葬式 - 師匠シリーズ

917 :葬式  ◆oJUBn2VTGE :2007/03/07(水) 19:59:41 ID:OPG460nV0

大学2回生の初秋。 
サークルの先輩と二人でコンビニに食料を買いに行ったその帰り道。 
住宅街の大通りから脇に入る狭い道があり、その手前に差し掛かった時に軽い耳鳴りに襲われた。 
その直後、目の前の道路の上にぼんやりとした影が見えた気がした。 
立ち止まりながら眼鏡を拭いたが、やはり人間くらいの大きさの影がくらくらと揺れている。 
なんだか現実感が薄い。
4つか5つくらいの影が、揺れながら狭い道の方へ曲がっていった。 
その向こうには、どこにでもある昼間の住宅街の光景が広がっている。 
先輩がその辻に向かい、影が曲がっていった道の方を見る。 
「あれか」
俺もそれを真似て、覗き込むように立ち止まる。 
住宅が立ち並ぶ道の向こうに、鯨幕の白と黒の模様が見えた。 
そしていくつもの影が、移ろうような頼りなさで途上にある。 
なんだか気持ちが悪い。猫の礫死体を見たときのような。
「そういえば斎場がありましたね」
「うん……」
カラ返事が返ってきた。
この世のものではないものをごく日常的に見ている人にとって、この光景はあまり興味を惹かれないものなのだろうか。 
「あれが見えるようになったのか。
 去年の今頃は気がつかなかったのにな……」
そんな軽い侮蔑の調子に、自分のことを言われているのだとわかった。 

半ば畏れ、半ば馬鹿にして師匠と呼ぶその人は、俺に見えていないものをあえて教えないスタンスだった。
嫌な性格だ。
「なんなんですか」 
「あれは、まあ、幽霊の類だけど。光に群がる虫と言ったらしっくりくるかな」 
虫とはあんまりだ。 
そう思った瞬間、遠くの影がひとつ、表裏のないままこちらを向いたような気がした。 
「葬式は死と密接につながっている、というイメージが日本人のメンタリティに存在する限り、
 毎年毎年生産され続ける死者にとっても、やっぱり特別に気になる場なんだろう。
 でもまあ虫だよ」
師匠は鯨幕の見える方へ歩き始めた。 
俺も続いて狭い道へ入る。 
少し歩きにくい気がする。
うっすらとした影が踏んでいった場所がねとつくような。 

喪服を着た人たちが大勢出入りしている建物についた。 
遠巻きに立ち止まる。
告別式が始まるのだろうか。
入り口で手招きする人に急かされて、おばさんが数人小走りに俺たちの前を通り過ぎた。 
黒い服の人々に混じるように、輪郭の定まらない影たちも葬式場へ入っていく。 
異物。そんな言葉が浮かび、ひどく気分が悪くなった。 
師匠はつまらなそうな表情でその光景を眺めている。 

ふと、子供の頃に体験した不思議な出来事を思い出した。 


「お葬式にいくのよ」と母親に連れられて、人が沢山いる場所に行った記憶。 
随分早く着いたようで、砂利が敷き詰められた敷地の中で、
初めて見るようなおじさんやおばさんたちと、挨拶を交わす母親について回っていたが、
それもだんだん退屈になり、「おしっこ」と言ってその場を抜け出した。 
一人で歩いていると、立ち並ぶ大きな花の陰に手招きしている女の子がいる。
「遊ぼうよ」と言うのである。
そして二人してあちこちを探検して回った。大人の気づかない楽しい場所を探して。 

やがて母親に見つかり、「お焼香あげるのよ」と連れ戻される。 
あの子はどこに行っただろうと振り返るけれど、姿は見えなかった。 

木屑みたいなものをチロチロ燃える灰の中に落として、顔を上げると、
匂いの強い花に囲まれた写真立ての中に、さっきまで遊んでいた女の子がいる。 
死ぬということがよくわからなかったころ。
それでも、よくわからないままに、なぜか少し悲しかった。 


そんな思い出に浸っていると、斎場がざわめき始める。 
告別式が終わったようだ。まだ1時間も経っていない。
昔は坊さんのお経が延々と続いて、やたらと長かった印象ばかりあるが。これも時代性なのか。 
俺と師匠が見ている前で、出棺のための霊柩車が回されてくる。 
いつ見ても冗談としか思えないフォルムだ。 
やがて見送りの多くの人々の前で白木の棺桶が車に積み込まれる。 
その中でハンカチで涙を拭くおばさんが目に入ったが、横顔をじっと見ていると演技だとわかる。
溜息が出そうになったが、その時、
ハンカチを持ったその手に、うっすらと輪郭のまとまらない影が掻き付いているように見えた。 
よく見ると、喪服姿の人々の手にあたりに多くの影がまとわりついている。 

吐き気がして口を押さえる。
影はのろのろと動きながら、手の中でも指、それも親指をさわったり握りこんだりつまんだりしている。 
されている人は気づかない。
これから発車しようする霊柩車を、思い思いの悲しみ方で見守っているだけだ。 
師匠の顔を見ると、「くだらない」と一言いって肩を竦めた。 
霊柩車を見たら親指を隠せ。
そんな迷信が確かにある。俺も小さい頃、いつの間にかすり込まれていた。 
迷信だとばかり思っていた。
目の前の光景に棒立ちの足が震える。 
師匠が俺を見て、「迷信だろうが、なんだろうが」と言った。 
「日本人のコモンセンスになってしまったものは、死者にとってもそうなのさ」 
辛うじて人の形を模している影たちが、昼ひなかの道路に蠢いている。
そして、居並ぶ人々の親指をひたすらいじっている。まるでどうしていいか分からない様子で。 
なんだかとても悲しくなった。
「小山田与清っていう江戸時代の随筆家が、『松屋筆記』の中でこんなことを言っている。
 親指の爪間から魂魄が出入りするために、畏怖の時には握り隠すってね。 
 昔からある迷信なのに、なぜ隠すのかって部分が忘れ去られてしまっている。 
 教えてやれば、きっと喜ぶよ。
 喜んで、親指の爪の間から入りこもうとするよ」
気持ち悪い。
蠢く影。甲高いクラクションの音。白々しい涙。黒と白の幕。 
耐え難い吐き気と俺は戦い続けた。

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