声 - 師匠シリーズ

499 :声  ◆oJUBn2VTGE :2007/01/28(日) 12:29:26 ID:STrJj++Q0

大学2回生の春だったと思う。 
俺の通っていた大学には、大小数十のサークルの部室が入っている3階建てのサークル棟があった。
ここでは学生によるある程度の自治権が守られ、24時間開放という夢のような空間があった。
24時間というからには24時間なわけで、
朝まで部室で徹夜マージャンをしておいて、そこから講義棟に向かい、授業中たっぷり寝てから、
部室に戻ってきてまたマージャンなどという、学生の鑑のような生活も出来た。 
夜にサークル棟にいると、そこかしこの部屋から酒宴の歓声やら、マージャン牌を混ぜる音やら、
テレビゲームの電子音などが聞こえてくる。
どこからともなく落語も聞こえてきたりする。 
それが平日休日の別なく、時には夜通し続くのだ。 

ある夜である。 
いきなり耳をつんざく悲鳴が聞こえた。 
初代スーパーマリオのタイムアタックを延々とやっていた俺は、コントローラーを握ったまま部室の中を見回す。
数人のサークル仲間が思いおもいのことをしている。誰も無反応だった。 
「今、悲鳴が聞こえませんでした」と聞いたが、
漫画を読んでいた先輩が顔を上げて、「エ?」と言っただけだった。 
気のせいかとも思えない。
サークル棟すべてに響き渡るような凄い声だったから。
そしてその証拠に、まだ心臓のあたりが冷たくなっているな感覚があり、鳥肌がうっすらと立ってさえいる。 
部室の隅にいた先輩が片目をつぶったのを、俺は見逃さなかった。

その瞬間に、俺は何が起こったのか分かった気がした。 
その先輩のそばに寄って、「なんなんですかさっきの」と囁く。 
俺のオカルトの師匠だ。この人だけが反応したということは、そういうことなのだろう。 
「聞こえたのか」と言うので頷くと、「無視無視」と言ってゴロンと寝転がった。 
気になる。
あんな大きな声なのに、ある人には聞こえてある人には聞こえないなんて普通ではない。 
俺は立ち上がり、精神を研ぎ澄まして、悲鳴の聞こえてきた方角を探りながら部室のドアを開けた。 
師匠がなにか言うかと思ったが、寝転がったまま顔も上げなかった。 

ドアから出て汚い廊下を進む。
各サークルの当番制で掃除はしているはずなのだが、
長年積み重なった塵やら芥やらゲロやら涙やらで、どうしようもなく煤けている。 
夜中の1時を回ろうかという時間なのに、廊下の左右に並ぶ多くの部室のドアからは光が漏れ、奇声や笑い声が聞こえる。
誰もドアから顔を出して悲鳴の正体をうかがうような人はいない。 
その中を、確かに聞こえた悲鳴の残滓のようなものを追って歩いた。 

そしてある階の端に位置する空間へと足を踏み入れた瞬間、背筋になにかが這い上がるような感覚が走った。 
やたら暗い一角だった。
天井の電灯が切れている。もとからなのか、それとも、さっきの悲鳴と関係があるのかは分からない。
いずれにしても、ひとけのない廊下が闇の中に伸びていた。 
背後から射す遠くの明かりと遠くの人のざわめきが、その暗さ静けさを際立たせていた。 
かすかな耳鳴りがして、俺は『ここだ』という感覚を強くする。 
このあたりには何のサークルがあっただろうと考えながら、足音を消しながら歩を進めていると、
一番奥の部室のドアの前に人が立っているのに気がついた。 

向こうも気づいたようで、こちらを振り返った。 
薄暗い中を恐る恐る近づくと、それは髪の長い女性で、不安げともなんともつかない様子で立っているのだった。
「どうしたんですか」と声を殺して聞くと、彼女はなにか合点したように頷いた。 
たぶん彼女も反応したのだ。バカ騒ぎする不夜城のなかで、わずかな人にしか聞こえなかった悲鳴に。 
顔色を伺うが、暗さのせいで表情まではわからない。
「俺も、聞こえました」
仲間であることを確認したくてそう言った。 
「ここだと思いますけど」
女性のかぼそい声がそう答えて、俺は視線の先のドアを見た。 
プレートがないので、何のサークルかはわからない。
頭の中でサークルの配置図を思い浮かべるが、この辺りには普段用もないので、靄がかかったように見えてこない。
ドアの下の隙間からは明かりも漏れておらず、中は無人のようだったが、
ビクビクしながらドアに耳をくっつけてみる。 
なにも聞こえない。 
地続きになっている遠くの部屋で、誰かが飛び跳ねているような振動をかすかに感じるだけだった。 
頭をドアから離すと、無駄と知りつつノブを握った。 
カチャっと音がしてわずかにドアが動いた。 
驚いて思わず飛びずさる。 
開く。カギが掛かっていない。このドアは開く。 
後ずさる俺に合わせて、女性も壁際まで下がっている。 
心音が落ち着くまで待ってから、「どうします」と小声で言うと、彼女は首を横に振った。 
おびえているのだろうか。
しかし去ろうともしない。 

俺はなにか義務感のようなものに駆られて、ふたたびドアへ近づく。 
ノブに手をかけて深呼吸をする。 
あの悲鳴を聞いたときの心臓が冷えるような感覚が蘇って、生唾を飲んだ。 
このドアの向こうに悲鳴の主か、あるいは関係する何かがある。そう思うだけで足が竦みそうになる。 
「開けますよ」と彼女に確認するように言った。
でもそれはきっと、自分自身に向けた言葉なのだろう。 
目をつぶってノブを引いた。
いや、つぶったつもりだった。しかしなぜか俺は、目を開けたままドアを開け放っていた。 
吸い込まれそうな闇があり、その瞬間、彼女が俺の背後で「キャーッ!!」という絶叫を上げたのだった。 
寿命が確実に縮むような衝撃を受けて、俺はそれでもドアノブを離さなかった。 
室内は暗く何も見えない。
暗さに慣れたはずの目にも見えないのに、一体彼女は何に叫んだのか。 
じっと闇を見つめた。
中に入ろうとするが、磁場のようなものに体が拒否されているように動けない。 
いや、たんにビビッていただけなのだろう。 
俺はしばらくそのままの姿勢でいたが、やがて首だけを巡らせて後ろを向こうとした。 
一体彼女は何に叫んだのか。 
そのとき、あることに気がついた。 
この廊下の一角はあまりに静かだった。やってきたときと変わらずに。 
さっきの彼女の叫び声に、このサークル棟の誰も様子を見に来ない。 

中途半端な位置で止まった頭のその視線の端で、彼女が壁際に立っているのが見える。 
しかしその姿が、薄闇の中に混じるように希薄になって行き、
俺の視界の中で音も無く、さっきまで人だったものが『気配』になっていこうとしていた。 
ドアの向こうの闇から、なにか目に見えない手のようなものが伸びてくるイメージが頭に浮かび、
俺はドアノブから手を離して逃げた。
背後でドアが閉じる音が聞こえ、彼女の気配がその中へ消えていったような気がした。 

自分の部室に戻ると、みんなさっきと同じ格好で同じことをしていた。 
胸を押さえて座り込むと、師匠が薄目を開けて「無視しろって言ったのに」と呟いてまた寝はじめた。
マリオはタイムオーバーで死んでいた。

その後、ときどきあのサークル棟の端の一角を気にして、通りすがりに廊下から覗き込むことがあった。 
昼間は何事もないが、ひとけのない夜には、あのドアの前のあたりに人影のようなものを見ることがあった。 
しかし、大学を卒業するまで、もう二度と近づくことはなかった。

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