心霊写真2 - 師匠シリーズ

90 :心霊写真2  ◆9mBD/1hPvk :2013/03/01(金) 22:57:01.62 ID:fdt0E6Bd0
ヤクザどもが去って行った後、小川さんはしばらくソファでぐったりしていたが、
急に飛び起きると、慌てた様子でデスクについて仕事を片付け始めた。
ホワイトボードのスケジュールに目をやると、所長は今日の午後三時半の飛行機で東京へ立つことになっていた。
帰りは明日の午後九時となっている。
なんだか慌しいが、仕事は人と会う用件が一つだけで、
あとは友人の結婚式の二次会に参加するのが主な東京行きの目的らしい。
書類の束をいくつかに分けながら、所長が顔を上げる。
「加奈ちゃん、これ、請求書、て、あれ、そういや今日呼んでないよね。遊びに来たのに、バイト代は出ないよう、と」
そしてヤクザが家捜しで荒らした事務所内を片付けていた僕を手招きする。
「請求書作ったことあったよね。これと、これの分を頼むよ。送り先はここね」
そうして幾つかの指示の後、しばらくかかって綺麗にデスクの上の書類を片付けてしまい、
最後に服部さんのデスクにあった報告書のチェックにかかった。
その間、加奈子さんは所長と僕が働いているのをぼんやりと見ているだけで、
時々「腹減った~」と喚いたり、「危険手当」や「ヤクザ手当」といったものを後付けで勝手に考案しては、
要するに小遣いをせびって邪魔ばかりしていた。
所長は服部さんの報告書に付箋で指示を書き込んでから、ようやくデスクから離れた。
そして脱いでいた上着を着始めたので、師匠が「そのひん曲がったネクタイで結婚式行くのかよ」とからかうと、
「ばか。一度家に帰るよ。それに二次会からだ」と返した。
そうして事務所から慌しく去っていく前に、僕らに向かって真面目な口調で言った。
「今日のことは僕のせいだ。すまん。
 君たちにはああいう人間たちにはできるだけ関わって欲しくないし、僕も関わりたくない。
 やつらが田村のことをどう決着つけるにせよ、
 命の危険があるほどのことなら、田村は自分で警察に逃げ込む程度の分別のあるやつだ。
 ああいう仕事を望んでしている以上、自分の尻は自分で拭く必要がある。それは田村自身覚悟の上なんだ。
 だからこの件には関わるな。
 特に加奈子。僕の経験上、凄く嫌な予感がしてるんだけど…… 大丈夫だな」
師匠はわざと曖昧に頷いた。
その肩に手を置いて、所長は大丈夫だなともう一度念を押し、わざとにこやかに笑った。
肩を掴む手にはかなり力が入っているようだ。 

「でも冷たいな、所長。わざわざ会いたいって訊ねてきたんだろ、田村は」
「やっぱり忘れてくれ、と言ったんだろう。最後に。あいつは、頼ろうとした自分を恥じたんだ。
 とにかく、もう関わるな。いいな」
ようやく師匠はちゃんと頷いた。
僕は初めてのヤクザとの第三種接近遭遇にまだ足元はふわふわと浮いているような感じだったが、
これでもうこの件は終わったものと思って安堵していた。

その次の日は土曜日だった。
僕は朝、師匠の家に電話を入れたのだが、留守のようだった。
昨日の小川所長と同じような予感めいたものがあり、自転車で小川調査事務所に向かった。
雑居ビルの脇の狭く薄暗い階段を上り、三階にある事務所のドアをノックする。
応答があり、中に入ると案の定、師匠がいた。
なにやら仏頂面をして、自分のデスクで肘をついて顎を支えている。
「なにしてるんですか」
「なにも」
向かいのデスクには服部さんもいる。
しかし師匠の方は不定期の『オバケ専門』のバイトだ。
その依頼について、受ける、受けないは所長の小川さんに決定権がある。
今抱えている案件はないし、所長の留守中に、どう考えても師匠がここへ出てこないといけない理由はなかった。
もちろん、昨日の田村がらみ、いや、ヤクザがらみの件を除いて。
「ねえ、なにしてるんですか」
「肘をついている」
顎が固定されているので、頭の方がカクカクと動いている。
「帰りましょうよ」
「帰れば」
「帰りません」
「好きにすれば」
「します」
「……」
「なにしようとしてるんですか」
「右肘の先が痛くなってきたから、左肘に変えようとしている」
よ、と言いながら師匠は姿勢を入れ替える。
その向かいでは、服部さんがワープロのキーを叩きながら、どこかに電話をかけている。
どうやら昨日の報告書で、所長に指摘された部分の裏を取っているらしい。
同じバイトの身でこうまで勤務態度が違うと、普通の職場なら軋轢を生みそうだが、
お互い、良い意味で無視をし合っている。
無関心というべきか。そもそもこの二人には接点がないので、摩擦すら起こらないのだった。 

息が詰まるような沈黙が続いていると、事務所の電話が鳴った。
服部さんが手を伸ばそうとしたが、それよりも早く師匠が自分のデスクの受話器を上げた。
「はい、小川調査事務所」
なんだ、所長か。そんなつぶやきが漏れた。
僕は耳をそばだてる。
師匠は電話をかけてきた所長と二言三言、会話を交わした後で僕の方を見てから受話器から顔を離して、こう言った。
「昨日の田村、捕まってないってよ。石田組のやつらに」
はあ?
僕は何を言っているのか分からず、唖然とした。
師匠は受話器を口に戻して続ける。
「どうやって知ったの。へえ、あるルートねえ。あんなこと言っといて、気にはしてたんじゃないの、あの後どうなったか」
そうしてまた僕の方を見て言った。
「とにかく、すぐに事務所を出ろってよ」
また受話器に耳を押し付ける。
「え? 服部? 服部もいるよ。ああ。分かった。言っとくよ。分かった。分かった。すぐ帰るってば。はいはい」
師匠は電話を切ると、僕と服部さんに向かって言った。
「田村は何故か逃げ切ったらしい。
 今も石田組の連中が傘下の団体も使って捜索中だってよ。
 ここにもまたやつらが押しかけて来るかも知れないから、早く帰れってさ。
 あと、服部も今日はもういいから帰れって」
それを訊いた瞬間、服部さんのワープロのキーを叩く手が止まった。
驚いて、というよりも、ちょうどそこで最後の文字を打ち終わった、というような自然さだった。
そして無言で机の上を片付け、一言も発せずに事務所を出て行った。
僕は心臓がドキドキしているのを自分で胸に手をあてて確かめた。
これは恐怖なのか、それとも別の何かなのか。いや、恐怖に違いなかった。
「僕らも帰りましょう」
「ああ」
しかし師匠は動こうとしなかった。何か考えている風であった。
「ここは危ないですよ。早く出ましょう」
「ちょっと用事がある。先に帰れ」
僕の目を見ようともせずにそう言う。 

どう考えても、師匠の言う用事はいま迫り来る危機と関係がありそうだった。
いったい何を考えているんだこの人は。
僕は彷徨いそうになる視線をなんとか修正しながら、ようやく口を開いた。
「じゃあ、僕も帰りません」
「勝手にしろ」
それからの僕は、生きた心地がしない、という状態だった。
デスクに並んで座り、ただ正面を見て、これから起こり得ることを想像しては身震いする、ということを繰り返していた。
当の師匠は思案げではあったが、態度はいたって平然としていて、
服部さんのワープロの電源が入ったままなのに気づいて、
「ニンジャのやつ、切り忘れてやがるぞ。動揺してる、動揺してる」と笑いながら電源を落とし、
またその後考え込む、などということをしていた。

ビルの下の方で聞き覚えのある重低音が止まり、その後階段を上る複数の足音が聞えて来たのは、
それから一時間ほど経ってからだった。
どうせ来るなら、もっと早く来て欲しかった。
イメージトレーニングをしすぎて疲れ果てていた僕は、その時すでにそんな心境だった。
ノックもなしにドアが開き、昨日の歯抜け茶髪が現れた。
その後に続いて入って来たのは、若頭補佐の松浦と、昨日は見なかった別の若い衆だけだった。
三人か。
僕のシミュレーションでは、昨日より数が減っていたら危険度は下がる方向にあるはずだった。
そしてまた松浦がいた場合、危険度は上がる方向にあるはずだ。
プラスマイナスでゼロ。現時点では昨日と大差ない状態と判断した。
三人のヤクザはジロジロと室内を見回し、そして松浦の合図で残る二人が昨日と同じように事務所の中の捜索を始めた。
「所長は」
松浦の問い掛けに、師匠はちゃかしたような口調で答えた。
「いるよ。仕事してる」
「どこでだ」
「ここだよ。すぐ目の前にいる。
 あの人、めちゃくちゃ仕事速いからな。常人には目で追えない。休憩に入ったら見えるようになるよ」
「コラ、おんなあ!」
五分刈りの若い衆が凄い声を出した。茶髪よりよほど凄みがある。僕は飛び上がりそうになった。

松浦がさすがに不快そうな表情を見せたが、それでも若い衆を止めた。
それを見て、師匠は指で壁のホワイトボードを示す。
「そう言えば書いてあったな」
田村を匿うために身を隠したのかと詮索してきてもおかしくない場面だったはずだが、
松浦の記憶力が無駄なやり取りを省かせた。
「田村は捕まえたんだろう。ここにはもう用はないはずだ」
師匠が淡々と、昨日と同じ口の利き方で喋っても、松浦は怒り出しはしなかった。
次に会う日までに目上の人間と話す時の作法を身に着けろ、と言いはしたが、
その日を昨日の今日にしたのは自分の方なのだ。
怒る筋合いもなかったが、そんな筋など破るのが彼らの稼業のはずだった。
松浦が何を考えているのか全く読めない。
「アニキ、居やせんぜ」
大の大人が隠れられるはずもない台所の流しの下の扉まで開けて、若い衆たちはそう報告した。
「わかった。お前らは下で待ってろ」
松浦の指示に驚いた顔を見せた彼らは、「え、でも」と言い掛けたが、
「下で待て」という再度の指示に逆らうほどの度胸はなかったようで、すぐに二人とも事務所から出て行った。
僕はシミュレーションにはなかった展開に戸惑い、棒立ちになっていた。
師匠は僕が朝見たときと全く同じ格好で、デスクに肘をついたままだ。いったいどんなクソ度胸なのか。
松浦はソファを自分で好きな位置に移動させ、腰掛けた。
ダブルのスーツに白いシャツ。本皮の靴に、黒縁眼鏡。
昨日と同じ格好だ。だが、よく見ると眼鏡以外のすべてが似た別のブランドのものだった。
その男が指を組みながら口を開く。
「田村は逃げた。手違いがありましてね」
「おたくのトコは勘違いやら手違いが多いな」
「減らず口はもういい。
 お嬢さん。あなたが私を怖がっていることは分かっている。
 私もあなたが少し怖い。それでいいでしょう」
そこで師匠は初めて意外だという表情を見せ、姿勢を正した。
「わたしになにが訊きたいんだ」
松浦はそこでちょっと口ごもった。簡単には説明できそうにないことが悔しそうだった。

僕はその二人のやりとりをぼうっと見ていることしかできなかった。まるで師匠と松浦の二人しかいない空間のようだった。
「ちょっと調べさせましたよ。あなたのことを。
 興信所の同業者たちはほぼ異口同音に、インチキの類だと言っているようですが、
 依頼をしたことがある、という人は揃って本物だと言っています。
 ここから分かることは、少なくともあなたには、心霊現象がらみの事件を解決する能力がある、ということです。
 たとえインチキにせよ、ね」
松浦は前置きから始めることを選んだ。
長い話になりそうだった。しかし煙草を懐から取り出そうとはしなかった。元々吸わないのかも知れない。
ただ黙って言葉を選びながら続けた。
「田村は逃げたまま、まだ見つかりません。
 金、酒、女……目ぼしいところはあたっていますが、現在の居場所にまで辿れていない。
 あるいはもう県外まで逃げおおせているのかも知れない。
 さらに最悪なのは、我々と、そして角南一族とも敵対する組織の懐に逃げ込んだ可能性。
 そうなれば我々は手を引かざるを得ない。
 後は角南一族が食われるのを、指を咥えて見ていることしかできなくなる」
「東の、四角いやつらか」
師匠が際どいジェスチャーを見せると、松浦は否定しなかった。
「しかし、昨日少し言いかけましたが、どうも田村の持ってきた『毒』の方におかしなところがあるんですよ。
 その『毒』が巧妙に作られた偽物だとすると、
 老人にとって、そして現在の角南一族にとって、致命的なスキャンダルにはなりえない。
 彼が今も所持して逃亡を続けている『毒』に価値がないということになれば、
 我々としても、彼を探すモチベーションを失うということです」
「毒の現物もなしに、わたしに毒の鑑定をしろと?」
「いや、その複製があります。だが、粗悪なもので本物ほどの価値はない。
 が、ともあれ、それが本物であればどういう致命的な猛毒を持つか、推測するには十分なものです。
 ただ私が知りたいのは、その『毒』に混ざった不純物の正体です」
「毒だの不純物だの、抽象的過ぎてさっぱり分からない」
「それが具体的になれば、あなたはもう逃げられない」
松浦の静かな言葉の中に、氷のひと欠片が混ぜられた。喉元に至れば命に届く鋭利な氷片が。
師匠は松浦の目を見て言った。

「どうせ逃がす気なんてないんだろう。いいよ。
 その物騒な『毒』とやらが、不純物次第であっという間に地球に優しい物質になるって話だろ。
 ただ、わたしなんかの鑑定にそれが期待できるのかな」
「それは私にも分からない。しかし少なくとも、あなたの専門分野のはずだ」
松浦はスーツの内ポケットに手をやる。しかし師匠が鋭く言葉を被せる。
「ちょっと待て。これは小川調査事務所への依頼か。それともお願いか。脅しか」
松浦は口の端を少し上げる。
「依頼、という答えを希望されているようなので、そう答えましょう。
 ここの規定の料金がいくらか知らないが、報酬はその五倍出します。それと、あなた個人へさらにその倍を」
師匠はそのタイミングに相応しい口笛を吹いた。どれほど緊張していても、吹くべき時に吹ける人は本当に器用なのだろう。
「でもそれ、わたしの鑑定とやらの内容次第じゃ、もらえないどころか……って話だよね」
松浦はそれには何も答えなかった。
「金は要らない。わたしはヤクザが嫌いだ。その金に頭を押さえつけられたら、わたしはわたしを許せない」
師匠はあっさりとそう言った。
松浦の青白い顔から表情が消える。
「断ると?」
心から、人の命を、なんとも思っていない。そういう声だった。
僕の心臓は嫌な音を立てている。
「オバケは好きだ。怪談話を、聞こうじゃないか」
あっけらかんとした口調だったが、その端に極限までの緊張の欠片が覗いていた。
不器用な女だ。ぽつりと、松浦の口元に表情が戻った。
懐に入りかけて止まっていた手が、ようやくその本懐を遂げ、一枚の紙切れを取り出した。
受け取った師匠はそれを面白くもなさそうに眺める。僕もその側に寄って、手元を覗き込む。
写真だった。いや、写真をコピーしたものか。
味気ない白黒の紙に、十人あまりの人間が写っている。

畳敷きの和室に着物姿の男が座っていて、その回りを囲むように軍服を着た男たちが正座をして背筋を伸ばしている。
軍服たちは誰もみな若い。揃って微笑みの一つも浮かべず、ただ何か強い意思を秘めたような瞳をしている。
数えると軍服たちはちょうど十人いた。
着物姿の男と合わせると、十一人が和室の上座側の壁を背にしてこちらを向いている構図だった。
背後の壁には鳥が飛んでいる掛け軸が見える。
古い写真だ。白黒コピーの前も、元からカラーではなかったことが推測できる。
戦時中に撮られたものだろうか。
師匠は怪訝な顔で、その写真の中ほどを見つめている。
着物姿の男がいるあたりだ。いや、正確にはその男の顔のあたりを見ている。
顔を見ている、と断言できないのは、その着物姿の男の顔は大きく歪んで黒く潰れたような画質になっているためだった。
体つきや服装で、男であること、そして周囲の軍服たちほど若くはないことも明らかだったが、
どんな顔をしているのか全く分からなかった。
「その顔は違う。ただの複写ミスです。そんなことは分かっている。そんなことで霊能者を頼ろうとは思わない」
その顔のことではない。松浦はもう一度そう言った。
表情は変わらないが、まるで照れを隠しているように思えて、僕は少しこのヤクザに親近感を持った。
もう一度良く見ると、画像の歪みは着物姿の男の顔だけではなく、写真の中央のライン全体に渡って発生していた。
「順序だてて説明する必要があります。
 田村がこの複写の原本である写真をもたらしたのは昨日の朝。ある弁護士事務所のオフィスに持参してきたのです。
 その弁護士は我々の顧問を引き受けてくれている人物なのですが、田村はそれを知っていて、
 我々との交渉の端緒として、その弁護士事務所を選んだということです。
 確かにこんなもの……」
松浦はコピーを蔑んだような眼で見ながら、ふんと笑った。
「我々に見せたところで、その価値に気づくはずがない。特に若い衆などはね。田村は賢明でしたよ。
 弁護士先生はその手の話のマニアでね。
 アポイントもなしに訪ねて来た男の与太話から、ことの重要性を見抜いてすぐ私に連絡をくれました。
 『不発弾が出てきた』と。『それも核爆弾のだ』とも言ってましたっけ」
松浦はスーツの胸の内ポケットに手を入れ、一冊の本を取り出した。 

文庫本だ。ページのところどころに付箋がついている。
『消えた大逆事件』
そんなタイトルが表紙に見える。
「この本はその弁護士先生に教えてもらったんですがね。なかなか興味深いものでした。
 大逆事件、というものを聞いたことがありますか」
大逆事件か。日本史で習ったことがあるような気がするが、はっきりとは覚えていなかった。
「天皇や皇太子など、皇族に危害を加えようとすることです。戦前の刑法では大逆罪として極刑に値する罪とされています。
 現人神であった天皇陛下にそんな恐れ多いことをするなんて、当時としては今よりも遥かに重い大罪ですよ。
 その大逆事件としては、主に四つの事件が知られているようです。
 1910年の、社会主義者らによる明治天皇暗殺計画。1923年の、社会主義者・難波大助の起こした皇太子狙撃事件。
 1925年の、朝鮮人アナーキスト・朴烈とその愛人、文子が計画したとされる大正天皇襲撃計画。
 そして1932年の、抗日武装組織の闘士、李奉昌による昭和天皇襲撃事件」
松浦は親指から四本の指を順に折り、最後に残った小指を立てたまま続ける。
「いずれも失敗に終わっていますが、社会に与えた衝撃は非常に大きいものでした。
 内閣の責任問題となり、総辞職に至ったものもありますし、
 また一番有名な1910年のいわゆる幸徳事件では、幸徳秋水ら社会主義者の徹底弾圧にもつながりました。
 実際は、視察にやって来た皇族に危害を加えようとして、取り押さえられるような、
 突発的ケースなど、もっとあったはずです。
 しかし大逆事件として裁かれるのは、その行動に相応しい禍々しい背景と、高度に政治的な判断があってこそです。
 『ヤマザキ、天皇を撃て』の奥崎何某のように、
 ただ目立ちたいがためにパチンコで天皇を狙撃するなどの、しようもない事件は、
 たとえ大逆罪がまだ存在したころに起こったとしても、その適用はなかったでしょう。
 本来の大逆事件とは、社会主義者、無政府主義者の台頭、そして朝鮮独立運動の激化といった反政府的な背景があり、
 それに対して断固たる対処をするという、意思表示の場でもあったのです」
松浦は文庫本のページを捲りながら淡々と喋っている。
だが、その眼は洞穴のようにひっそりと静まり返っていて、文字など追っていないように見えた。 

ただ、書かれている内容をなぞっているだけだ、というポーズのためだけに本を開いているような。そんな印象を受けた。
だとしたら、松浦は本の内容を記憶しているということだ。
ただでさえ暴力の世界に身を置いている人間という非日常的な存在だというのに、
さらにそこからもはみ出している異質さを感じて、僕は得体の知れないものを見る思いがした。
また一枚、ページが捲られる。
「ところが、です。
 政治背景のない衝動的な安っぽい暴挙ではなく、重要な意味を持つ計画的な策謀だったというのに、
 大逆事件として歴史に残っていない、一つの不可解な出来事がありました。
 昭和14年の夏のことです。
 昭和12年に起こった盧溝橋事件から、泥沼の日中戦争に突き進みつつあった当時の日本は、
 ソ連、アメリカとも衝突は不可避の状況にありながらも、未だ真珠湾攻撃には至らず、
 また欧州では、世界を二分する最悪の大戦争、第二次世界大戦の前夜という際どい時期にありました。
 そんな折、北関東で行われる観兵式のためにお召し列車が出ることになり、
 警察の警護の元、天皇陛下のご一行が皇居を出立し、東京駅へ向かっているその途上で事件は起こりました。
 銃器で武装された集団により、鹵簿(ろぼ)が襲撃されたのです。
 わずか十名程度のその武装集団の動きは非常に統制されており、
 警護の警察の部隊と陛下ご搭乗の自動車を分断することに成功したそうです。
 しかし、陛下の車に銃弾が届く前に、陸軍の近衛歩兵連隊所属の部隊が駆けつけ、
 すんでのところで武装集団は鎮圧されました。
 未遂に終わったにせよ、本来であれば大事件です。
 大逆事件として法の裁きを受けるのみならず、その行動の背景にある不穏なもろもろのものを巻き込んで、
 大粛清の嵐が吹き荒れるほどの出来事だったはずなのですが…… 
 問題はその武装集団が、現役の軍人、それもすべて陸軍の若き将校ばかりで構成されていたという事実にありました。
 天皇の統帥権の下に存在するはずの、帝国陸軍の将校が、その天皇の命を狙ったのです。
 このとてつもないスキャンダルは、白昼の事件にも関わらず、即座に闇に葬られることとなりました。
 対中戦争のみならず、全方位戦争へと突き進みつつあった当時の大日本帝国において、
 この大逆事件と、それを生んだ背景など存在してはならないものだったのです。
 これが仮に、陸軍と海軍の軋轢から生まれた事件だったならば、
 陸軍がいかに揉み消そうとしても成功しなかったでしょう。
 しかし、この事件には、陸軍も海軍も、そして政界や財界に至るまで、既存のいかなる勢力も関与していませんでした。
 それゆえに、この暴挙は正式な裁判に掛けられることもなく、
 徹底した緘口令の元、秘密裏に処理されることとなったのです」

松浦が、一本だけ残っていた小指をゆっくりと折った。
隠された五つ目の大逆事件、という意味なのだろう。
「いくら戦時中とはいえ、実際に武装衝突を伴ったそんな大事件を揉み消せるものなのか」
師匠が至極当然の疑問を口にする。
「もちろん、不可能です。どれほどの人間が『処分』されたのかは、はっきりしませんが、
 軍が血道を上げたところで、遅かれ早かれそれを語る人間が出てきます。
 戦後になってから、その事件の研究が成され、こうして本にもなっているのですから」
松浦は手にした文庫本の表紙をもう一度こちらに向けた。
「しかし、その陸軍の将校たちは、何故そんな襲撃事件を起こしたのか、
 捕縛された後の尋問にも、一切口を割らなかったとされています。
 そしてそのまま全員が処刑されている。
 彼らの動機については、後世の研究においても判然としていないようです。
 一般的には、社会主義運動の影響下にあったとされているようですが、
 加担した将校たち個々人の人となりを掘り進めて行くにつけ、そうした影が全く見えてこないのです。
 というよりも、まったく何一つ、彼らが天皇を襲撃・殺害するような理由など、ないはずなのです。
 この本をまとめた作者は、昭和14年、つまり1939年に起きたこの事件を、
 それに遡ること三年前、1936年に起きた二・二六事件と対比させて語っているのですがね。
 陸軍皇道派の青年将校が起こした、君側の奸たる中央幕僚を除かんとするクーデターだった二・二六に対して、
 1939年の大逆事件は明白な思想的背景がない。
 このことを著者は、『北一輝がいない』と表現しています」
「北一輝……」

師匠はその名前を呟き、なにか察したような顔をした。松浦も少しだけ眉を上げる。
「そうです。『怪物』、『隻眼の魔王』などと称された、社会主義者にして国家主義者。そして宗教家。
 著作『日本改造法案大綱』は、そのころ高度国防国家を目指す陸軍統制派と反目し、
 財閥資本と癒着する政治腐敗を看過できない、皇道派青年将校たちの鬱屈したフラストレーションを、
 クーデターへと駆り立てたと言われています。
 つまり、二・二六の理論的な首謀者、思想的背景と言える人物であり、
 クーデターが昭和天皇により賊軍と見なされたがために、成就することなく鎮圧された後、
 それに連座する形で死刑を賜っています」
松浦は頁に目を落としたまま、その視線を全く動かすことなく淡々と語った。
「それに対し、この消された大逆事件のリーダーと目された人物は、実行犯でもある岩川雅臣という陸軍大尉で、
 近衛歩兵第四連隊旗下の中隊長でした。
 事件当時三十歳。
 取り立てて思想的な偏りをもたず、連帯して取調べを受けた上司である佐官たちも、
 『なぜこの男が』と困惑するばかりだったそうです。
 そして他のメンバーもすべて三十歳前後の陸軍尉官ばかりでしたが、
 大隊や連隊を同じくするものはほとんどおらず、彼らがどのようにつながりをもっていたのかも判然としません。
 この事実は、陸軍内でもある種の戦慄を持って迎えられました。
 今上天皇を襲撃するという大罪を犯すのに、彼らの思考は、脳の中は、あまりに空虚だったのです。
 群れた青年将校が、理由なく大逆事件を起こす……そんなことは二重の意味であってはならないことでした。
 だからこそ彼らは、歴史の闇の中に葬られたのです」
しかし。そう言いながら松浦は本を閉じ、師匠の持つ写真のコピーに目をやる。
「田村がもたらしたその写真に写る、軍服姿の男たちは、
 岩川以下、ほぼすべて消された大逆事件に連座した将校、つまり実行犯たちです。
 この本にも出ていますが、一人ひとりは、当時の様々な資料から顔写真が判明しています。
 しかし隊も違う彼らが一同に会した、このような写真は今まで世に現れていませんでした。
 恐るべき青春の肖像と言えるでしょう。そしてここにいる、人物」
松浦は身を乗り出し、写真の中心部を指さした。 

「彼ら青年将校たちをまるで付き従えるように中央に座り、腕を組むこの和装の男こそ、
 この事件をめぐる、後世のどの研究にも出てこない影の首謀者。
 いないと言われた『北一輝』に他なりません」
偶然……なはずはない。
事件を起こした所属の違う青年将校たちが、こうして一室に集まって写真に写っているのだ。
そこに居合わせた人物が無関係なはずはない。
間違いなく、彼らを扇動した男なのだろう。昭和史に欠け落ちたピースだ。
僕は予想外に大きく、そしてヤバさを増した話に、緊張で手のひらがじわりと汗ばむのを感じた。
話の流れから、もうその和服姿の男が誰なのか分かってしまったからだ。
「それが『老人』か」と師匠がぼそりと言うと、松浦が「角南大悟です」と後を受けた。
「この青年将校たちの着る軍服は、昭和13年制式と呼ばれるものだそうです。
 そのことから昭和13年、つまり1938年から、事件が起きた1939年までの間に、
 撮影されたものだということが推測できます。
 軍とは無関係の名家の出でありながら、陸軍士官学校に進学し、狭き門である陸軍大学校にも合格。
 卒業の際には、わずか成績上位六名のみに与えられるという、恩賜の軍刀を授受した角南大悟は、
 陸軍大佐にまで昇進した後、胸を病み、予備役として一線を退きます。
 そしてこの1938年から39年のこの時期、
 彼は五十代後半で、座間にあった陸軍士官学校の教官の任についていました。
 正確には1928年から教官の職にありました。
 主に、戦地における地形に関する課目を受け持っていたようです。
 重要なのは、この青年将校たちが、全員陸軍士官学校の卒業生であり、
 時期的にも、教官・角南大悟の教えを受けていたであろうという事実です。
 もっとも、陸軍の幹部候補生は、すべからく陸軍士官学校を出ているものであり、
 ただ陸軍士官学校生だったというだけで、実行犯である彼ら青年将校らを結びつけるヒントにはならないはずでした。
 ただ、元教官である角南大悟と彼らとが、
 大逆事件の年かその前年に、こうして一緒に写っているこのような写真が出てくると、話は全く変わってきます。
 もし仮に、陸軍士官学校時代に、岩川たちが角南大悟の教えを受け、その信奉者となり、
 卒業後もその助言・讒言に従うがままに、今上天皇陛下を弑逆しようとしたならば、
 実行犯でなくとも当然に連座し、思想的首謀者として死罪に値します。
 刑法から大逆罪が消え去った現代においても、その罪はとてつもなく重い。
 敗戦を経てなお、天皇という王を国民の上にいただくこの国においては、ね」

「確かにスキャンダルだな。選挙どころの話じゃない」
師匠はぼそりと言った。
「これが公になれば、事件当時二十歳と十八歳であり、すでに成人していた息子の角南総一郎と盛高の二人にも、
 世間の非難の矛先は向かうでしょう。
 この写真一枚で、角南一族の命運は大きく変わることになります」
ですが、と松浦は声を落とした。
「この写真をどのようにしてか手に入れた田村は、我々の顧問弁護士の事務所に現れ、取り引きの仲介を依頼します。
 単に金が欲しいのであれば、角南家を強請ればいいはずです。
 誘拐事件の身代金どころではない、とてつもない金額が積まれることでしょう。
 しかしそうしなかったのは、
 この歴史の闇に葬られた真実を白日の下に晒したい、というルポライターとしての彼なりの想いがあったのかも知れない。
 そして角南家と敵対している、と彼が思い込んでいた我々の元へとやってくるのです。
 弁護士は冷静に状況を判断し、私に連絡をします。
 私はすぐに近くにいた若い衆を向かわせました。
 その写真の公表を条件に、あとは幾らで譲り渡すか、その腹の読み合いをしていた、いや、しているつもりだった田村は、
 現れた若い衆を見て、自分の読み違いを悟ります。
 つまり、我々もその写真を握りつぶす腹だということをね。
 田村は抵抗しましたが取り押さえられ、それを尻目に弁護士は事務所にあったコピー機で写真の複写をとろうとします。
 しかしその複写が完了する前に、一瞬の隙をついて田村が若い衆を振りほどき、
 弁護士を突き飛ばして写真を奪い返します。
 そして逃走したのです」
松浦は指を交互に組んで淡々と語る。
「若い衆ともみ合いになった時に、腹を怪我していた田村ですが、逃げ込んだこちらの事務所で応急処置をされ、
 その後も逃走したまま捕まらないでいます」
余計なことを、とも言わず、ただ事実として語っているような口調だった。
「我々の元に残された、この失敗した複写。肝心の『老人』、角南大悟の顔が黒く潰れて写っていないのです。
 これでは、毒としての価値は極めて弱いものとなります。
 早急に、本物を持って逃走を続けている田村を押さえる必要があるのです」 

「ちょっと待て、田村を押さえる必要があるのは、本物のスキャンダル写真を公表されたくないからだろう。
 なんで、すでに手中にあって握りつぶせるコピーの方の毒性が関係あるんだ。
 まるでそれじゃあ……お前らも、角南家を強請ろうとしているみたいじゃないか」
師匠の問い掛けに、松浦は顔色一つ変えず、なにも答えなかった。
ただ「説明を続けます」とだけ言って、失敗した写真のコピーに目をやった。
「この写真ですが、直接本物を見た弁護士先生の弁では、
 この中央の和装の人物は、間違いなく初老のころの『老人』だったそうです。
 弁護士先生は、まだ『老人』が存命だったころの角南家とも仕事上での付き合いがあった人なので、
 まあ信用していいでしょう。
 またそれだけではなく、我々も裏を取るために、
 角南家につながりのある人間に、この複写の来歴そして人物たちを隠して見せたところ、
 『老人』が陸軍士官学校での教官時代に住んでいた、横浜の別邸の一室で撮られたものに間違いないと証言しました。
 今でもその角南家の別宅は現存しており、この後ろの壁に掛かっている、『寒中飛鳥図』の掛け軸もあるそうです。
 『老人』は本物。大逆事件の実行犯たちも本物。撮影された屋敷も本物。
 なのに、この写真には、不純物とも言える、おかしなところがたった一つだけあるのです」
昨日から言っていた、おかしなところ、か。
一体なんのことか分からないが、松浦が師匠に依頼をしようというのは、
その不純物とやらが、師匠の得意分野、つまり心霊現象がらみのものだからなのだろうというのは想像がついた。
僕は緊張して唾を飲み込んだ。
松浦が口を開く。
「この軍服の襟を見てください。みな階級章をつけています。
 そのすべてに五本の縞が見えますが、これが尉官を表すものです。
 そして中の星の数でさらに階級が分かれます。
 星がなければ准尉、星一つで少尉、二つで中尉、三つで大尉という具合です。
 ここに写っている彼らのものは、すべて二つか三つ。中尉か大尉ということです。
 十人のうち、星三つなのは三人。
 まず、写真に向かって老人の右隣にいる岩川雅臣、そして左隣にいる早田二郎、最後が一番左の隅にいる正岡哲夫。
 残り七人は中尉ということになります。
 先ほど、この写真の男たちは、岩川以下、ほぼすべて消された大逆事件に連座した将校、
 つまり実行犯たちだと説明しましたが、
 たった一人、実行犯ではないものがいます。
 それが、左の隅にいる正岡哲夫大尉です。
 彼の名は、事件後の尋問中、複数のメンバーの口から漏れています。
 『正岡さえいれば』
 口々にそう言っていたそうです。
 そのために、メンバーの中の中心人物の一人として認識され、この研究本の中でも顔写真つきで紹介されています。
 本来であれば、岩川に成り代わって、リーダーの任についていてもおかしくなかったその正岡ですが、
 なぜか実行犯には加わっていません。
 なぜか分かりますか。
 それは、彼がその事件当時、すでに死亡していたからです」

ぞくん、と肩になにか触れたような感覚があった。
僕は思わず身を震わせる。
「演習中に、誤って腹部に銃弾を受け、治療の甲斐なくそのまま亡くなったということらしいのですが、
 問題はその死亡時期です。
 1938年の6月に死亡しているのです。
 その時、正岡は二十九歳。一際優秀だった彼は二十八歳の時からすでに大尉でした。
 しかし、残るメンバーのうち、岩川と早田が大尉に昇進したのは1938年8月、二十九歳の時です」
それを聞いて、師匠が頷いている。そういうことか。そう言いたげな仕草だった。
「つまり、岩川と早田が大尉の階級章をつけているこの写真からは、
 撮られた時期が、1938年8月から事件を起こすまでの間だということが分かるのですが、
 問題は、1938年8月の時点で、正岡がすでに死亡しているということなのです」
僕はコピーされた写真をもう一度覗き込む。
左の隅に遠慮がちに座る男。眉が薄く、どこか子どもっぽさの残る顔立ちをしている。
正面を見据えながら、無表情に口を引き結んでいるその男が、
その写真を撮られる二ヶ月以上前にすでに死亡していた……
そのことが持つ意味が分からない僕ではなかった。
「心、霊、写、真?」
思った以上に間抜けな声が出てしまった。
師匠が僕を睨みつける。
しかしそういうことなのだろう。
軍隊という究極の上下関係組織に身を置くのだから、
こういう写真一つ撮るのにも、その座るポジションには決まりごとがある。
中央にいるほど、そして前列にいるほど目上の人間だということだ。 

『老人』が中央なのは当然として、その左右につくのが大尉である岩川と早田。ここまでは分かる。
しかし彼ら二人よりも早く大尉に昇進し、メンバーの精神的支柱でもあった正岡哲夫が、
こんな左の隅に座っているなんてありえないことだった。
彼が、その場に本当にいたのならば。
「この左隅の人物は、本当にその正岡哲夫なのか」
「少なくとも、資料に残る正岡大尉の写真に極めて似ています」
松浦は研究本の頁を開いてこちらに見せた。
そこに出ている正岡の顔は、確かに目の前の写真の人物と瓜二つだった。
「仲間だったという証言があり、現にこれだけ似ているのです。正岡大尉ではなく、別人である可能性は低いでしょう」
師匠は小さく唸った。そして「その、正岡の死亡時期と、岩川たちの大尉昇進時期の信憑性は?」と、さらに確認する。
「弁護士先生がその齟齬に気づきましてね、それが事実ならばこの写真の持つ意味が根底から崩れてしまう。
 最優先で裏を取りましたよ。
 いずれも軍の記録にはっきりと残っています。
 結論として、正岡の死亡は38年6月。岩川、早田の大尉昇進は、同年8月で間違いありません」
「だったらこいつは」と言いながら、師匠は写真の顔のあたりを小突いた。
「その幽霊ってわけかい」
「それを調べるのが、私の依頼する、あなたの仕事です」
心霊写真の鑑定をしろというのか。
これほど大変な事件に関わることに、そんな胡散臭いことを絡めていいのか、という至極当然の思いが湧いた。
しかし、死んでいて、もういないはずの男が写っているなんていう怪しい写真が、
この歴史的スキャンダルの唯一の証拠写真だなんて、その噛み合わない感じがおかしくて僕は落ちつかなかった。
松浦と師匠は、お互いの視線を正面から受け止めあい、
しばらくその瞳の奥のものを読み解こうとするかのようにじっと動かないでいた。
やがて師匠は力を抜いたように笑い、
「ま、いいけど。ちょっと時間が欲しい」
「どのくらい」
「二日」
「だめだ」
師匠は松浦を睨む。
「じゃあ明日にはなんとか」
「だめだ」

松浦がそう言い切った後、三十秒ほどの沈黙ののちに、師匠が「今夜中に」と言った。
松浦は「いいでしょう」と頷き、
「それは複写の複写です。今夜まで預けますが、余計なことを考えると、ためにはならないことを申し添えておきます」
と、ごくあたりまえの口調で付け加えた。
しかし、その言葉は、彼の使う若い衆などの脅し言葉などよりよほど真に迫る危険さを秘めていた。
「ああ、それと」
立ち上がりかけた松浦はもう一度腰を落とし、懐から封筒を取り出した。その中から数枚の写真が出てくる。
「私は、再現可能性というやつを重視するのでね。
 あなたの『鑑定』の説得力も重要ですが、同じことを同じように再現する証明方法も大切なものです。
 この写真、いずれも心霊写真と言われているものですが、それらについても真贋について『鑑定』願いますよ」
松浦が師匠に提示した写真は全部で四枚。
海辺で家族連れが撮ったと思しき記念写真には、立っている男の子の両膝から先が写っていない。
カップルがアイスクリームを手にピースをしている写真には、女性の方の肩に誰のものとも知れない手が乗っかっている。
家の前で取られた写真では、
母親と男の子が写っているその後ろ、家の窓に薄笑いを浮かべている不気味な男が薄っすらと見えている。
飲み会の席での一場面を写したものには、
盛り上がる人々の後ろにもやのようなものが現れ、そのもやがやはり人の顔のように見えた。
「急遽つてを辿ってかき集めたのでね、どれも本物かどうか私にも分かりません。
 しかし、それが撮られた背景はすべて把握しています。適当なことを言ってもバレますよ」
「メインと合わせて全部で五枚か。それで報酬が五倍かよ。偉そうに言ってたわりに、計算どおりじゃないか」
師匠の軽口に松浦も応じる。
「あなたにはさらにその倍を、と言ったはずです。信用できないなら、いま手付け金を」
懐に手を入れかけた松浦を、師匠が制する。
「金は要らないと言ったはずだ。
 わたしの望みは、とっととこの茶番劇が終わって、ヤクザのいない平穏な日常が戻ってくることだけだ」

「俺は、金を要らないという人間は信じない。
 ここまで知った人間をただで解放すると思うか。
 依頼は果たせ。それを果たすことを、金も取らず、どうやって俺に信用させる」
松浦の口調と、その背負う空気が変わった。
返答次第では、ただではすまない。それが分かる。
異様な緊張感の中、師匠がうっそりと口を開いた。
「わたしには、これしかないんだ。そんな人間のプライドを、お前は笑うか?」
とても澄んだ目で、表情で、師匠はそう言ったのだ。
松浦は一瞬、うろたえたような、そんな風に見えた。だが、すぐに無表情に戻り、「いいだろう」と呟いた。
そして名刺を水平に飛ばすようにして投げ、
キャッチした師匠に「今夜九時までに連絡を入れろ」と言い置いて立ち上がった。
そしてドアから出て行く時に、なにか言おうとして立ち止まりこちらを振り向いたあと、
そして結局なにも言わずに向き直ると、そのまま去って行った。
やがて階下にエンジンの重低音が響き、その音もすぐにどこかへ行ってしまった。
僕はようやく深い息を一つついた。
ぐったりと疲れている。ただ聞いていただけなのに。
硬直し、止まっていた空気がようやく流れ出したような気がする。
「なんなんですか!」
僕はそう喚いた。
「消えた大逆事件だのなんだの、わけのわからないことばっかり言って、挙句が心霊写真ですか。
 なんの茶番だって言うんです!」
「まあ落ち着け」
師匠は手にした写真のコピーに目を落としたまま、まだ身動きをしない。
「所長の留守中に、勝手にこんな依頼を引き受けて、どうなっても知りませんよ」
「うるさいな。ちょっと静かにしろ」
「だいたい、これが心霊写真ですか。こんなにはっきり写ってるじゃないですか。これは人間ですよ、普通の。
 それが正岡なんとかだってんなら、死んだ時期か、撮影時期か、どっちかが間違ってるんですよ」
「その可能性が低いから、この写真の信憑性が疑われてるんだ」
「心霊写真だからって言うんですか。
 これは世紀の大スキャンダルを暴く貴重な写真ですが、信憑性に疑問があります。なぜなら心霊写真だからです。
 ってわけですか、馬鹿馬鹿しい。
 いったい信憑性ってなんなんですかね。
 だいたい、あの松浦とかいうヤクザ、
 なんでこんな大それたヤマに、こんなインチキ臭い興信所を巻き込もうとしてるんですか」

「静かにしろ」
師匠は喚き散らす僕に目もくれず、松浦の残していった『心霊写真』だという四枚の写真の方に手を伸ばす。
「あいつは、見えてるよ」
一枚一枚、丁寧に眺めながら師匠はぼそりと言った。
「え?なにがですか」
「霊の話をしてると、寄って来るって話、昨日したろ」
した。確かに、松浦の前で師匠はそう言った。その直後、松浦は師匠と同じように窓の外に顔を向けたのだ。
僕が子どものころならば、『バカが見る、ブタのケツ』とでも言って、その臆病振りを小馬鹿にするところだ。
しかし師匠は驚くようなことを言った。
「あれ、通ってたんだよ。窓の外に」
「は?」
「浮遊霊の類かな。髪がぼさぼさに伸びた、女だか男だか分かんない気持ち悪いのが。
 そういう話に惹かれてだと思うけど、すうっ、とな。だからそう言ったんだけど」
僕は唖然とした。そんなもの、全然気づいていなかった。ただの冗談だとしか。
「あいつは、見えてたよ。わたしが話を振るよりも一瞬早く、そっちに顔を向けてた」
そんな。
しかし妙に符合するものがある。
あの、師匠と松浦が二人して窓の外を見た後、
驚いたような表情で真っ直ぐに向き合って、お互いをしばらく見詰め合っていた。
あの瞬間、口には出さずとも、互いに認め合ったということか。
胸の奥がチクリと痛くなった。
僕には、見えていなかった。
師匠が四枚のL判写真を机の上でトントンと整え、また一枚目から丹念に眺めていく。
幽霊を信じるヤクザ。
それを笑いたい。役に立たない自分の代わりに。
幽霊を信じるなら、人の恨みを買う、そんな家業から足を洗えばいいのに。馬鹿なやつだ。
それを笑いたい。
笑いたかった。
静かに時間が過ぎた。

十分ほど経っただろうか。ふいに事務所の電話が鳴った。
ドキリとした。電話の音はなぜこんなに人を不安にさせるのか。
「はい、小川調査事務所」
師匠が電話に出る。しかし、会話は続かなかった。
「もしもし?もしもーし。小川調査事務所ですが」
師匠は「もしもし」と繰り返している。電話が遠いのだろうか。
僕は思わずそばに近寄って、師匠の持つ受話器に耳をくっつける。
「もしもし?聞えないから、切りますよ。いいですか……」
師匠はそう言ってから、たっぷり十秒待って、口を開いた。
「田村か」
電話の向こうで笑う気配。
「田村だな。どういうつもりだ」
電話を掛けてきたのは田村なのか。松浦が石田組を挙げて捜索しているにも関わらず逃げおおせている張本人の。
「心配しなくても、石田組のやつらはいない。押し掛けて来たけど、もう帰ったよ。
 全く、お前のせいでこっちはいい迷惑だ。どう仕舞いをつけるつもりなんだ」
師匠が田村を非難しながら、空いている方の手で着ているジャケットの内側を探っている。
そしてなにか紙のようなものを取り出した。
「こんなやばいもの、預けやがって」
僕は本当に驚いた。目を疑うというやつだ。
師匠が懐から取り出したのは、写真だった。
それも、色褪せてはいるが、複写される前の、消えた大逆事件のメンバーたちが『老人』を囲む写真。
和服姿の初老の男の顔に、なんの歪みも、汚れもない正真正銘の、現物。
眉間と頬に深い皺の刻まれた厳しい顔が、すべてを見下すようにわずかに顎を上げてみせている。
なぜ。なぜここにオリジナルが。
その言葉しか頭に浮かばなかった。
だが、すぐにその答えも見つかる。
あの時だ。礼も言わずに帰るのか、と師匠が言った後、田村がよろけるようにして肩をぶつけ、去って行ったあの時。
あの一瞬に、田村は隠し持っていた写真を師匠の服のどこかに滑り込ませたのだ。
師匠はそれに気づいていながら、ヤクザたちの尋問にもすっ呆けて押し通していたというのか。
「どうしてなんだよ」
師匠が写真を手にしたまま問い掛ける。その写真の裏側に、鉛筆で走り書きがしてあるのに気づいた。

老人
そう書いてあった。師匠の字ではない。
そうか。また、ふに落ちるものを感じた。
師匠が昨日の松浦との会話の中で、『老人』の名前を出した時、
なぜそれを知っている、と問い詰められ、田村がうわごとでそう言ったと答えたのだが、
僕の記憶している限り、田村は意識を失うことはなかったはずだった。
痛みと疲れで息をするのがやっと、という状態だったが、それでも油断なく周囲に意識を張り巡らせていた。
師匠は『老人』の名を、田村から聞いたのではなく、
写真の裏側に、まるでその写真の主題であるかのように書かれた文字から知ったのだ。
そしてその『老人』とはなんなのか、危険を承知で松浦にカマをかけた。
『…………逃げ切れる自信がなかったからだ』
田村の声だ。
確かに受話器の向こう側にいるのは、昨日小川調査事務所にふらりと現れて、そして去って行ったあの男だった。
『やつらに捕まっても、写真が手元になければ、俺の命を保障する、有効な取引材料になる』
「そのせいでわたしたちを巻き込んだのか」
『……悪いとは思っている。しかし背に腹は代えられない、ってやつでな』
「病院には行ったのか?傷はどうだ」
『気にするな。どうってことはない』
「よく逃げ切れたな。捕まったって聞いたぞ」
『奇跡的にな』
「誰か刺しでもして振り切ったのか」
『本職相手に、そんなこと出来るわけがないだろう』
師匠はそこでなにか少し考えるような間を空けた。そうして確かめるようにゆっくりと問い掛ける。
「あの電話、お前か」
あの電話?
一瞬何のことか分からなかったが、ふいに閃くものがあった。
小川調査事務所に掛かってきた、田村を見つけた、という電話だ。
あの時は、老けた顔のヤクザが電話を取ったのだが、あの電話のおかげで小川調査事務所からマークが外れたのだった。
もしあのままなら、ひょっとすると拷問まがいの本格的な取調べをされ、
師匠がその時持っていた本物の写真も発見されていたかも知れない。

そして結果的に田村は捕まっていない。
そう思うと、あの電話にはなにか作為的なものを感じるのは確かだった。
『…………』
電話口で十秒ほどの沈黙があった。
やがて湿ったような音が聞えてくる。
『何のことか分からないな』
師匠は舌打ちをする。
「まあ、どっちだろうと良いんだがな。なぜわたしが、やつらの脅しに屈してこの写真を渡してしまわないと思ったんだ」
『…………俺と同じ匂いを感じたからだ』
「なんだそれは」
くくく、と電話口で笑う声がする。
『ヤクザが嫌いだろう』
「それだけかよ」
『いや。好奇心、猫を殺す、ってな。お前も、俺も、そういうタイプなのさ』
「近頃は、克己心だって猫を殺すらしいぞ。お前、こんな自分の身に余るネタを握ってどうしようってんだ」
『それは俺の勝手だ』
「あっそ。だったら、この写真、やつらにくれてやりはしないまでも、灰皿の上で火をつけりゃ、あっという間にケムになるぞ。
 どこに隠れてるのか知らないが、お前が走って消しに来たって間に合わない」
見えないだろうに、師匠は所長愛用の灰皿を手元に引き寄せ、ライターの火をつける真似をした。
『そんなことをすれば、近代日本史の闇の一つが、永遠に失われる』
「大袈裟だな。ただの写真だろ。とにかく、どうケリをつけるんだよ」
師匠がそう言うと、相手は黙り込んだ。
僕は唾を飲み込む音を聞かれないように、少し離れた後、また受話器に耳をつける。
『…………駅前にロッカーがある。その……54番に、その写真を……いや……』
そこでまた黙った。
聞き漏らさないように、僕はメモ帳とペンを手探りで手元に引き寄せる。だが田村はそこで会話を止めた。
『また連絡する』
「おい、ちょっと待てよ。おい」 

電話は切れた。
僕と師匠は顔を見合わせる。
「切りやがった。どういうつもりなんだ」
そう文句を垂れる僕の憤りを軽く聞き流しながら、師匠はなにかしたり顔で頷いている。
「びびってるねえ。疑心暗鬼ってやつだな」
「田村がですか」
「そうだよ。さっきは駅のロッカーを使って、写真の受け渡しの指示をしようとしたんだ。
 だけど、それを取りにノコノコ出てきたところを、石田組のやつらに待ち伏せでもされたらイチコロだからな。
 当然わたしなんか信用できなのさ。
 だけど、石田組のやつらが危惧してるみたいに、
 他の石田組と対立してるヤクザどものところへ、逃げ込むことも出来ないでいる。
 結局、疑心暗鬼に陥って、今は誰も信用できず、どこか誰も知らない場所で息を潜めてるんだよ。
 さっきここへ電話して来たのだって、勇気が要っただろうに」
師匠が大袈裟なポーズで哀れんでみせている。
「あの感じじゃあ、しばらくは田村からも連絡はないな」
「どうするんですか」
「決まってるだろう。写真の、謎を解くだけだ」
師匠は全部で五枚の写真をまとめ、松浦が残していった封筒に入れた。

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