鏡のない洗面台

マネージャーが私のところに来て

「稲川さん、どうします?」

明後日の取材ロケなんですけど、先方の都合で撮影の開始が早くなってしまったんですよ。
それで局の方が前乗りしますかと聞いてるんです。
「どうしますか?」と私に言うんです。
この前乗りというのは、撮影の現場が朝早い時には前の晩に現地に入ることを、我々はそう言うんです。

「あー、そっかー、どうしよっかー」と話していると、

「うーん、明日のスタジオのロケですけど、多分夜の11時半を回っちゃいますよ。
 それで朝また出るっていうのはちょっときついですよね」

「うーん、そっかー。
 皆はなんて言ってる?」

「スタッフや皆は当日に東京を出るって言ってます」

「何時頃?」

「それが、朝四時なんです」

「朝四時かー」

「えぇ。ですから11時半を回ってから帰って、朝四時だと、寝る時間無いですよ」

「じゃあ前乗りしようか」

次の日のスタジオの撮りはやっぱり11時半を回ってしまった。
どうにか撮りが終わったんで車に乗って移動を始めた。
マネージャーがハンドルを握り、私は隣で喋っている。
そうしているうちに、いつの間にかウツラウツラと眠ってしまったんです。
フッと目を開けると相変わらずマネージャーが運転をしている。
それでまたこっちは喋るわけだ。
そしてまた寝てしまう。
それを繰り返していた。
そうしているうちに本当に眠りについてしまった。

「着きましたよ」というマネージャーの声でフッと目が覚めた。
見れば辺りは真っ暗なんです。
ところどころに明かりがポツンとあるだけ。
その場所っていうのは伊豆なんですけど、観光地ではないんです。
何だかとっても寂しいんだ。

と、すぐそこに明かりのついた玄関口がある。
そこが我々が泊まる予定のビジネスホテルなんです。
バックを持ってそこに入っていった。
狭いロビーがあって、小さなフロントのカウンターがあって、そこに四十代半ばくらいの男の人が待っていて、ニコニコ笑いながら鍵を渡してくれた。
明日は朝が早いですからね、私達はすぐに別れた。

建物はL字型をしている。
二人共一階なんですが、マネージャーは一方の端、私はもう一方の端なんだ。
鍵を開けてドアを開けると、壁のスイッチを付けた。
と、ふわっと部屋が明るくなる。
その途端に(えっ)と思った。

何だか様子が違うんですよ。
部屋はそこそこ広くて、ベットがあって、テーブルがあって、椅子がある。
引き出しには戸棚が付いている。
壁は柄の壁で、家具はすべてお揃いで、脚が全てカーブしている。
全て白く塗っていて、てっぺんは黄色になっている。
あのロココ調の家具なんです。
天井には小さなシャンデリアがある。
まぁ言い方は悪いですけど、セコいベルサイユ宮殿のような感じなんです。

おかしいなと思ったから、マネージャーの部屋に行って
「あのさ、ちょっと部屋を見せてくれない?」と言った。

「何かあったんですか?」

「うーん、別になんてことはないんだけどさ」

そう言いながら彼の部屋を見ると、普通のビジネスホテルの部屋なんです。

「いやさ、私の部屋ちょっと造りが変わってたから」

「稲川さん、それってVIPルームじゃないですか」

でもビジネスホテルでVIPルームなんて、聴いたことないですよね。
それでまた自分の部屋に戻ったんですよ。

明日は早いからすぐにベットに入ったんだけども、何だか眠れない。
目をつぶるけども何だか息苦しい。
なんというか、空気が薄いんだ。
寝たまま私は荒い息をしている。
と、不意に

ストン

と音がした。
見るとベットの横に引き出しがある。
(今この引き出しが絶対に開いてしまったよな)と思った。
その引き出しをジッと眺めていると、カランカランと音がする。
クローゼットの中でハンガーが鳴っている音なんだ。
勿論ドアも窓も閉まっているのに、ですよ。
風なんか吹いちゃいないんだ。
気持ち悪くなって私は起き上がったんです。
そうしたらビッショリと寝汗をかいている。

(嫌だなぁ、このままじゃ寝れないや。
 一度汗を流して仕切りなおして寝ようかな)

そう思いながらユニットバスに行ったんです。
このユニットバスというのは一メートルくらいの間隔で仕切りの壁があるんです。
普通こんなところに壁は要らないんですがね。
それでその奥、突き当たったところの壁に低い位置に鏡があって、洗面台があって、そうして紫色のカウンターがあって椅子がおいてある。

(あー、きっとここで女の人が化粧をしたりするんだろうな)

と思ったんですが、そして私はユニットバスのドアノブを掴んだんですが、
仕切りの壁が後ろにあるものですから、手前に引くドアではなく、奥に入れる形のドアなんです。
そして私はドアを開けて、中の明かりのスイッチを入れた。
と、目の前には洗面台があって、トイレがあって、そして向こうに浴槽がある。
浴槽に行って生ぬるいシャワーで体を洗い流して、バスタオルで体を拭いて、そのタオルを腰に巻いて、洗面台の前に来たわけだ。
水を出してうがいをして、そしてフッと顔を上げた。
その途端、(あらっ)と思った。
洗面台に、有るはずの鏡が無いんです。

(えっ、ここ鏡無いの?
 じゃあ明日ヒゲを剃るのはあっちの低い方の洗面台なのか?)

そう思いながら眺めていると、壁に穴が四つある。

(なんだ、鏡は初めは有ったんじゃないか。
 きっと割れたか何かして、そのままになっているんだな。
 直しておけばいいものを、随分いい加減だな)

でもそれとなく見ていたら、そうではないんです。
穴が全て埋めてあるんです。

(何でこんなに埋めているんだろう)

そう思っていると後ろで

カチャッ

と音がした。
それで

キィーーーーーーーー

と、独りでにドアが開いてきて、背中の背骨のあたりにドアが当たったので、背中で押し返してやった。
扉は閉まった。
それで今度は私、歯を磨いたんです。
歯を磨いて、うがいをしていた。
と、また後ろで

カチャッ

と音がした。
そしてまたドアが開いてきた。
そしてまた私の背中に当たったんだ。
また押し返してやろうと思って待っていると、その途端に(うっ!)と動きが止まった。

私の背中に当たっているもの、それはドアのヘリではないんです。
人の指なんだ。
人差し指と中指と薬指。
そしてその指がわずかに動いているのが分かるんだ。
もう動けない。
そしてそれがしばらくすると、気配が薄くなって独りでにドアが閉まった。
流石にすぐには私も動けなかった。

少しの間を置いてバンとドアを開けた。
部屋に行くと勿論誰も居ない。
でも眠れなかったなぁ。

朝になって出かけるので、服装を着替えて、そして昨日の鍵を受け取ったフロントまでやってきた。
カウンターの向こうに昨日鍵を渡してくれた四十代半ばの男性がニコニコと笑っていたので鍵を返しながら

「あの、私が昨日泊まったあの部屋というのは、一体どういう部屋なんですか」

「あ、稲川さんのお泊りになられたあの部屋ですか。
 あの部屋はですね、亡くなった先代の女性オーナーがご自分のお部屋として使っていました。
 今は大切なお客様にご利用頂いております」

「洗面台に鏡がありませんよね」

「あ、あの鏡でございますか。
 あれは亡くなった女性オーナーが外させたんです。

(わざわざ鏡を外させた?
 おかしいな・・・)

そう思って考えてみた。

(あぁそうか、そういうことだったのか)

そうなんですよね。
あの洗面台、あそこに鏡があったのならば、キィとドアが開いてきた時にそのドアを開けている相手の正体が分かってしまうわけだ。
だから鏡を外させたんですよね。
ということは、亡くなった女性オーナーはおそらく、そいつの正体をきっと見ているんですよね。

ですよね?

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