星を見る少女 - 師匠シリーズ

463 :星を見る少女 ◆oJUBn2VTGE :2011/02/18(金) 22:12:11 ID:rM70Z9OU0

大学一回生の春だった。 
そのころ僕は、以前から興味があった幽霊などのオカルト話に関して、
独特の、そして強烈な個性をまき散らしていた、サークルの先輩に心酔しつつあった。 
いや、心酔というと少し違うかも知れない。怖いもの見たさ、のようなものだったのか。 
師匠と呼んでつきまとっていたその彼に、ある日こんなことを言われた。 
「星を見る少女を見てこい」
星を見る少女?
一瞬きょとんとしたが、すぐにそんな名前の怪談を思い出す。怪談というよりも都市伝説の類かも知れない。 
「どこに行けばいいんですか」と訊いてみたが、答えてくれない。
何かのテストのような気がした。ヒントはもらえないということか。 
「わかりました」 

そう言って街に出たものの、地方から大学に入学したばかりで土地勘もない。大きな街だ。
まったくの徒手空拳で歩き回り、偶然見つかるほど甘いものではないだろう。
ということは、このあたりでは有名な話なのかも知れない。 
僕は所属していたサークルへ足へ向けた。 

部室でだべっていた数人の先輩に、『星を見る少女』について訊いてみる。 
「ああ。あの、橋のところのマンションだろう」
あっさりと分かった。 
ある一室の窓に、ベランダ越しに星を見る少女の姿が見られるのだと言う。 
「何号室なんですか」
「さあ、そこまでは」

サークルでの情報収集を終え、次に大学の研究室へ向かった。 
ゼミの時間ではなかったが、やはり先輩を含む数人が書籍に囲まれた狭い室内でだべっている。 
「聞いたことがある」
地元出身の女性の先輩がそう言った。 
「リバーサイドマンションって名前じゃなかったかな」 
「何号室とか」
「さあ。空き部屋って話だったとは思うけど。今でもそうなのかな」 
あまり芳しくはなかったが、この程度の情報でも十分だろう。 
研究室を出ると、僕はすぐさまくだんのマンションへ向かった。 

小一時間自転車を走らせると、市内を流れる大きな川沿いに四階建てのマンションの姿が見えてきた。 
ベランダ側が川に面していて、ちょうど橋の上から全体が見渡せる。向かって左手側の堤防の向こうだ。 
その日は春らしい暖かさはどこかに消えて、冬に戻ったような肌寒さを感じる日だった。
風が強く、橋の上から見下ろすと、川面がさざなみ立っている。
橋の中ほどで自転車を止めてマンションを眺めると、各部屋のベランダに布団や洗濯物が干してあるのが見えた。
思わず空を見上げたが、薄い雲に覆われていて日差しは弱々しい。
乾くには時間がかかりそうだ、と余計な心配をしてしまう。 
「どの部屋がそうなのかね」
吹きさらしの橋の上で、肩を縮こませながら口に出してみる。 
広く知られている『星を見る少女』という怪談の中身は、おおむねこうだ。 

バイト帰りの男子大学生が夜遅く自分の家へ向かう途中、あるアパートの二階の窓に若い女の子の姿を見た。 
彼女は身じろぎもせずに、じっと窓の外の空を見ている。満点の星空だ。 
そのアパートを通り過ぎて家に帰り着いてからも、大学生はその女の子のことがやけに気になった。
星空を見つめているという姿に、ロマンティックなときめきを感じたのだ。 
次のバイトの日、また夜遅く家へと帰っていると、あのアパートの前を通りがかった。
すると先日と同じように、あの女の子が窓辺から夜空を見ている。 
暗くてよくは分からなかったけれど、その横顔はとても素敵に見えた。 
名前も知らないその女の子に恋心を抱いた大学生は、
次のバイトの日の帰り、また同じように窓辺から星を見つめている彼女の姿を見たとき、たまらくなくなって、
自分の思いを伝えようと、そのアパートの部屋を訪ねた。
玄関のドアをノックしても返事はない。中は明かりもついていないようだ。
それでも彼女は部屋にいるはずなのだから、ノックが聞こえていないのだろうかと、そっとノブを捻る。 
開いた。
部屋の中を覗き込んだ彼が見たものは、窓際で首を吊っている女の子の姿だった。
まるで窓の外の星を見ているような。 

グロテスクなオチだ。 
それが改変されたと思われる、『てるてるぼうず』の話も聞いたことがある。
窓辺の首吊り死体がやがて腐り始め、首から下がズルリと崩れ落ち、
頭部とそこからぶらさがる脊椎だけが縄に吊るされている。
その凄まじい状況が、遠目にはてるてるぼうずのように見える、という話だ。 
こちらはあまりメジャーではないが、『星を見る少女』の方はテレビや雑誌でもそれに類した話をよく見るので、
全国的に広がった話だと言えるだろう。 

しかし、このリバーサイドマンションにまつわる『星を見る少女』の方は、
その名前は街なかでそこそこ知られているものの、噂自体は具体性にかけるようだ。 
今日聞いた話では、
「誰も住んでいないはずの部屋の窓から、女の子が外を見ている」というものと、
「その部屋で死んだ女の子が、夜中に窓から星を見ている」というものがあった。 
前者は全国版と同じように、
その女の子の姿が気になった男が部屋を訪ねてみると、首吊り死体があったというオチだった。 
後者は首吊りというオチがないかわりに、最初から死者であることが示されていることで怪談になっている。 
まったく違う話のようだが、時系列になっているようにも思える。
首を吊って死んだ女の子が、今でも亡霊として現れるという筋だ。 
真相はともかく、窓から少女が空を見ているという部分は共通しているはずだ。 

僕は各部屋のベランダに干された布団が、風にたなびいている様子を眺める。 
ほとんどの部屋がカーテンを閉めていて、その向こうは見えない。留守が多いのだろう。
カーテンが開いている窓もいくつかあったが、ガラス戸は閉まっていて、そのいずれにも人の姿はなかった。 
まあ昼間からそうそう出るものではないだろう。 
『出る』という言葉を思い浮かべてから、今さらながら気づいた。 
師匠は『星を見る少女を見てこい』と言ったのだから、現在も継続する怪談のはずだ。
ということは、今日聞いた二つの噂のうち、全国版に近い『首を吊っていた』というオチの方はおかしい。 
それは誰かの体験談として語られるタイプの怪談であり、
同じ体験をしてしまうかも知れない、という怖がらせ方をするものではないのだ。 
それを聞いたあなたのところにも……という巻き込み型の話にもならないはずだ。前提条件が特殊すぎる。 
やはり、死んだはずの少女が窓に映っている、という方が本命か。それを見てこいというのだ。 
そうとなれば昼間に来ても駄目だろう。夜を待つしかない。なにせ『星を見る少女』なのだから。 
僕は現地を確認したことで、それなりに満足して立ち去った。 

その夜である。 
僕は同じ橋の上に立っていた。 
まだ風が強く、街の明かりが波立つ暗い水面に乱反射していて、風情がない感じだ。 
その川の堤防の向こうに四階建てのマンションの姿がある。
各部屋の窓にはカーテン越しに明かりが灯っている。 
腕時計を確認すると、夜の十一時。この時点で明かりが消えている部屋は四つ。
目を凝らすと、そのうちの一部屋は洗濯物が出しっぱなしになっているのが見える。
残りの三部屋は、昼間に洗濯物を干していたかどうか思い出そうとしてみたが、記憶があいまいだった。 
ただ、空き部屋があるとしたら、その三つのどれかだ。 
じっと見つめていても、それぞれの窓にはなんの気配も見当たらない。
というよりも、明かりのない窓は暗すぎて、中に人がいても見えそうもなかった。 
僕は『明るい方から暗い方はあまりよく見えない』という法則を思い出した。 
昼間は暗い家の中から明るい外の様子がよく見えて、外からは家の中がよく見えない。
夜は逆に明るい家の中を外から見られてしまい、家の中からは外が見えない。 
橋の上も街路灯がぽつりぽつりとあるだけで、さほど明るい訳でもなかったが、
数十メートル離れたマンションの、暗い窓の向こうを見て取るのは無理な話だった。 
今いる場所は橋の中ほどだったが、
これ以上マンションの方に近づくと、角度がつき過ぎて横からの眺めになるために、
部屋の中は見えなくなってしまう。 

なにか変だった。
これでは星を見る少女を見ることができない。誰にも。 
念のために橋を渡りマンションの前に行ってみたが、
川の堤防に近すぎて、その堤防ぶちギリギリに立って見上げても、角度がきついため窓がよく見えない。
各階のベランダの足場を下から見上げる形になるからだ。
もちろん対岸からでは遠すぎる。
やはり窓の向こうに人影が見えるとすると、あの橋の上からだ。 
それが周囲を観察して出した僕の結論だった。 
あるいは、川に船を出せばもっと近くで窓を見ることができるかも知れないが、それでは一般的な噂にならないだろう。
「ううう」と唸って、僕はもう一度堤防沿いからマンションを見上げる。 

風が吹きつける橋のあたりから、気味の悪い音が響いてくる。ロープや欄干を抜ける多層的な風切り音が。 
良い雰囲気だ。ゾクゾクする。
なにか手がかりはないかと思ったが、ウロウロしていても思いつきそうな気配はなかった。
コンビニの袋を提げた住民が、マンションの入口のあたりからこっちを不審そうに窺い始めたので、
気の弱い僕は、もうそれだけで退散したくなってきた。 
しかたなしに一旦堤防沿いを歩き去ってから、せめてどこが空き部屋なのかだけでも確認できないかと、
ぐるりと遠回りしてマンションに戻り、入り口近くの郵便受けの様子を確認した。 
銀色のボックスにつけられた部屋番号の下に、名前のプレートがあるものもあったが、
部屋番号のみのものも多かった。
防犯対策か、あるいは訪問販売対策なのだろうか。 
チラシの類が大量に詰め込まれているようなボックスもない。
空き部屋があっても、管理人か誰かがこまめに回収しているのだろう。 
考え込んでいると、背中に視線を感じた。 
「あの、すみません」 
主婦らしき女性が、自分の部屋のボックスを開けようとしていた。 
僕は自分でも情けないくらい狼狽して、しどろもどろに弁解じみたことを言いながら、その場を逃げ去った。 

帰り道、師匠ならずぶとく情報収集をしていただろうなあと思い、なんだか情けなくなった。 

次の日、僕は大学の講義の空いた時間を利用して、またリバーサイドマンションへ来ていた。 
どう考えてもおかしいのだ。夜の暗がりの中では、やはり橋の上から明かりの消えた室内は見えない。 
ということは、明かりのついた部屋、つまり空き部屋ではなく、誰かが住んでいる部屋での出来事なのだろうか。
それにしても、窓際に立って外を見ている人ならば、室内の光は背後から来ているはずだ。
直接顔が照らされていない人を、夜中に橋の上のこの距離から見て、
はたしてそれが少女であると視認できるものだろうか。 
おそらく、誰か分からないけど人影が見える、という程度ではないか。 
考えれば考えるほど分からない。 
昨日から引き続いて風の強い日だった。川面に映るマンションの姿もぐちゃぐちゃに揺れている。 

今みたいに橋の上から川を見下ろして溜息をついていると誤解されそうだった。 
「おい」
そんなことを自嘲気味に考えている時、急に背中から声をかけられ飛び上がりそうになった。 
振り向くと、茶髪にピアスの怖そうな人が立っている。 
「なにしてんだこんなとこで」
一瞬緊張して身体が固まったが、相手の物腰が因縁をつけている感じではないことに気づく。 
「あ、先輩スか」
ふいに思い出した。確か同じ研究室の三回生だ。ほとんど研究室には顔を出さない人なのでうろ覚えだった。 
「サボりか」と訊かれたので、「いや、まあ」と笑ってごまかす。 
「あの時は悪かったな」そう言って肩を叩かれた。
笑っている。つられて笑っているうちに、だんだん思い出してきた。
学内の芝生で行われる伝統の新入生歓迎コンパで、
僕にむりやりビールを飲ませ続け、人生初のリバースを体験させてくれたのがこの先輩だった。 
「オレの家、アレなんだよ」 
先輩はそう言って、リバーサイドマンションを指さした。 
「いや、一人で借りてるわけじゃねえよ。親、親。実家があそこなんだよ。
 オレはもっと大学の近くに部屋を借りてんだけど、洗濯がめんどくさくてな。
 ためこんだブツをおすそ分けしに、しょっちゅう帰ってんだ」 
あ、いいな。と思ってしまった。
僕も初めての一人暮らしで一番困っているのが洗濯だったからだ。
親に任せていた高校時代には想像もしていなかったが、これが実にめんどくさい。 
先輩は思ったより気さくな感じだったが、やはり見た目の怖さにはすぐになじめない。

会話が途切れたところで、「じゃあこれで」と立ち去ろうとしたが、
今さらこの人が重要な証人であることに気づいた。 
「え、じゃあ、あの噂知ってますか。あのマンションの部屋の窓から女の子が……」 
「ああ。知ってるよ。空を見る少女とかなんとかいうヤツな」 
当たりだ。本当は星を見る少女だが。 
僕は興奮してたたみかけた。 

「先輩は見たことありますか?どこから見れるんですか?どの部屋ですか?空き部屋なんですか?」 
「おいおい。ちょっと、待て。落ち着け」 
先輩は周囲の目が気になったようで、
あたりを見まわしたあと「こっちこっち」と、マンション側へ橋を渡りきった所にあったベンチに僕を誘った。 

「あれってただの噂だろ。ほんとなわけないじゃん」 
座って早々に先輩は言った。 
あ、やっぱり。
妙に納得してしまった。それが普通の感覚なのだろう。 
「誰もいないはずの空き部屋に、そんな女が見えるって話だろ。オレの知ってる限り空き部屋なんてねえよ。
 あんまガキのころは分かんねえけど、高校、ていうかたぶん中学以降は、ずっと住人メンバー変わってないはずだ。
 それに……」 
先輩はマンションの方を振り向きながら顎をしゃくった。 
「空き部屋ならよ、雨戸閉めるだろ、普通」 
「あ」と声が出た。言われてみるとその通りだった。 
フローリングだか畳だか知らないが、
空き部屋の日光の入るベランダの大きな窓に、雨戸で目張りをしないはずはなかった。 
「その部屋で死んだはずの子が、夜中に窓から外を見てるとかって話はどうなんですか」 
「そんな噂もあったなあ。どっちにしろデマだ、デマ。そもそもマンションで誰か死んだなんて話、聞かねえよ」
あほくさ、と呟いて先輩は、「迷惑なんだよなあ、住民としちゃあ」と真面目な顔で語った。
彼自身はもう住民ではないはずだったが。 
「203号室だとか、302号室だとか、いやいや402号室だとか、全部噂の中身が違うんだぜ。適当すぎだろ。
 オレんちの部屋のバージョンもあってさ、中学のころにからかわれたこともあんだぜ」 
ほんとに迷惑だと、なぜか僕を睨みつけてきた。 
「すみません」ととっさに謝りながら、ふと湧いた疑問を口に出していた。 
「かなり昔からある噂なんですか」
「ああ。ガキのころからあった気がするな。あんま覚えてねえけど」 
昔からある噂……
まったく根も葉もないものが、それだけ長く続くなんてことがあるのだろうか。 

考え込んでいると、いきなり先輩が立ち上がり、僕の肩をドシンと叩いた。肩を叩くのが好きな人だ。 
「とにかく、そんなくだらねえ噂信じてんじゃねえよ。迷信なんて信じるとろくなことにならない、って言うだろ」
後半は冗談のつもりだったらしく、笑いながら肩をバンバンと叩かれるので、
僕はぎこちなく愛想笑いを浮かべるしかなかった。 

先輩と別れ、追い立てられるようにその場を後にした僕は、
自転車に跨りながら、今日得た情報を頭の中で整理していた。 
昔から空き部屋はない。死んだ女の子もいない。噂の中身もバラバラ。住民自身も信じていない。 
溜め息が出た。噂なんてこんなものか。現実に星を見る少女なんているわけはないのだ。 
それでも……
『星を見る少女を見てこい』
脳裏に蘇った師匠の言葉に、僕は頷くのだった。 

その三日後、めげない僕はまたリバーサイドマンションを望む橋の上に来ていた。 
なんの目算もない。とりあえず来てみたのだ。我ながら涙ぐましい無駄な努力だ。 
実は一昨日も来ていた。もちろんなんの収穫もなく帰っている。 
橋の真ん中に欄干が少し外側へ膨らんだ場所があり、そこがマンションを見るベストポジションだった。
僕はそばに自転車を止めると、その位置に両肘を乗せた。 
そして、ふと気づいて、先輩がいないか辺りを見回す。
この噂話にかなり迷惑を被っているであろうその先輩は、冗談めかして笑ってはいたが、
興味本位で噂を追いかける野次馬に、内心むかついているのは容易に想像できた。 
また僕がこりもせずにこんなところにいるのを見られたら、どんな目に遭わされるか分かったものではない。 
実は昨日も来ていたのだ。そしてなにも見えずに帰っている。ようするに毎日来ているのである。 
よし、と先輩がいないのを確認して、マンションの方へ向き直り、観察を開始する。 
整然と並んだベランダには、いつものように洗濯物がずらりと並んでいる。
よくもまあそんなに毎日洗濯ができるものだ。 
僕などもうめんどくさくてめんどくさくて、一週間は平気で溜め込んでいる。
実家へ持ち込める先輩が心底羨ましかった。 

それにしても今日は良い日差しだ。
ここ数日の寒さが嘘のように春らしい暖かさが戻ってきたし、絶好の洗濯日和と言えるだろう。 
午後の陽光に目を細めながら、僕は良い気持ちでマンションの全景を眺めていた。
カーテンが閉められている部屋が全体の六分の五。半端に開いているのが二部屋。全部開いているのも二部屋。 
どの部屋のベランダにも、布団を叩いたり洗濯物を干したりするような主婦の姿はない。 
平日だし共働きも多いのかもしれない。
主婦のスケジュールはよく分からないが、
専業でも洗濯物を干したりなんかは、午前中にするものと相場が決まっているのかも知れない。

…… 
あくびがでた。
欄干に顎を乗せる。眠くなってきた。 
今日は風がないな。
だから暖かいのかも知れない。 
首を伸ばして川を見下ろすと、凪いだ水面が静かにたゆたっている。
昨日までの風でさざなみ立っている時とは全く違う相貌だ。 
川面はまるで鏡のように、周囲の景色が鮮明に映りこんでいる。時が止まったように。 
鏡の中のマンションを見ると、ベランダに出された布団の色も見て取れる。目を凝らせば柄まで見えそうだ。
洗濯物も、カーテンも、人間の顔まで見えた。 
妙に感心してしまった。 
いくら風がなくても海ではこうはいかないだろう。
湖や流れの緩やかな川で、しかもよほど条件が整わなければ、これほど綺麗に景色を映すことはないだろう。 

実に良い物を見たような気になり満足してしまったので、今日はもう帰ろうかと顔を上げかけた。その時だ。
じくり、と首筋に何かが這うような、気持ちの悪い感覚が走った。 
顔。
顔だ。
さっき確かに人間の顔が見えた。 
思わず顔を上げて、橋の向こうのマンションを見る。
一階、二階、三階、四階。どの部屋もベランダは無人だ。そしてほとんどの部屋はカーテンが閉まっている。
人の姿は見えない。 
胸に動悸を感じながら橋の下に目を向け、鏡の中のマンションを見つめる。 
いる。
部屋の一つ。三階の、右から三番目の窓。カーテンが半分開いている。 

その窓際から外を見ている顔。女の子だ。髪が長い。 
僕は狼狽して目を擦った。鏡のようだとは言っても、しょせんは流れている水だ。
見間違いということはあるかも知れない。 
しかし何度目を擦っても、水面に映るその部屋の窓には女の子の姿があるのだ。 
顔を上げて現実のその部屋に目を凝らしても、カーテンは半分開いているが、窓の向こうには人影すら見えない。
そのまま顔を下げると、鏡像の女の子はじっと外を見続けている。
それも気のせいか、こちらを見ているような気がする。 
ぞくりとして生唾を飲み込む。
橋の下の川面に映った鏡像の中からの視線が、橋の上にいる僕の方へ伸びてくる。
思わずその視線を避けて、のけぞるように顔を背ける。 
自然とその視線を可視的で立体的なものとしてとらえ、その行方を追いかける。 
視線は僕のいた場所を通り過ぎ、そのまま突き抜けるように空へと向かっていった。わずかな雲の浮かぶ青空へ。
その瞬間、僕の中に凄まじい、感情とも快感ともつかない、なにか未分化の奔流のようなものが走り抜けた。 
空を見る少女!
先輩は確かにそう言った。噂の原型はそれなのだ。言い間違いでも聞き間違いでもなかった。
どおりで夜には見られないはずだ。
そうなのだ。この、空を見る少女こそが! 

放心した僕の頬を風が撫でた。暖かい春の風が。 
ハッと気づいて川を見下ろす。
もう水面はたなびく風に波立ち始めていた。
マンションも、部屋の窓も、その向こうに儚げに立つ少女の姿も、なにもかもが溶け合うように虚ろに揺らめいている。
もう見えない。
川の上流に目をやると、波立った水がどこまでも伸びている。
少なくとも、上流のあの波立った水面がこの橋の下を通り過ぎるまで、もう鏡のような姿には戻らないだろう。
それまでにまた風が吹いてもだめだ。 
僕は力が抜けたように欄干へ身をもたせ掛けた。 

そして橋の下に目を向け、もう見えなくなったあの繊細な鏡像を、あの顔を、そこに見ようとする。 
星を見る少女に恋した大学生の気持ちが、少し分かったような気がした。
手の届かないものだからこそ、美しいのだ。 
僕はもう一度、今度は心の中で思い描いた。 
気まぐれに現れた奇蹟のような時間、確かにそこにあった幻を。 

その夜。 
師匠の部屋に乗り込んだ僕は、ことの次第を告げた。 
ニヤニヤしながらも師匠は口を挟まないまま聞き終わる。
そしてやおら押入れに上半身を突っ込むと、ごそごそと中を探り、一冊のバインダーを出してきた。 
パラパラと捲っているのを見ると、色々な新聞記事などのスクラップのようだった。 
「お前が見たのが、まさに噂の正体だ。空を見る少女。
 川の中から空を見上げているその姿を、たまたま見てしまった人がいたんだろうな。
 霊感と、鏡のような水面。その二つが偶然に重ならないと見られない、実にレアなお化けだ」 
ページを捲りながら師匠は言う。
『お化け』と表現されると、ロマンティックな気持ちに浸ったままの僕は、なにか釈然としないものがあった。 
「元々はその正しい噂があったのかも知れない。
 しかし『星を見る少女』という、もっと有名でかつ似た名前の都市伝説があったために、混同されてしまったんだ。
 空を見る少女の方はめったに見るもいないんだから、噂の混同部分の比率では自然にマイノリティになってしまう。
 結局、様々にバージョンの広がった『星を見る少女』の中に、取り込まれちまったんだ」 

「あった、これだ」と、師匠は古びた新聞紙の切り抜きを取り出した。 
地元紙の地域欄だ。日付は十七年前。
何か裏を取ったのか、この人は。感嘆が喉元まで出掛かる。 
記事には『女子高生水死』という文字が大きく印字されている。
場所はあの川で、まさにリバーサイドマンションの堤防のすぐ前のあたりだ。 
それほど水深もなさそうだったのに。記事を読む限り水死の原因は分かっていないようだ。
死亡した女子高生の住所も出ていたが、リバーサイドマンションではなかった。 
「そりゃそうさ。この子は、リバーサイドマンションになにか執着があって、そこに迷い出てきてるわけじゃない」

師匠は記事をひらひらさせながら、説教じみた口調で続けた。 
「鏡の中からの視線が空に向いてるってことは、
 本来のマンションの部屋からの視線は、水面に向かっているってことだ。
 反射角度とか難しいこと考えなくても、それは分かるよな。
 ようするに、この子は自分の死んだ場所を見つめているだけだ」 
それを聞いた瞬間、ぞくっとした。 
『星を見る少女』にも負けず劣らず、グロテスクなものを感じたからだ。 
「噂では203号室だとか、302号室だとか、肝心のその部屋がどこかって部分はバラバラだ。
 実際にどこでもいいからだよ。
 要するにこの子は、その川の場所さえ見られたらどこからだっていいいんだ。カーテンが開いている部屋なら」
と、いうわけだ。そう言って師匠は、満足したように口を閉じた。
そして新聞記事を、スクラップの中に淡々と戻している。 
僕は数日間のささやかな冒険のことを思い返し、複雑な気持ちだった。 
『星を見る少女』という怪談、あるいは、都市伝説に塗り替えられてしまったあの少女のことを思うと、
なんだかやり切れない思いがあった。 
直接マンションの部屋に出るわけではなく、いや、実際はそこにいるのかも知れないけれど、
水面に映った幻の中でだけ見ることが出来る、というのが、
なんだか若くして儚く散った彼女の生涯に重なるようで、思わず目頭が熱くなってしまった。 
そんなことをぽつぽつと呟いていると、師匠は僕の肩をどやしつけた。最近やたらと肩を叩かれる。 
「一応、ミッションは合格にしといてやるけど、優良可で言うと良だ」
なんだ偉そうにこの人は。ムカっときて思わず睨むと、その数倍鋭い眼光に射竦められた。 
「だったら優はなんなんです」
僕がなんとかそれだけを返すと、師匠は暗く輝く瞳を細め、その眼球を自分の手で指さしながら、ぼそりと囁く。
「俺は、直で、見られる」
「いつでもな」と、口を歪めて笑った。

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