NPO

毎年、夏恒例の私のミステリーナイトツアーに弟夫婦がやってきたんです。
その時に弟が

「兄貴、すごい怖いアパートがあるんだけどさ、行ってみるかい」

そこがどういう場所かというと、それは弟が仕事を通して親しくしているNPOの方から聴いた話なんです。

インドネシアのアチェ人、私も初めて耳にしたんですが、その人達が四人日本に来るというので
じゃあ何処に泊まってもらおうかという話になったそうなんです。
NPOなので営利団体ではないのでおいそれと予算が出るわけではないんです。
けれどもこういうことがあった時の為の宿泊場所というのが何箇所かあるんです。

ところが何処も人が入っている。
さぁ弱ったな、どうしたものかなぁという話になった。
と、そこに居た一人が

「どうだろう、あそこの部屋使ってもらったらどうかなぁ」

と言ったんです。
と、皆が

「あそこはまずいよ、あそこはよした方がいいだろう」

と口をそろえて言っている。
あるにはあるんです。
一つ使っていない部屋が。
いや、使っていないんじゃなく、正確に言うと使えないんですよね、そこは。
出るんです。

と、誰かが
「あの人達は日本人じゃないし、そういうところでも大丈夫じゃないかな」
と言った。

それで皆も
「確かに日本人じゃないから大丈夫かもしれないな」
という話になって、この人達にそこに泊まってもらうことになった。

それは閑静な住宅街にあるアパートなんです。
ところが夜中、えらい騒ぎになった。
突然凄まじい叫び声が上がったわけです。
叫び声、うめき声が聞こえてダンダンと音がする。
その音で起きた近所の人たちが何が起こったのかと行ってみた。
そして慌てて通報したわけだ。
NPOの人も行ってみた。

行って驚いた。
そして愕然としたんです。

この四人のアチェ人の人たちが四つん這いになって這いずりまわったり、遠吠えを上げていたり、
また悲鳴を上げていたり、目は恐怖に引きつり、泡を吹いていたりする。
もうその状況は尋常じゃないんです。
それでしばらく時間が経ってようやく落ち着いてきたので、(あぁようやく落ち着いてきた、良かったなぁ)と思っていると
その中の一人が「こんなところには泊まれない」と抗議をしてきた。
それで何があったのかと聞くと、四人が夢中で喋るわけだ。
向こうの言葉ですごい勢いで喋るものですから、何を話しているのか分からない。
どうにか分かったことは、この四人はとんでもなく恐ろしいものに遭遇してしまったということなんです。
それで仕方がないので急遽ホテルに移ってもらったんです。
それでその話をしてくれた弟が、「このアパートはまだ実際にあるんだよ」と教えてくれました。
「このアパートに実際に住んで、そういった体験をしている女性活動家から実際に話を聴けるよ」と私に言ったんです。
それなら行ってみようかなぁという話になったんです。

それでツアーが終わった秋、心霊探訪に出かけたんです。
心霊探訪というのは話の欠片だとか、そういう風な断片的なことを各地に取材に出かけたりするそういうものなんですが、
そのNPOの話も心霊探訪で取材に行こうということになったんです。

この場所というのは東京方面からほぼ真東にあるんですね。
都心から車で一時間くらいで行けると思います。
本当に歴史のある良い寺町なんです。
景色や町並みが江戸の町並みを思い出させる、そんな作りなんです。
それでその町には有名なお寺さんがあるんですが、そのお寺の隣に問題のアパートがあるんです。

それでこのお寺に向かう参道にJRと私鉄が乗り入れている駅があるので、駅前で待ち合わせしようということになった。
その日約束の時間にそこに行きましたよ。
そして(あら?)と思った。
駅前に弟夫婦が居る。
うちの弟夫婦というのは大柄なのですぐに分かった。
それはもちろん待ち合わせをしているのでいいんですが、その周りにたくさんの人が居るんです。

(あら、まさかな)

というのは私毎年心霊探訪というのは自分一人か、場合によっては二人。
何かの時には三人というのもあるんですが、それ以上というのは殆ど無いんです。
まさかなと思いながら行ったら、皆集まっているんですよ、参加者達が。

まず弟夫婦でしょ。
弟の友人のご夫妻。
NPOの方々。
その他知らない人達。
それと私の学生時代からの親友、何故か彼が来ているんだ。

この親友というのは文化放送の裏手でもって、会社を経営している男なんです。
それで夏に弟に会った時に、この話を聴いたらしいんだな。
それでこの日は休みで、奥さんと娘さん達は海外旅行に行ってしまっている。
一人で暇だから来てみたらしいんです。

皆が嬉しそうに笑っているんだ。
それも何だか緊張感が無いんですよ、秋晴れの気持ちのいい日でね。
空は晴れ渡って最高の天気ですよ。

それで私の親友がピンク色のシャツ。
私の弟はオレンジ色のカーディガン。
皆が派手な服を着ていて、やたら目立つんだ。

それでその中の一人にご自身が体験したというNPOの女性活動家で、仮に石野さんとしておきましょうか。
快活な、とても感じの良い女性です。
その方も居ましてね。
それでじゃあ行こうかという話になった。

まず参道をずっと歩いて行くんです。
途中で立派な山門があるんです。
その参道の両側は桜並木で、辺りの紅葉も美しい。
それで石野さんが先頭に立って歩いて行くんですが、参加者が多いものですから全然まとまりがなく歩いているんだ。
土産物を買っている人までいる。
これから恐怖の心霊スポットに行く連中にはとても見えないんだ。

それで皆が

「どうする終わったら?」
「打ち上げは焼き肉にする?」
「駅前に中華料理屋さんもあったよね」

まだ行ってもいないのに皆そんな話をしているんだ。

でも何だかんだ歩いて行ったらそのお寺さんに出たんです。
これはもう立派ですよ。
それで境内を抜けると、そこがちょうど洗面器の底のようになっているんですよ。
そして大きな蓮池があるんです。
一部は埋め立てられて建物も建っているんですけどね。
それで周囲はグルっと囲うようにして高台になっている。
その高台には鬱蒼とした木々がありましてね、その木々に包まれるようにして、旧家というんですかね、大きな木造のお屋敷があるんです。

このお屋敷の持ち主というのはこの辺り一帯の広大な土地を所有している大地主の一族だそうですよ。
このお屋敷のすぐ下に建物がある。
これは精神病院ですが、この病院はその一族が経営しているんです。
それでこの精神病院の裏手、そこにアパートがある。
そのアパートというのが例の問題のアパートなんです。
このアパートもその一族が所有しているんだそうですよ。

池を迂回するようにして坂を上がっていく。
そこは閑静な住宅地なんです。
その坂の途中に例のアパートがある。
道路から少し敷地が奥まっていて、そこに建っているんです。
ごく普通の感じの、ニ階建てのアパートなんです。
外階段がついている。

それで石野さんが一階の右端の部屋がそうだったと言う。
それで私に「ちょっと戻ってもらえますか」と言う。
そして言われた通りに戻った。
坂を下って対岸に回った。
蓮池を挟んで見たんです。
そして(あら?)と思った。
見ると建物は三階建てなんですよ。

ほら、この辺りは高台になっていますからね。
そのアパートは高台に建っているわけだ。
崖の方にね。
面に向かって見えるのは二階建ての普通のアパートなんですが、実はその下にもう一つ地下室があるんです。
これが私一人だったらとぼけて行ってみてね、いけないことなんだけど、勝手に部屋を開けて見ちゃうとかね、
周りの人に話を聞いてしまったりするんですが、何しろ十何人もの人がいて、大声で騒ぐんですよ。

「あれ、あの部屋?」
「あそこ?」
「誰か住んでんのかな? 住んでないのかな?」

その日は休みですから周辺の人達も皆家に居るわけでしょ。
閑静な住宅街に突然大人数がやってきて、大きな声で騒いでいるわけでしょ。
怪しいもんだから皆家の中から様子を見ているんですよ。
これは通報されても困るなぁと思って、一度その場を離れたんです。
それでまた場所を変えて実際にこの家で不可思議な体験をしたNPOの石野さんから話を聴くことが出来たんです。

その話というのはNPOの方から石野さんに「この部屋をどうぞお使いください」と、紹介されたわけだ。
部屋は二階と一階に一つずつある。
そして男性活動家と共にそこに行ったわけだ。
そしてお互いにどちらの部屋を取るかという話になった。
その時に男性活動家は二階を取ったんです。
石野さんは一階の端の部屋を取った。
何故一階の右端の部屋を取ったかと言うと、坂を上がってきて一番近い部屋というのがその部屋なんですよね。
二階の部屋というのは外階段を上がるわけですよ。
そして外通路を通って玄関を開けて中に入るわけだ。
これが通りから丸見えなんです。
石野さんは女性の一人暮らしですからね。
通りから丸見えというのは嫌でその部屋はやめたわけだ。
そしてむしろ一階の一番端の部屋というのは人から干渉されることも少ないだろうと、そういうことだったんです。

NPOから鍵はもうすでに預かっていたので、じゃあということでお互いすぐに部屋に入ったんです。
石野さんは部屋に入って玄関を入ってすぐなんですが、右手が壁になっていて、玄関と同じようなドアがもう一つある。
これは珍しい作りですよね。
普通玄関に入って部屋に入ってドアというんは分かりますよ。
そうじゃなくて、玄関を入ってすぐにドアがあるんです。
これは何だろうと思ったけども、自分の鍵では開かないんです。
もう長いこと鍵が閉まったまま。
開けられることもなく、ずっとこの状況にあったんでしょうね。

確かに玄関に立って外から見た時に一メートルくらい右側に続いているように見えた。
ということはおそらくこのドアの向こうというのは自分には見えない一メートルくらいの間隔があるのでしょう。
この空間というのは一体何があるのだろうと思った。
そう思いながら座敷に上がっていったわけだ。
壁伝いにずっと行った畳の部屋で(あれ?)と思った。

壁の一番下、畳とぶつかるところ、そこに窓がある。
おかしい、普通窓といったら洋間だったら床から一メートルくらいのところに窓がある。
畳でもせいぜい四、五十センチくらいのところに窓がありますよね。
そうじゃないんです。
窓が畳にくっついているんです。
窓のヘリが畳と同じ高さにあるんだ。

(何でこの高さに窓があるんだろう。
 これは一体何に使うんだろう)

そしてこの窓というのは俗にいうハメ殺しというやつで、開かないようになっているんだ。
もちろん外の景色なんて見えないんです。
そして石野さんは窓を覗いてみた。

部屋はまだ昼なので明かりをつけていないんですが、うっすらと日差しが差し込んでいる。
そしてその光がこのガラス窓を照らして中をうっすらと照らしている。
一メートルほどの間隔を開けて、向こうにも壁が見えているんだ。
中を覗こうとするんですが、頭がガラスにくっついて中は見えない。
そして鏡を持っていましたからゴロンと横になって鏡をガラス窓にくっつけて、中を覗いてみた。

微かに日が差し込んでいる。
壁が見えるその下。
薄暗い闇の中なんですが、階段が見えたって言うんです。

(あ、そういうことか。
 そういうことなのか)

玄関を開けて入ったところの直ぐ側のドア、あれを開けると階段があるわけだ。
そして階段を降りていく。
きっと下には何かがあるわけだ。

石野さんは好奇心の旺盛な方ですからすぐにアパートを出て階段を降りて対岸に回ってみた。
蓮池を挟んでアパートをヒョイと見たならば自分の部屋の下にもう一つ部屋があるのがわかった。
崖っぷちに地下室があるんです。
でもその部屋は小さな窓ガラスが一つ見えただけで出入口は見えない。
ということはこの地下室に入るには自分の部屋にあるあのドアからしか出入りは出来ないわけだ。
おかしな部屋だなと思った。
そう思いながらまた部屋に戻っていた。

ということは自分が生活する真下に人の入れない開かずの地下室があって、
その地下室の様子が自分の部屋にある覗き窓から見えてしまうわけだ。
これは気持ちが悪い。
ところが石野さんは元々おおらかな人ですから、そのことをさほど気にしなかった。
そしてその部屋での生活が始まった。

でも特段変わったことは起こらない。
何も生活は変わらない。
でもそう思っていたのは自分だけなんです。
彼女から見れば何も起こらない、何も変わらないんですが、本当はそうじゃない。
変わったのは石野さん本人なんです。
自分自身では気づかなかっただけなんです。

石野さんは日に日にずぼらになっていく。
何かをするのが面倒くさい。
部屋の中はゴミで散らかしたまま。
何も片付けないでその中で寝起きをしている。
服を着替えるのも嫌、風呂に入るのも嫌。
肌も何の手入れもしなければ、食事も食べたら投げっぱなし。
そのうち段々と食事も食べなくなってきた。
そして自分でもよく分からないけども、年がら年中いつもイライラとしているんです。
人に合うと何かにつけていざこざを起こす。
常に喧嘩が絶えない。
だから皆石野さんのことを嫌になってどんどんと石野さんの周りから人が去っていくんです。

そのうちに顔はゲソっと痩せて目つきも変わって声も変わってしまった。
体型も前と違う。
周りも僅かな間の変わり様に怖くなってしまった。

これはおかしい、石野さんは普通じゃない。
友達が来て「あなたちょっとおかしいわ」と注意をしようとするともうダメなんです。
せっかく注意しに来てくれた人に食って掛かってしまって、人の話なんてまるっきり聞こうとしない。
聞く耳を持たない。
中には部屋までやってきて「あなたこの住んでいる部屋が悪いんじゃないの」と声を掛けてくれる人もいたそうなんですが
そうするとますます意固地になってしまうんです。

「冗談じゃないわよ、私は好きでこの部屋に住んでいるのよ。
 どうしてあなたにそんなことを言われなければならないの。
 帰ってちょうだい!」

そんな状況で皆怖くなって石野さんの周りからドンドン離れていった。
しまいには仕事も出来なくなってしまった。
完全に孤立してしまったんです。
でもそこまでいっても本人は気づかない。
そうなんです、もう彼女には何かが取り憑いていたんでしょう。
そして周りの人は全て去ってしまって石野さんは一人ぼっちになってしまった。
と、まるでそれを待っていたかのように怨霊が己の存在を現し始めたと言うんです。

夜ゴミだらけの部屋で寝ている。
そうすると何か物音がする。
あぁ何処かの部屋だなと思っている。
でもその音は毎晩のように聞こえてくる。
そして段々と音がはっきりと聞こえてきた。
はっきりしてくるとその音が人の足音であることが分かった。
そしてそれも自分の寝ている真下の部屋、人の入れないはずの開かずの部屋から聞こえてくるわけだ。

ピタッピタッピタッピタッ

ぐるぐると部屋の中を回っている。

ピタッピタッピタッピタッ

日に日にその音が段々と大きくなってきた。
段々と音がはっきりと聞こえる。
そしてある晩、この足音が階段を上がってきた。

ピタッピタッピタッピタッ トンットンットンッ

そして音が止まった。
石野さんは起き上がるのが面倒ですから、首だけでそちらを見た。
畳の上に敷いた布団で寝ていますから、すぐ傍に覗き窓が見えるわけだ。
暗い覗き窓から何か輪郭が見えている。

(なんだろうなぁ)

そう思いながらそのままの格好で畳を転がってみた。

ゴロンゴロン

転がっていってそのガラス戸を見た。
と、薄暗い窓の目の前に、ガラス戸にベタッと張り付くようにして男がじっと自分を見ている。
その時彼女はこの人は生きている人じゃないと思ったそうなんです。
そして

「うわぁぁぁああああああ」

と奇声を発し、そのまま意識を失った。

気がついたら病院にいたんです。
それで病院の関係者の方々が皆さん集まっていて、

「この人は肉体も神経も極端に衰弱している。
 原因は分かりませんがただこの状況が長く続いたら、確実にこの人は死にますよ」

と言われたんです。
それでそのまま入院になってしまったんです。
これね、怪我や病気じゃないんですよ。
それで退院するまで半年かかっているんです。
段々と少しずつ治ってきた。
それで少しずつ表情が出てきた。
どうにか柔らかな表情になってきて体つきも戻ってきて、それで半年でようやく退院出来た
それでもまだ社会復帰は出来ない。
それでその時に石野さんは自分自身で思ったって言うんです。

(一体自分の身の上に起こったことは何だったんだろう。
 自分が気づかないうちにどうなってしまっていたんだろう)

それで石野さんはすぐに調べ始めた。
それでこれだという、正確な答えではないんですが、その出来事の元になった輪郭のようなものが見えたと言うんです。
どういうことかというと、この辺り一帯の土地を所有している大地主、この親族に重度の精神の障害を持った青年が居たそうなんです。

それでこの一族は精神病院を経営しているという手前、一族の中にそういう人が居るというのは非常に都合が悪いわけだ。
とてもこの青年を人前に出すことは出来ない。
それで自分たちが持っているアパートの地下にその青年を移したわけです。
これは言い方を変えれば幽閉と言うんですよね。
それで一階にその青年の面倒を見る介護をする人を入れた。
この人は年配の女性だったそうです。
この人が食事やなんだを世話するわけです。
それで青年は自分では部屋を出れませんから、出口というのは一階しかありませんから。

それでこの看護人の方、亡くなっているんです。
そして次の看護人がまた来ているんです。
この人も年配の女性だったそうです。
ですからこの青年は何か用事があれば階段を登ってきて窓ガラスを叩いてあれこれお願いをしていたんじゃないかなと思うんですけどね。
それで二度目に来た看護人も亡くなっているんです。
原因は分からない。
ただ家の人間がしょっちゅう来るわけではないですから、発見した時にはもう部屋で死んでいるわけです。
ということはこの青年というのは恐らく部屋で死んだこの看護人のことを覗き窓から見ていたんでしょうね。

それでその後なんですが、この青年の消息が全く分からない。
恐らく彼も亡くなっているでしょう。
それもきっと亡くなったのはこの地下室ででしょう。

それからしばらくして段々と体調が戻って元のような明るくて快活な石野さんに戻っていった。
それで仕事に復帰したわけです。
元々仕事が出来る方ですから復帰するとすぐに海外へ行った。
そして海外で四年間活躍されたんです。
それでお疲れ様ということで日本に帰ってきた。
そしてNPOの方がまた部屋を紹介してくれたんでそこで住み始めた。

それで偶然なんですが、この新しいアパートというのが以前自分が住んでいたアパートと同じ町にあった。
距離もそんなに遠いところではない。
石野さんは(あぁ縁があるんだな)と思って来たわけです。

(そうだ、あの頃通っていた居酒屋はどうなっているだろう)

そして石野さんは昔通っていた居酒屋へ行ってみた。
と、いつも馴染みだった顔が揃っているんです。

「あぁ久しぶりだね、ご無沙汰」

と言いながらあーだこーだ色々と話しながら盛り上がっていた。
と、誰かが「あのアパート、まだありますよ」と言った。
石野さんは聞き流していた。
それでいい具合に酔って「じゃあまた」と言って店を出た。

夜風が気持ちがいい。
それで石野さんは気持ちよく歩き始めたわけだ。
夜になると誰もいない境内を一人歩いていく。
そして蓮池の脇をずっと歩いて行った。
足が道を覚えていて、勝手に歩いて行く。
なだらかな坂、閑静な住宅街。
もうすぐ自分の家に着く。
と、その瞬間(あれ?)と思った。

(違う、このうちは違う。
 今住んでいる自分のアパートへの道はここではない)

これは以前住んでいた自分のアパートに行く道なんです。
懐かしい店に行って懐かしい皆に会って、そして一杯飲んで気持よく出たもんだからつい昔歩いていたその道を歩いてきてしまったわけだ。
(あらいけないな)と思った。
アパートはもうすぐそこなんです。
アパートの敷地の一部がもう見えている。
ふと石野さんは(あのアパート今はどうなっているのかな)と思った。
そしてそのまま行ってみた。
アパートは全く変わらずにあった。

(あぁ前のまんまなんだな)

一階の一番端に行ってみると表札が無い。
明かりも消えている。

(あら、誰も住んでいないんだな)

酔っていたせいなんでしょうか、ドアの前に立つとノブをグッと掴んだ。
そして回した。
そしてドアを開けた。
覗いたならば、家具も何もなく中はガランとしている。

(あぁ、以前私はここで生活していたんだな、懐かしいな)

思いながら自然に中に入ってドアを閉めてしまった。
普通ならこんなことしない。
それで右手にあるドアをぐっと掴んだ。

開かないことは分かっているんです。
分かっているんですがノブを回してみると、回った。
自分がここに住んでいた頃は一度だって入ったことはないんですよ。
でもドアは開いた。
覗くと中は真っ暗。

(あぁそう言えばこの下に階段があるんだっけなぁ)

そう思いながら下を向くと、そこにはロウソクとマッチが置いてある。

(あ、人がここに来たんだな。
 だからドアも開いているし、こんなものも置いてあるんだな)

それでロウソクとマッチを拾い上げた。
そしてロウソクに火をつけた。
小さなロウソクの明かりがついて、ぼんやりと辺りを照らしている。
と、ロウソクを片手に階段を降りていった。
これも普通じゃ考えられないんですよね。
階段を降りていると左手にあの室内から見えた覗き窓が見える。
ちょうど自分の顔のあたりに来るわけだ。
見るとガラスの向こうには暗い部屋が覗いて見える。

(あぁあの男はここからこうやって見ていたんだな)

その時石野さんは
(もしかするとあの男の幽霊は、たまにこうやって私が寝ているところを見ていたんじゃないかな)
と思った。

そしてトントンとまた階段を降りて下に行った。
地下に降りるとそこは真っ暗。
たかだかロウソクの明かりですから、本当に近くの辺りしか照らしていないんですよ。
それで彼女は辺りを見回しながら「ねぇ、誰も居ないよね」と言ったそうです。
それで部屋を歩いた。

ピタッピタッピタッピタッ

グルグルと回っている。
この今自分が立てている足音というのはかつて自分が上の部屋から聞いたその音そのものだった。

(ん?)

と、何かを踏んだ。

(ん、何だろう)

そう思って見ると、自分は紐を踏んでいる。

(あれ、紐なんか落ちている)

拾い上げて何気なく天井を照らしてみた。
と、太い柱があってフックがある。

(あーここから落ちたんだな)

そして手にしていた紐をそこに括りつけた。
と、自分が持っているロウソクの炎、このロウソクの明かりで目の前に自分が作った輪っかが照らしだされた。
石野さんは無意識のうちにその輪っかの中に首を突っ込んだ。

何の抵抗も無い。
それで体の力を抜いて、紐に体を預けた。
するとシュッと音が鳴り、自分の首に紐が絡みついた。
そして意識を失った。

どのくらいの時間が経ったか。
「おい、大丈夫か、しっかりしろ」という声で石野さんは目を覚ました。
気が付くと自分は真っ暗な部屋で横たわっていて、肩を抱かれている。
そしてNPOの活動家が自分のことを睨んでいる。

「おい、何してんだよ、一体何してんだ!」

その男性活動家に声を掛けられたが自分では記憶が無い。
自分の記憶にあるのは紐を結わえ付けて目の前に輪っかが出来て頭を突っ込んだまで。
と、その彼が言うには、

「自分も店を出るとあんたが前を行くのが見えた。
 ただそれは、あんたが今住んでいる部屋とは全く違う方向で、妙な胸騒ぎがしたので後をついていった。
 そうしたらあんたがここで首を吊っていたんだ。
 自分が来るのが遅かったら、あんたはもう少しで死んでいるところだったよ」

そうか、そうなんですね。
怨霊はどうやら彼女のことをずっと待っていたんですね。
ずっと待っていたんですよ、きっと。
あと一歩のところでしたが、あと少しで彼女のことを一緒に連れていけたんでしょうね。
ところがまた彼女を殺すことは出来なかったんですね。

前の話へ

次の話へ