池に浮かぶ顔

東京の映像会社に居た人で、その後に実家のある東北の映像会社に移って技術をしている人なんですけどね。
仮にAさんとしておきましょうか。
話というのはこの人のお兄さんが、

「後何年かで自分も退職するから、そうしたら好きな土いじりや釣りをしたい」

と言い、
「実家のある町中から少し離れた郊外の空き家を買って、それをキレイに改装して、ゆくゆくは長男夫婦に実家に住んでもらい、
 俺と妻さんはその郊外の家に移って、老後は好きなことをして暮らすぞ。
 どうだ、俺たまに休みの日にはそっちの家の方に行っているから、遊びに来ないか?」

と、お兄さんに誘われたわけだ。
それでAさんは出かけていった。

行ってみるとそこは丁度山裾。
原生林が広がって、後は田畑が点在している。
ポツンポツンと家があるだけの、のどかなところなんですね。
夏ですから、セミがうるさいほど鳴いているわけだ。
それでお兄さんの家に行ってみると、古い農家をキレイに改装してある。
一見ペンションのように見えるので、「これは良い家だね」と言った。

それからあれこれしているとお兄さんが

「おい、今な、日がてっぺんにあるけど、日がもう少し傾いたら涼しくなると思うから、釣りにでも行こうか」

しばらくぶりに兄弟で揃って釣りですから、「それはいいなぁ」とAさんは言った。
そうこうして時間が過ぎると、お兄さんが「じゃあ行こうか」と言って釣りの道具をあれこれ出してきた。
その中に、(あれ?)と思うものがあった。
長いゴム長靴なんですが、そのゴム長靴に浮き輪が付いている。

「兄貴、これは何だい?」

「あぁ、これか。
 お前さ、釣り場で見たこと無いか?
 ほら、胸まで浸かってさ、長い長靴を履いてやっているだろ。
 あーいう釣り方はいいんだけど、場合によっちゃ深みにハマって危ないだろ。
 でもこれだと、浮き輪が付いているから深みにハマっても沈まないんだよ。
 まぁ最もこれが使えるのは流れが波が無いところだけだけどな。
 ほら、池だとか湖だとか、そういうところがいいなぁ」

そんな話をしながら軽のワゴンに荷物を積んだ。
お兄さんがハンドルを握って、自分は助手席に座って車を走らせる。
やがてやってくると、ここは鬱蒼とした原生林。
その中を軽のワゴンが入っていって、やがて止まった。
ひょいと見ると、原生林に囲まれた中に青緑に淀んだ池があった。

「兄貴、この池はなんだい?」

「俺もよくは知らないんだけど、昔の渇水時期に田んぼや畑に流す水を貯めておく貯水池だったらしいぞ」

それにしてはこれはずいぶん大きいんだ。

「へぇ、ずいぶんおっきいんだな」と言いつつ荷物を降ろし、荷物を水際まで持っていった。
それでヒョイと見た。
随分と水が干上がっている。
向こうには浅い底がチラチラと見えている。
緑の草や木が埋まっているわけだ。
水面から赤い土がむき出しになって見える。
多分水が満水の時には自分が立っている遥か上の方まで水が来るんでしょうね。

(随分水が無いんだな)

そんなことを思っていたらお兄さんが浮き輪の付いた長いゴム長靴なんですが、それに空気を入れている。

「おい、出来たぞ。
 ちょっと足を入れてみなよ」

Aさんは靴を脱いで足を入れてみた。
その浮き輪にはベルトのようなものが二本付いている。
ようするにこれは肩に掛ける紐なんですね。
Aさんはそれを肩に掛けた。

なんか変な感じなんだ。
なにせ胸の下には大きな浮き輪がありますからね。

「おい兄貴、これ足元が見えねーぞ」

「あぁ、確かに陸の上ではちょっと歩きづらいけど、水の中に入ったらそれは便利なもんだぞ」

「じゃあ試してみるか」

それでAさんは釣り竿を持って籠を結わえた。
ようはこれは魚籠の代わりですよね。
そうして水の方に行ってみた。

考えてみればそうですよね。
釣りっていうのは餌の付いた竿を遠くに投げるわけだ。
岸からでは限度がある。
多少自分が水の中に入ると、距離が近くなるわけだ。
これであれば好きなポイントまで行けるわけですよ。

(これは便利かもしれないな)

Aさんは水の中を進んでいった。
やがて腰のあたりまで水が浸かる辺りまでやってきた。
これは不思議な感触ですよ。
自分は濡れていないけども、ゴムを通して水の感触が伝わってくるわけだ。
さぁ試してみようかなと思い、Aさんはしゃがんでみた。
そうすると浮き輪が浮くわけですよね。
じゃあと思い、両足を上げてみた。
と、良い具合に体が浮く。

(これはいいもんだな。
 安定して体がちゃんと浮く)

そのまま少し進んで足を付けて行ってみた。
と、浮き輪ですから、足の先が付いたり離れたりするわけだ。
そしてそうこうしているうちに完全に足が地面から離れた。
一瞬うわっと思ったけども、良い具合に浮いている。
これだったら何処でも行けるわけです。

胸から下は水の中、胸から上は水面に出ている。
慣れてくるとこれが無重力のような状態で、面白くなってきた。
少し歩くだけでスーッと進んでいく。
竿を持ってあっち行ったりこっち行ったりとAさんは遊んでいた。

そうこうして気がついていると、何も釣れていない。
あんまりあちらこちらへ歩いているから、魚が何も釣れていないわけだ。
そして何気なくひょいと見てみると、岸からは随分離れたところに来てしまっている。
どうやら自分は池の真ん中あたりまで来てしまっているらしい。
フイッと見ると、目の先に恐竜の骨のような灰色の太い大木の先、これはすっかりと枯れているんですが、それが水面から出ている。

(こんな木があるということは、ここは随分と深いんだな)

ただ水が淀んでいて、底の方は見えない。
自分には見えないけども、この水のはるか下の方では魚やたくさんの生き物が動いているんだろうなと思うと、少し怖くなった。
それで岸の方まで戻ろうと思った。
そしてフッと向きを変えた。
見るとお兄さんの姿が見えないので「兄貴!」と声をかけた。
でも返事がない。
原生林の中ですから、日が陰って辺りは少し陰ってきている。

さっきまではセミがうるさいくらい鳴いていたんですが、その鳴き声も何だか段々と小さくなってきている。
風もひんやりとしてきて半袖から出た腕や顔を撫でていく。
本当であれば夏ですから気持ちがいいはずなんですが、これも何だか気持ち悪く感じる。
そう思いながら岸の方に向かっていった。

岸の方に向かっていると、自分の足の方に何だか水が当たる。
自分は前に向かっているはずだからそんなはずないはずなんだけど、どうも自分の後ろのところで何かが動いているようだ。
それが動く度に自分に水が当たるもんだから、(一体何が当たっているんだろう)と思った。
それでヒョイと見てみると、自分の少し後ろのところ、その水面だけがボコッと浮いて沈む。
それが着いてきている。
(嫌だな)と思って見てみた。

水が淀んでいてハッキリとは見えないんですが、どうやら水面から十何センチのところでしょうね、そこに黒い影のようなものが潜っているのが見えた。
もしかしてこれはこの池の主なんじゃないかと思った。
やけに大きいし、気持ちが悪いんで早く行こうと思った。
進んでいくうちに何かが足に絡んでしまった。

足の自由が効かない。
釣り人が置いていった何かなのか、何かの網なのか、それとも地面から枯れた枯れ草なのか、何かが自分の足に絡みついて動けない。
段々怖くなってきたんで、夢中で足をかき乱した。

ジャバジャバジャバジャバ

一生懸命動いているうちに、何かに足を掴まれた。
ビックリしてうわーっともがくんだけど、そうするとなおもグッと掴まれた。
それが手の感触だから(うわっ)と思った。
手が自分の足を掴んだわけだ。

淀んでいて見えない水の中に何かが居る。
夢中で暴れた。
そうすると何とかその手の感触が離れた。

(あー良かった)

そう思ってまた前に進み始めた。
と、チャプっと音がした。
咄嗟に「兄貴か?」と声をかけるけども返事はない。
でも気になったんで何となく音がした方にヒョイッと顔を向けた。

振り返るとたった今散々水の中をかき乱したものですから、水草か何かがフーっと浮き上がってきている。
木くずだったりだとか、藻くずだったりだとか、誰かが置いていったような網のようなものだったりとか。
そういう物がふわっと水面に浮かんできているわけだ。
と、その中に何か丸いようなものがふわっと浮いている。
一瞬それが人の頭に見えたんでAさんは(うわっ)と思った。
勿論そんなものは浮いているはずがないと思っています。

(なんだよ、そんなの浮いているはずないよな。気持ち悪いな)

自分は前へ進んでいくんですが、それはドンドンと自分の方に近づいてくる。
まさかとは思うんですが、見るとそれはやはり人の頭のように見える。
どうも顔のように見えるし、髪の毛のようなものが付いているようにも見える。
(気持ち悪いな)と思い、ドンドンと進むんですが、それもドンドンと自分に近づいてくる。
一瞬それが笑ったように見えたんで(うわーっ)と思った。

自分はドンドンと遠ざかりたいんだけども、どうもそれは近づいてくる。
でも本当はそうじゃないんですよね。
自分が流されてそちらの方に近づいているんですよ。

(来る来る来る来る・・・!)

それがすぐ近くまで来た時にAさんは叫び声を上げた。
それは目玉のない、ボコンと二つの穴が開いたボーリングのボールのような水死体の頭だったんですよ。

Aさんはもう夢中で岸の方にバタバタと体を動かす。
夢中で進むんですが、体はうまく進まない。
自分が暴れているもんだから波が起きて、その波の中でその生首が浮いたり沈んだりしながら自分の方に近づいてくるわけだ。
自分の足に何か糸だか網のようなものが引っかかって、それがその水死体にも引っかかっているらしい。
と、

「おーい、帰ろうか」

声がした方を見るとお兄さんが立っているんで、お兄さんの方へ夢中で進んでいった。
足がようやく着いたんで、お兄さんの方へ掛けるように行った。

「おい、お前なんでそんなに慌てているんだ?」

「そうじゃない、今こういうことがあって・・・」

「え、俺はそんなもの見てないぞ。
 お前が一人で慌ててこっちに来ただけだよ」

「いや、そうじゃないよ」

そう言って指を指そうとすると、底には何もなかったそうです。

まぁそんなことがあったってこともあるんですけど、仕事が忙しいこともあってAさんはそれから三ヶ月ほどお兄さんと連絡を取らなかった。
それからしばらくしてお兄さんの方から連絡が来た。

「おい、元気にやっているか。
 お前さ、夏に俺と一緒に行った池を覚えているか?」

「あぁ、覚えているよ」

「あそこな、あれから全部水が枯れちまってな。
 その干上がったところに瓦礫が溜まっているんだけど、瓦礫の中に白骨死体があったんだ。
 どうやら家を出たっきり行方不明になっていたという近所の爺さんらしいんだけどな。
 お前夏に変な体験しただろう。
 それで思い出して電話してみたんだよ」

ってお兄さんが言ったって言うんですよね。
そういうことって世の中にはあるかもしれないですよね。

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