど寝ていたらしい。 
広い部屋の真ん中に布団が一組だけ敷いてあるのを改めて眺めると、凄く贅沢な気分になる。 
大きな窓のカーテン越しに、朝の光が部屋の中に射し込んでいる。
浴衣の襟のあたりを掻きながら、そちらにぼうっと目をやる。 
それから自分の身体の様子を確かめたが、特に異常はないようだ。あの謎の薬が効いたのだろうか。 

部屋を出て師匠を探すと、一階の玄関ロビーでOL四人組と話をしていた。
見るとみんな荷物を持っている。もうチェックアウトするところらしい。 
「結局オバケ出なかったなあ」 
「なにつまらなそうに言ってんのよ。一番ビビッてたくせに」 
「ああもう。変な噂聞かなきゃ良かった!あんま寝られなかったわ」 
「でもさ、ちょっと見てみたくなかった?」
OLたちは朝から元気に声が出ている。師匠は笑ってそれを聴いているだけだ。 
「じゃあねえ。年下の彼氏くんも、バイバイ」 
そんなことを言いながら彼女たちは僕らに手を振って、外にとまっていた旅館のバンに乗り込んでいった。
旅館の中が急に静かになった。 

勘介さんが運転するバンがゆるゆると発進していくのを見送ってから、僕は広間に用意されていた朝飯を食べた。
焼き魚を中心としたシンプルなメニューだった。 
しかし温泉たまごが小皿についていて、それがやたらうまそうに見えて、
先に食べるか、最後にとっておくか悩んでしまった。 
もう一組の親子連れももうチェックアウトした後だったので、客は僕と師匠しかいなくなったことになる。
いや、もう客を装う必要もなくなったわけだ。 
先に朝食をとり終わっていた師匠に、僕が体験したことをこと細かく説明しながら、
最後の温泉卵を残ったご飯の上に乗せて、小瓶に入っただし醤油を垂らす。 
「四回目の鐘で消えたか」
「はい」
味付け海苔の袋を裂いて、さらにその上に千切りながらトッピングする。
それを勢いよくかき込んでいると、師匠が言う。 
「捨て鐘の意味も理解しているということは、やっぱりこの土地の霊だな。
 昨日今日やってきたような、浮遊霊の類じゃないのは間違いなさそうだ」 
さらりと言った言葉の中に、師匠の思想が一本の楔のように通っている。 

師匠は霊の在り方に普遍的なものをあまり認めない。
『死後の霊魂とはこういうものだ』という生前の記憶が、その存在の濃度、そして特性を規定するのだ、
という思想を持っている。 
例えば、足のない幽霊画が広く知られている日本では、足のない幽霊が現れるが、
そんな発想のない外国では、幽霊にしっかりと足があるものだ。 
境界を越えたことを告げる、明け六つの始まりのタイミングを正確に分かっているからこそ、そういう消え方をしたのだ、
と言っているのだ。 
「食ったら、行くぞ」 
「はい」 
お茶を胃袋に流し込み、口を拭いた。
これから若宮神社に行くのだ。テキの本丸かも知れない場所に。そう思うと少し緊張してくる。 

連れ立って広間を出ると、事務所にいた女将をつかまえる。 
「今夜カタをつけるつもりです」 
師匠は真剣な表情でそう切り出した。女将が訊き返すと、やはり同じ言葉を繰り返した。
「今夜です」 
それに対し、女将はやんわりとした言葉で説明を求めた。 
「今日は、泊り客がいないはずでしたね」
師匠は説明の代わりにそう訊ねた。 
「ええ」
この依頼のこともあって、大晦日までなるべく宿泊客をとらないようにしていたらしい。
OL四人組やもう一組の親子連れのように、かなり前から入っていた予約の客だけはどうしようもなかったが、
そんな客も今夜はいないということだった。 
昼から他の従業員も休みになり、『とかの』には女将と井口親子だけになるのだという。 
確かに今夜は、この旅館に憑りついた霊と対決するには絶好の場面と言えそうだが、
いったい師匠は、そのカタをつけるためのどんな見込みがあるというのだろうか。 
そう思いながら横顔を見ていると、師匠はズボンのポケットを探り始め、折り畳まれた半紙を取り出す。 
「ここに書いてあるものを用意してください。重要なことです。できますか」 
女将は渡された半紙を怪訝な顔で見つめる。 
「だいたいご用意できると思いますが……」
そう言いながら、書かれている後半部分に目を留めて困惑したような表情を浮かべる。 
「ああ、最後のは若宮神社にあるでしょう。自分が借りに行きます。
 それで、済みませんが今から電話をしてくれませんか、貸していただけるように」 
「分かりました」

女将は電話をかけに行き、ほどなくして戻ってくる。
「いつでもお貸しできるそうです」 
「ありがとうございます。ではさっそく今から若宮神社に行ってきます。
 正直どうなるか、まだ手探りな状態です。が、なんとかして見せますよ。これでもこの手のことは専門家ですから」
師匠はそううそぶいて、下手な安請け合いをした。 
「お気をつけて」 
女将は期待しているのいないのか分からないような良く統制された表情で、そう頭を下げた。 
しかし、何気なく発した自分の言葉になにか思い至ったかのようにハッとして口元を抑えた。
なにか不吉なものを感じたのだろうか。気をつけなくてはらないなにかが待っていると?
なんだかこっちまで怖くなってくる。

神社までは歩いて行くのかと思ったが、女将が自転車を貸してくれた。宿泊客用に何台か旅館に備えているらしい。
建物の裏手の駐車場から二台を選んで玄関まで回してくる。 
「昼ご飯は、いりませんから」 
師匠が女将にそう告げた。 
「神社で話を聞いた後、調べものがあるので、そのまま町の図書館へ行く予定です。飯もそのあたりで食べます」
自転車に跨りながら、師匠は「楓さんは?」と尋ねた。 
「まだ寝ています」
女将はそう言って苦笑しながら母親の顔を見せた。
「まったくあの子は」 
風が冷たい。外はずいぶんと冷え込んでいる。昨日よりも気温は低いかもしれない。
厚着をしてきたつもりだが、身体が縮こまりそうだ。 
「行ってきます」 
師匠の後に続いて出発する。
玄関からダンボール箱を抱えた広子さんが、こちらを見ながら指先だけで手を振っていた。
また顔のパーツを変に真ん中に寄せたような笑顔を浮かべている。 
つられてこちらも笑顔になる。

師匠は寄り道もせずに、昨日裏山の上から見た若宮神社のある方角へ真っ直ぐ進んでいった。 
師匠は車ではないときは、僕に自転車をこがせて自分はそのうしろに便乗し、
あっちに行けこっちに行けと指示を出すばかりで実に良い身分なのだが、
珍しく自分で自転車を運転するときはやたらとこぐのが早い。 
スポーツ万能と自分で言うほどのことはあり、身体能力やバランス感覚は目を見張るものがあった。 

借りた自転車の微妙な性能差もあり、その師匠について行くのが精一杯で、なんとか置いて行かれないように、
道端の雑草も枯れたような色合いをしている細い田舎道を、頑張ってペダルを踏み続ける。 

十五分ほど走っただろうか。遠くに見えていた山が眼前に迫り、道路にはいつの間にか傾斜がつき始めていた。
なだらかな山道に入り、その麓付近の集落をいくつか通り過ぎて、
一際立派な木々が鬱蒼と茂っている一角にたどりついた。 
「鎮守の森だな」 
スギやヒノキといった常緑高木が混合林を形成しているようだ。
その背の高い木々の枝葉の隙間から、木造の建物の屋根がちらちらと覗いている。 
道路が広くなっている所で自転車を止め、鎮守の森の中へ足を踏み入れるとすぐに赤い鳥居が見えてきた。 
「明神鳥居だ。副柱もない、一般的なものだな」 
シンプルな形をしているが、古びた佇まいは森とその奥の参道を守り続ける長久の時の流れを感じさせてくれる。
「あれ。でもこないだ行った神社で、これと同じ形のを見ましたけど、春日鳥居って言ってなかったですか」 
師匠は振り向くと、鳥居の上部を指差しながら言った。
「笠木を見ろ。両端が中央部に比べて反りあがっているだろう。
 反り増し、と言って、それがあるのが明神系、ないのが神明系の鳥居だ。春日鳥居は神明系。
 ていうか、こないのだのとのは全然形が違うだろ。台石もあるし」 
説教が始まりそうだったので、鳥居から目を逸らし、その両脇を固めるように配置されていた狛犬に近寄って、
「なかなか立派な狛犬ですね」と苔むしたその身体を触った。 
鳥居の右側にあるそれは、厳しい顔をして口を閉じ、懐にいる小さな狛犬の頭を撫でている姿をしている。 
しかし師匠はそこにもダメ出しをしてくる。 
「よく見ろ。それは獅子だ」 
「は?」 
「頭に宝珠を載せているだろう。そっちの、頭に角が生えてる方が狛犬だ」 
そう言われて反対側に配置されていた方の石像を見ると、確かに角が生えている。
口は唸りを上げるように開かれ、足元の丸い玉を踏みつけている姿だった。 
「元々は獅子と狛犬が一対になっているのが正式なものだが、時代が下るにつれて獅子と狛犬の区別がなくなって、
 今じゃ両方とも一般的に『狛犬』と呼ぶけどな。 
 本来は社殿に向かって右側が獅子で、左が狛犬。同じく右側が口を開いた阿形、左が口を閉じた吽形。
 ここのは阿吽は逆配置だな。しかしこの右側は、明らかに獅子の特徴を備えている」

言われてまじまじと見比べたが、普通の狛犬となにが違うのか分からなかった。 
「まあどうでもいいよ。狛犬なんて神社によって千差万別だ。
 職人の個性であって、祀っている神様ともほとんど関係がない」 
先に行くぞ。師匠はさっさと鳥居を潜って行ってしまう。僕も慌てて後を追う。 
参道は長く、その道の端には、比較的小ぶりなクスノキが枝葉を精一杯伸ばして立ち並んでいる。
その下を通るとチチチ……という鳥の鳴き声が頭上から聞こえてくる。 
途中で手水舎(ちょうずや)があったので、並んで口をすすいだ。 

参道の奥に拝殿が見えてきた。遠くから見た印象よりもかなり大きい。
玉砂利を踏みながら境内を進むと、拝殿のそばで箒を持って枯葉を掃いている男性の姿があった。 
白衣の上に黒い着物を重ね着して、下は薄青い袴という格好をしている。見るからに寒そうだ。
しかし男性は平然とした身のこなしでこちらに向き直り、「お待ちしておりました」と微笑みかけてきた。 
この若宮神社の宮司である石坂章一さんだった。
和雄の父親であり、彫りの深い顔が良く似ている。
もう五十歳は過ぎていると思われるが、背筋はピンと張っていて背もかなり高い。 
師匠のことはすでに女将から聞いているようだ。
挨拶を交わし、さっそく本題に入る。
「とかのに現れるという神主姿の霊ですが、お心あたりはないんですね」 
「はい」 
章一さんは溜め息をつきながら、「戸惑っております」と言った。 
「和雄さんにも訊きましたが、こちらの装束が盗まれるようなことはありませんでしたね」 
「ええ」
「まあ、わたしもこれが、誰かのイタズラなんていう線は考えていませんが、
 噂に便乗した誰かが、良からぬことを考えるということは、ありえない話ではありませんから」 
「拝礼をさせていただいていいですか?」と師匠は言って、拝殿に近づいていく。 
「御祭神は八幡神、応神天皇ですね?作法は二拝二拍手一拝でよろしいですか」 
「応神天皇と仲哀天皇、そして神功皇后です。作法はそれで結構ですよ」 
師匠は賽銭を投げると、丁寧な動きで拝殿の奥に向かって二回頭を下げ、二回拍手を打ち、また一回頭を下げた。
腰が九十度折れている。

僕も真似をしたが、綺麗に直角に曲げるのは上手くいかなかった。コツが要りそうだ。 
「この瑞垣(みずがき)の奥が神殿ですね」 
拝殿の向こうには垣根で囲われた空間があり、その中に一回り小さな本殿の姿が見えた。 
「この神社は、戦国武将であった高橋永熾が、勧請してきたものだと聞きましたが、
 それ以前からあった神社は、こちらへ合祀されたのでしょうか」 
「あまり古いものは分かりません。明治以降なら合祀の記録が残っておりますので、社務所の方でお見せしましょう」
「では、のちほどお願いします」 
師匠は境内を歩き始める。 
「末社はあちらですか」 
師匠の指さす先には、横に長い社殿のミニチュアのような建物があった。 
「手前が摂社で、仁徳天皇、日本武尊、武内宿禰などをお祀しております。末社はその奥です」 
末社は一つの小さな建物で、軒の下に塗装が剥げかけた朱塗りの扉がいくつか並んでいる。 
「祖霊社はありますか」 
師匠の問い掛けに、当代の宮司の顔が少し緊張を帯びた。
祖霊社というのは、歴代の神職や氏子の霊を祀った社(やしろ)のことらしい。 
「この端がそうです」 
鍵の掛かった扉の上部にかけられている額を確認しながら、師匠はその正面に立った。 
歴代の神職の霊がこの中に…… 
その意味を考えて、少し背筋に冷たいものが走る。今朝の体験が脳裏に蘇った。 
師匠は目を閉じて、そっと扉に右手を触れる。
章一さんと僕が見守る前でしばらくその格好をしていたかと思うと、ふいに肩の力を抜いてこちらを振り返った。
「違うな」
そう言い切った師匠に、章一さんは驚いた顔を見せる。 
彼もこんな若い自称霊能者など胡散臭い目で見ていたはずだ。
ただ『とかの』に対する負い目から、女将が雇った師匠にそれなりの応対をしてくれていたに過ぎない。 
しかしその自称霊能者が、祖霊の仕業ではないと言ったのだ。
『そういうこと』にしておけば話がシンプルになり、やりやすいはずなのに。 
「あれが時の鐘ですか」
師匠の視線の先に鐘楼堂がある。境内の隅の方だ。 
近づくと大きな鐘がお堂の屋根の下に釣り下がっている。 

「鐘はあなたが?」
師匠は撞く真似をした。 
宮司は頷く。 
「時の鐘があるのは神社では珍しいようですが、神仏習合のころの名残でしょうな」 
「かなり昔からあるのですね」 
「当神社が開かれたころから、と伝わっております」 
「鐘自体は新しいものですね」 
「ええ、これは昭和になってから鋳造されたものです。古いものはあちらに」 
境内の一番奥まった場所に、朽ち果てたような別の鐘楼堂があった。打つための撞木(しゅもく)もついていない。
そちらの鐘はいかにも古そうな姿をしていた。錆が全面に浮いていて、元の色もはっきりとしない。 
師匠はその古い鐘の下に歩み寄ると、ぐるぐると回りながら観察し始めた。 
「銘はありますか」
鐘の反対側から顔だけを出してそう訊ねる。 
「いいえ。あった跡はありますが、欠けてしまっているようです。
 高橋永熾が持ち込んだ最初の鐘だと伝えられておりますので、こうして今でも保存していますが、
 もしかすると何代目かのものなのかも知れません」 
ふうむ、と呟きながら、師匠は鐘の下部を指でなぞった。そして指についた錆をしげしげと眺める。 
よく見ると、師匠がなぞっていたあたりはとくに錆が多い。
下から数十センチにかけて、ぐるりと別の模様がついているような感じだった。 
「なるほど」と呟いた後、師匠は章一さんに問い掛けた。
「この錆がどのようにしてついたものか、伝わっていますか」 
「錆、ですか」 
章一さんは戸惑ったように「いいえ」と言った。 
「なるほど、なるほど」と師匠は繰り返し、錆を指から払って手を叩いた。
「では、その合祀の記録を見せていただけますか」 
それから連れ立って拝殿のそばにあった社務所に戻った。 

畳敷きの部屋に通され、しばらく待っていると、章一さんが丸めた厚紙を持って現れた。 
「これは写しですが」と言って広げた大きな紙には、神社の祭神や由緒などが細かい字でびっしりと書き込まれていた。
写しと言ってもコピーのことではない。書き写したものということだ。 
「合祀の記録は……と、ここからですね」
師匠が紙を指でなぞる。

「なるほど、明治以降のものだけですね。 合祀したのは七つか。
 社格は無しか村社……ほとんどが祭神不詳ですね。単に『カミ』と呼ばれていた、村落社会の氏神というわけだ。
 記載項目に境内坪数や社殿の間数、それに管轄官庁までの距離まで書いてあるということは、
 恐らく明治十二年の『神社明細帳』づくりための、取調べの際に作成された記録でしょう」 
師匠は僕に、明治の『神社整理』に関する簡単な説明をしてくれた。 
どうやら明治の初期に、それまで乱立していた全国各地の様々な神社を国策として調べ上げ、
仏像を御神体にしているような神社を改めさせたり、
由緒も祭神もはっきりしないような小さな神社を、近隣の神社に合祀させたりして統廃合を進めることで、
地域の神社の機能を再生させようとしたのだという。 
この若宮神社もご他聞に漏れず、そうした近隣の『カミ』たちを合祀してきた歴史があった。
合祀されたカミは、主に先ほど見てきた末社に祀られているそうだ。 
「合祀された七社は、どれも拝殿もないような小さな神社ですね。住み込みの神主などいなかったでしょう。
 祭りなどの際には、恐らくこちらの若宮神社から、神主が出向いていたのではないですか」 
師匠の推測に章一さんは頷いた。
「そう聞いております」 
結局この松ノ木郷では、神様に関わる行事はすべてこの若宮神社が関わっていたということのようだ。 
「この若宮神社は遷宮もありませんね」
「はい。ずっとこちらに」
「とかのの周辺に分社などもないと聞いていますが」 
「その通りです。ございません」 
章一さんはそう言った後、慎重に付け加えた。
「少なくとも私どもは把握しておりません」
師匠はしばらく社務所の天井を眺めていた。
そしてゆっくりと首を戻し、「よく、分かりました」と言って腰を浮かせた。 
「ありがとうございました」
そう言って頭を下げたので、僕は驚いて袖をつつく。 
「もういいんですか」 
「もういいんだ。聞けることは聞いた」 
おいとまします。師匠がそう言うと、章一さんは「そうですか」と同じように頭を下げ、
「あまりお力になれませんでした」と硬い表情で口にした。 

社務所の玄関で靴を履いていると、章一さんが大きな布袋を抱えてやってくる。 
「これを」
師匠は「あ、忘れるところでした」と言ってそれを受け取り、中を覗き込んで一つ頷いた。
「どうもありがとうございます。後日返します」 
「それ、なんですか」 
僕も覗き込もうとすると、「お楽しみは後だ」と見せてくれなかった。ちらりと縄のようなものが見えただけだった。
「そう言えば、和雄さんは?」 
話を逸らすように師匠がそう問い掛けると、「少し前にどこかへ出かけましたな」との返事だった。 
また『とかの』に手伝いに行ったのかも知れない。まめなことだ。 
「この神社は、ご長男の修さんが継がれるんですか」 
「いやいや、まだまだ」
そう言って章一さんは手を振ったが、相好を崩している。自慢の息子のようだ。
跡継ぎ不足に悩む神社は多いのだろうが、皇學館まで行った息子がいると、まずは一安心というところだろう。 
もう一度お礼を言って、僕らはもときた参道の方へ向かう。 
鳥居のところまで見送りをしてくれた章一さんの姿が小さくなり、最後に軽く会釈をして、
自転車を置いてある場所まで歩いていった。 
その途中で師匠が呟く。 
「もう少しで全貌が見える」 
もう少しもなにも、僕には肝心の若宮神社でほとんど収穫がなかったようにしか思えなかった。 
師匠はニヤリと笑うと、「さあ次だ」と言った。 

自転車をこいで西川町の中心街まで出てきた僕らが、次に向かった先は図書館だった。 
「裏を取るぞ」
師匠はそう言って、郷土史のコーナーから本を抱えて閲覧室の一角に陣取った。
そして西川町の変遷や若宮神社の歴史などを片っ端から調べていった。

どちらもこれまでの情報の詳細や再確認といったものばかりで、
なにか今回の事件に関係していそうなものは見当たらない。 
飽きてきて上の空になり始めた僕を尻目に、師匠は楽しそうに頁を捲り続けている。 
「お、見ろ。亀ヶ淵のことが載ってる」 
あの道路沿いの貯水池のことか。 
紙が変色しかかった古い本に、白黒の写真とともに貯水池の歴史が記されていた。 
「あんまり詳しくないな」
ぶつぶつ言いながら師匠は顔を近づけて読んでいる。 
戦国武将の高橋永熾がこの大規模な土木工事を行った背景と、その効果がどのようなものであったかが、
簡単に説明されていた。
かつてこの枝川沿いには、亀ヶ淵という名前の沼地があったそうだ。
そこを新たに掘り抜いて溜め池として補強し、川から水を引いてくるという工事の工程が図解とともに示されている。
ふんふん、と鼻を鳴らして読んでいた師匠が「うん?」と唸った。 
「亀ヶ淵の横に、括弧してショウガブチとカタカナで書いてあるな」 
「そうですね」
別の項ではちゃんと『カメガブチ』と振り仮名が振られていたので、読み方としてはカメガブチが正しいはずだ。
というかそれ以外読みようがない。
ということは、ショウガブチというのは別名なのだろうか。 
「ショウガブチ……ショウガブチか。あのあたりではショウガでも採れるのかな」と師匠は首を捻る。 
そう言えば昨日の夕食で、山菜の天麩羅の中に薄く切ったショウガを揚げたものがあった。名産なのかも知れない。
その味を思い出すと、口の中に幸せな感触の記憶があふれてくる。今日も旨いものにありつけるのだろうか。 
僕が舌なめずりをしていると、師匠は立ち上がって、近くで本を広げていた六十歳過ぎくらいの男性に声をかけた。
地元の人のようだった。農協のロゴの入った帽子を被っている。 
「このあたりはショウガをやっていますか」 
「いんや。ショウガなら隣町だなぁ」 
「昔はやっていたんでしょうか。ここに、亀ヶ淵のことをショウガブチと書いています」 
「うん?」 
男性は老眼鏡の位置を直しながら本を覗き込んだが、首を捻っている。 

「あの溜め池は、ショウガブチなんて呼び方、しねえけどなあ」 
そう言いながら、近くにいた知り合いの老人に本を見せると、やはり同じような答えが返ってきた。 
どうやら、ショウガブチという呼び名は一般的ではないようだ。もしくは、もう廃れた古い名前なのかも知れない。
「ありがとうございました」 
師匠はお礼を言って本を抱えると、僕に目配せをした。他の本も片付けろ、と言っているらしい。 
「もういいんですか」
「うん」
スタスタと歩き出した師匠を追いかける。 
「ショウガブチでなにか分かったんですか」 
「たぶんな」 
また自分一人理解したという顔ですましている。いい加減じれったい。 
「教えてくださいよ」と食い下がると、やれやれとばかりに溜め息をつきながら師匠は指を立てた。 
「亀という字の読み方はいくつ知ってる?」 
亀ヶ淵の『亀』の字か。 
訓読みだと『カメ』。音読みだと『キ』。いくつというか、これくらいしか思いつかない。 
師匠は大きな辞典を本棚から取り出して、ペラペラと捲り始める。
そして亀という漢字について書いてある頁を開いて見せた。 
「他に亀の手と書いて亀手(きんしゅ)とか、亀裂(きんれつ)、
 あと中国の西域諸国の中の亀茲(キュウシ)って国も、亀の字をあてているな。
 それから、『屈む』の屈(くつ)という字の代わりに亀の字をあてた、『亀む(かがむ)』なんて言葉もあるな」
知らなかったが色々あるものだ。 
「人名だとバリエーションが多いな。
 そういや、わたしの親戚にも、亀に司と書いて亀司(ひさし)って名前のオッサンがいたな」 
しかぁし……。師匠はもう一度指を立てて左右に振る。 
「亀をショウと読む例はどこにも出ていない」 
「はあ」
だからなんだというのだろう。 

「まだ分からないのか」 
「はあ」 
師匠は溜め息をつきながら首を振った。もの凄くバカにされているらしい。 
「いいか。読み方が違っているんじゃないんだ。だったら、間違っているのは漢字の方だ」 
「漢字、ですか」 
偉そうに言われても、だからどうしたという気がしてくる。 
「と、いうわけで、解決だ」
なにが解決なんだか。仮に貯水池の名前の謎が解けたところでなんの意味もない。 
そう思っていると、師匠は満面の笑みで続けた。
「神主の幽霊の謎は、解けたよ」 
「はあぁ?」 
唖然とした僕の肩をぽんぽんと叩いて師匠は、「さあ、もう少し詰めをするぞ」と言った。 
僕はわけの分からないまま、うながされてとにかく図書館を出た。 

「腹減った。飯食おう」 
師匠が俊敏な動きであたりを見回し、食事のできそうな店を見つけ出した。
その喫茶店の前に来ると、どこかで見覚えがあるようなバイクが一台だけ止まっていた。 
右のハンドルにヘルメットをぶら下げている。そのヘルメットを見て思い出した。
師匠も気づいた様子で、バイクを指さしながら「ししし」と口元に手をやって笑う。 
ドアを開けると、からん、と音がした。 
小さな喫茶店の中には数人の客がいたが、音に反応してこちらに目を向けた人の中に、見知った顔を見つける。 
和雄だった。バイク姿は昨日の夕方に見たばかりだ。
「狭い町だなぁ」
そう言いながら僕らがテーブル席に近づいていくと、和雄は驚いたような顔して、
そして次の瞬間、困ったような表情を浮かべた。
その向かいの席には見覚えのない女性が座っている。 
「参ったな」と言いながら頭を掻いた後、和雄は「妹です」と紹介した。 
妹ということは翠さんか。確か楓と同い年のはずだ。
髪の長いその女性が丁寧に頭を下げるので、こちらもそれにならう。
楓とはタイプが違うが、なかなか綺麗な子だった。 
「僕らはもう出ますけど、ゆっくりしていって下さい。ここは昼のAランチが安くて美味しいですよ」 
和雄は朗らかにそう言うと、会計を済ませた後で僕と師匠に近づいてきて耳打ちをした。 
「ここで僕らを見たこと、誰にも言わないでもらえますか」 
? 

『頼みます』とばかり、拝むような仕草をする。 
「いいよ」
師匠は特に気にしない様子でそう言うと、大袈裟な身振りでウェイトレスを呼び、早口にAランチを注文した。
腹が減って気が急いているらしい。 
連れ立って店を出て行く二人を横目で見ながら、僕も同じものを頼む。
疑問を感じはしたが、Aランチがテーブルに並べられるとそんなものは吹き飛んだ。
あれこれ動き回って頭を使っているせいか、昨日からやたら腹が減る。 
師匠と二人で出された料理を黙々と片付けていった。 

「満足じゃ」 
師匠が箸を置く。
そのまま楊枝を探しているようなので、僕の目の前にあった容器を差し出しながら、
「神主の幽霊の謎が解けたって、どういうことなんですか」と訊く。 
師匠は楊枝を一本抜き取り、口元を隠しながらこんなことを言った。 
「謎が解けた、は言い過ぎかな。フーダニットはクリアになったが、ホワイダニットがいまいち見えてない」 
「だから、なんですかそれは」 
「まあ、とりあえず、今までの解決手段が、間違っていたことが分かっただけでも十分だろう」 
最後までそんな抽象的なことばかり言ってはぐらかされた。
納得できていないが、師匠が腰を浮かせたので仕方なく一緒に席を立つ。
レジで師匠が「領収書をくれ」と言うと、ウェイトレスは驚いた様子で店長を呼びに行った。 
普段は近所の馴染み客ばかり相手にしているから、領収書が欲しいなんて言われたことがないのだろう。
僕にしてもこんな興信所のバイトをしていなければ、
学生の身分で領収書をもらう機会などそうそうなかったに違いない。 
厨房の方から出てきた店長が、レジの下の棚をごそごそ漁っているとようやく未開封の領収書の用紙が出てきたので、
それに記入してもらった。
こんな食事代も調査費で落ちるのだろうか。 
「一度戻ろう」
喫茶店を出たあと、若宮神社でもらった袋をポンと叩いてから、師匠はそれを担いだ。 

それからまた自転車に乗って、僕らは『とかの』に戻った。
相変わらず風は冷たいが、その間師匠はペダルを踏みながら鼻歌などうたっていた。随分と余裕が漂っている。 
「余裕ですね」そう訊くと、「そうでもないよ」との返事。
しかし、表情はやはり余裕そうだった。
「ピースがあと一つ二つで埋まるって感じ」 
そんな意味深な言葉を吐いてニヤリとした。実に意地悪そうな顔だ。

旅館に帰り着くと、広子さんが暇そうに玄関先に座り込んでいた。 
「あ、お帰り~」 
座ったまま手を振っている。今日一日客がいないとなると気楽なものだ。
年末のかき入れどきにこれでは、オーナーは気苦労が絶えないだろうが、
従業員としてはほとんど休みみたいなもので、ラッキーとでも思っているのかも知れない。 
時計を見ると、昼の二時を回っている。 
自転車を玄関前に止めて、師匠は布袋を広子さんに押し付けた。
「大広間に置いといて」
そう頼むと、広子さんは「いいよう」と、えっちらおっちらそれを手に提げて大広間の方へ向かう。 
僕らはそれを尻目に二階の部屋に上がった。
途中、「他の温泉に入りに行こう」と師匠が僕の方を振り返りながら言う。 
「他のって、田中屋ですか」 
「とりあえずお隣らしいから、そこかな」 
「観光気分ですか」
自分でそう言った後、勘介さんが近くにいないかと首をすくめる。
あの人は腹に一物を持ってそうだ。女将のやとった僕ら胡散臭い連中に対し、明らかに敵対心を抱いている。
あまり不真面目そうな言動をしていると、いつか怒鳴りつけられそうな気がする。 
「人聞きが悪いな。情報収集だよ。古参の温泉旅館は、新参者の『とかの』を心良く思ってないはずだからな。
 その裏を取りがてら、例の噂のことについて訊き込むとしよう」 

そうして着替えを持ち出し、玄関先に止めていた自転車に乗ろうとすると、
楓が敷地の門のところに立っているのに気づいた。 
「お出かけ?」
「あ、どうも」
昨日よりも大人びた感じの服装をしている。 
「デートぉ?」
師匠がシナを作っていやらしく訊くと、楓は「そんなんじゃないですよ」と手を広げて左右に振る。 
「和にぃが、翠ちゃんと昨日きょうだい喧嘩しちゃったらしくて、
 仲直りしたいから、翠ちゃんの好きなスタンドランプをプレゼントしたいんですって」 
そのスタンドランプをどう選んでいいか分からないので、買い物に付き合ってくれと言われたらしい。 

僕と師匠は顔を見合わせた。それでか。喫茶店での和雄の様子を思い出して、笑ってしまいそうになる。 
「あ、きた」
田舎道に控えめな排気音を響かせて、和雄のバイクが姿を現す。
なんという車種か知らないが、黒っぽいレーシーなやつで、
こうして走っているところを見ると、なかなか様になっていてカッコいい。 
旅館の敷地に入り、僕らの前でバイクは止まった。
ヘルメットを取った和雄は、すました顔で「昨日はどうも」と僕らにしゃあしゃあと挨拶をすると、
座席下の収納スペースからもう一つヘルメットを取り出して楓に渡した。 
「じゃあ、行ってきます」
ヘルメットを被りながら僕らに手を振って、楓はバイクの後ろに乗り込んだ。
和雄はなにか確認するようにゆっくりと僕と師匠に頭を下げ、それからアクセルを踏んで颯爽と走り去っていった。
それを見送った後で、師匠がぼんやりと言う。
「でかいバイクだなあ。ヘルメットが二個収納できるやつだぞ、あれ」 
そんなことより、さっきのやりとりに和雄の必死さが伝わってきて、なんだかこっちが恥ずかしくなってしまった。
どうやら喫茶店では、妹の翠との口裏合わせの作戦会議に出くわしてしまったらしい。 
妹をダシにしてデートの口実を作るとは、
なりふり構わないというより、その生真面目さが垣間見えた気がして微笑ましかった。 
「そんなあれこれ理由つけなくても、もっと強引で良いんじゃないかなあ」 
昨日の夜のことを思い出してそう呟いたが、師匠は興味を失った様子で、
「さあ、行こう。早く汗を流したい」と急かし始めた。 
確かにハイペースで自転車をこぎ続けていたので汗をかいたし、
しばらく身体を動かさないでいると、寒さで急に服に染み込んだ水分が冷たくなっていく。 
「いいですねえ」 
僕は本心からそう言った。

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