隣の奥さん

事務器のメーカーの関西支社で四十代の男性なんですが、仮に高木さんとしておきましょうかね。
この人の奥さんも企業の第一線で活躍するキャリアウーマンなんですがね、
仕事中に激しい頭痛を訴えて嘔吐して意識を失ってしまった。
すぐに病院に搬送されて、くも膜下出血と診断された。
そして緊急の手術が行われて、処置が早かったものですから命に別状は無かったんですが、しばらく入院生活が続いたんですね。
体調をすっかり崩してしまったんです。

退院後はというと、しばらく自宅のほうで療養しなくちゃならない。
まぁそんなことがあったもんですからとうとう職場復帰は叶わなかったんですね。
二人にはお子さんが居ないんで、この際だから騒がしい都会での生活は辞めて、少しで空気が良い郊外にでも引っ越そうかという話になった。
それでちょうどいい物件が見つかったんで、そちらに引っ越した。

となると大変なのは高木さんの方なんですよね。
今までの倍以上の通勤時間がかかってしまう。
ですから朝は早い時間に出かける。
そして夜は遅くに帰ってくるわけだ。
とは言っても休みの日には庭いじりが出来るし、夫婦で過ごす時間も取れるようになった。

でもこの奥さんの方なんですが、今までは企業の第一線で活躍していた。
その人が途端に家にこもってやることがないわけだ。
高木さんが朝家を出て行く。
そうすると一人ぼっちになってしまう。
ガラス窓の向こうに見える景色を眺めているか、新聞に目を通すか、雑誌を見たり本を見たりするか、
テレビを付けてみるか、気が向いたら友達と長電話をする、まぁそうやって時間を潰すわけですよね。
多少はストレスが解消されるんでしょうが、やっぱりなんだか物足りない。
そんなもんですから、高木さんが会社から帰ってくると待ち受けていて、まるでせきを切ったかのように夢中で話しかけてくるわけだ。

そんなある日なんですが、高木さんが会社から戻ってきた。
と、この奥さんがいつになく目を輝かせて

「今日ね、隣の奥さんがね、うちに遊びにこないかって誘いに来たの。
 隣の奥さんってね、黒い喪服姿で部屋中にロウソクを立てているのよ。
 何か変だと思わない?」

その話以来、隣の奥さんはちょくちょく顔を出すらしい。
そんなことがあってから何日かして、高木さんがいつものように会社から帰ってくると、奥さんが待ち受けていて

「ねぇ今日ね、隣の家へ大きな荷物が届いたのよ。
 それはどうもね、棺みたいなのよ。
 それで私気になって聞いてみたら、奥さん教えてくれないのよ。
 あんな棺なんてどうするんだろう?
 何に使うんだろう?」

(相変わらず好奇心が旺盛なんだなぁ。
 まぁ暇つぶしに隣のうちの様子を覗いちゃああれこれと想像を逞しくしているんだろう)
と高木さんは思っていた。

それからまた日が過ぎた。
高木さんが仕事から帰ってくると、奥さんが待ち受けていて

「ねぇ今日ね、隣の奥さんが何重にも巻いた大きなビニール袋を持って出てきてね、
 それをベビーカーに乗せて何処かへ出かけていったの。
 あれは一体なんだろう?
 あの中には何が入っていたんだろう?
 もしかしたら、ご主人のバラバラ死体じゃないかな?」

流石にこれには高木さんもゾクッとした。
恐らく隣の家を眺めちゃ暇に任せてつくり話を作って自分に聞かせているんだろうと思ったんですが、でもどうもおかしい。
だったら女房はきっと自分に、「これは作り話よ」と言って聞かせるはずだ。

でもどうやら違うらしい。
というのは隣の家というのは空き家なんだ。
ですからきっとその空き家の持ち主の奥さんがやってきて、ついでに女房のところに顔を出すのかなと思っていた。
でも話を聞いているとどうやらそうではないらしい。

(隣の家に本当にそんな奥さんは居るのかな?)

考え始めると何だか気になってきた。
あまりに気になったもんですから、人を介して調べてみた。
と、調べてみると、意外なことがわかった。
というのは、隣の家では四、五年前にこの家の奥さんが家の中で惨殺されていたんです。
そういう事件があってこの家の人達は、周囲をはばかるように何処かに越していったらしい。
それから何故か分からないけども、隣の家の人間たちも慌てるように引っ越していったらしい。

この話を聞いて、高木さんはこの事件は何か関係があるんだろうかと考えた。
そして事件が起きた家と、その隣の家で二軒の空き家が出来た。
しばらくは人が入らないまんまだったけど、その一方に自分たちが越してきた。
それで奥さんが殺された方の家はそのまま空き家になっている。

(あれ、待てよ・・・。
 隣の家は奥さんが惨殺されている。
 ということは、女房のところにやってくる隣の奥さんというのは、一体誰のことなんだろう・・・。
 やっぱりこれは、作り話なのかな?
 でもどうもそうとも思えない。
 本当にそんな奥さんは居るんだろうか・・・。
 それとも女房が頭の手術をしたせいでおかしな幻覚でも見るようになってしまったんだろうか。
 おかしいのは隣の家なんだろうか、それとも女房なんだろうか・・・。

 確かめてみよう)

その日はいつものように、高木さんは家を出た。
会社に着くと、「打ち合わせがあるから」と言い、電車に乗って家まで戻ってきた。
と言ったって自分の家には戻らない。
女房には分からないように、隣の敷地にこっそり入り、裏手に回った。
見ると、裏口がある。
近づいていってノブを掴んでクッと回した。
鍵はかかっていない。
ドアが開いた。

(ドアが開くということは恐らく人が出入りしているに違いない)

中を覗いてみたけれど、中はガランとしている。
履物も何も置いていない。
でも一応
「ごめんください。すみません」
と、中に向かって声をかけたんですが返事はない。
そして覚悟を決めて家の中に上がってみた。
締め切られた部屋ですから、空気は淀んでいるわけだ。
埃っぽい匂いが鼻を突く。
そして室内を歩いていった。
どうやらただの空き家のようなんですが、この家でここの奥さんが惨殺されているわけだ。
そのことが頭にあるわけですから、何だかゾーッとする。
背筋がヒヤッとするわけだ。
そして玄関までやってきた。

(ん?)

あった。
ベビーカーがあった。
奥さんの話にでてきたベビーカーが、確かにあるじゃないか。
そしてすぐ脇の部屋を覗いてみた。
薄暗い部屋の中はガランとしている。
家具も無い。
何も無い。
いや、あった。
部屋のあちこちに燃えカスのロウソクが燭台に乗っかって置いてある。

(ロウソクがある・・・。
 話に出てきたロウソクが、確かにある。
 女房の言ったとおりだ)

動揺しながら、居間に行ってみた。
ノブを掴み、ドアノブを回す。
そしてドアを開けた。

中を覗いてみる。
中は薄暗い。
何にもない。

(あぁ、なんにもないな・・・)

部屋の中に一歩踏み入ってみた。
その瞬間、驚いた。

部屋の中に、ある。
部屋の真ん中に、真新しい白木の棺がぽつんと置いてあった。

(棺だ・・・。
 女房の言ったとおりだ。
 一体何でこんなものが置いてあるんだ?
 一体これは何に使うんだ?)

異様に怖い。

(この家はおかしい。
 やっぱり何かある)

目に見えない言いようのない恐怖が襲ってきた。
ゾクッと寒気がする。

(おいここはおかしい、変だぞ・・・。
 でも確かめなくちゃ)

自分の気持を奮い立たせ、廊下に出た。
向こうからうっすらと明かりが漏れている。
行ってドアを開けてみると、そこは奪衣場だった。

(何だ、風呂場か)

曇りガラスの向こうからうっすらと光が差し込んでいる。
風呂場を開けた。
中はガランとしている。

(何も無いな)

光が曇りガラスを通して中に差し込んでいるんですが、何気なくその光を頼りに浴槽の中を覗いてみた。

(うっ! 何だこれは!?)

浴槽の中に、新しいナタと鉄ノコが入っている。

(何でこんなところにこんなものがあるんだ?
 一体これは誰が持ってきたんだろう?
 何に使うんだろう?
 ここで一体何が起こっているんだ!?)

そう思った瞬間、あることが頭に浮かんだ。

(まさか!!
 いや、まさか・・・)

ある情景が頭に浮かんでいる。
無性に怖い。
膝がガタガタと震えだした。
全身から冷えた汗が吹き出てくる。

(これはまずい・・・この家はまずい。
 ここは絶対におかしい。
 でも調べなくちゃ・・・。
 一体ここに何があるのか、女房は大丈夫なのか調べなくちゃ)

そして二階に行った。
暗い階段を登っていく。
二階に上がると廊下は薄暗い。
窓の隙間から細い光が差し込んでいる。
見ると、突き当りにドアがある。

(多分、あれは寝室だろう)

ノブを掴んでドアを開ける。
中は暗い。
ガランとしている。

(暗いな・・・)

室内を目で追ってみたんですが、何も無い。
何も無いと思い目を落とした瞬間、部屋の中央に染みがあることに気がついた。

(何だろう、この大きな染みは)

入っていってしゃがんで見てみた。
そして右手の人差指でその染みをこすってみた。
指先を見ると、赤黒く染まっていた。

(えっ)

鼻先に持っていくと、ツーンとした異臭が鼻を突いた。

(これは血だ。
 血の匂いだ!)

うわっと思い、上を見上げた。
天井には何も無い。

(これは上から滴り落ちたもんじゃないな。
 カーペットの下から滲み出たんだろう。
 ということは・・・このカーペットを剥がしたら、この下から大きな血だまりの跡が出てくるに違いない)

その瞬間、あることが頭にフッと浮かんだ。

(そうか、ここだ。
 ここだったんだ。
 このうちの奥さんが惨殺されたのは、この場所だったんだ!)

恐怖がまた襲ってくる。
しゃがみ込んだまま体はガタガタと震えている。
頭の先から冷えた汗が吹き出して顔面を伝っていく。
そして首筋を伝ってぼたぼたと垂れていく。
そのとき、フッとある情景が浮かんだ。

(ここでどうやって殺されたんだろう)

言いようもなく怖い。
情景の中で血を吹いているのが見えた。
考えまいと思うんですが、どうしても頭に浮かんでしまう。
体が張り付いたように動けない。
その時、フッと背後に気配を感じた。

(居る・・・何かが後ろに居る・・・!)

怖いけども振り向いてみた。
入り口に人影が立っている。
廊下からうっすらと光が差し込んでいる。
それでその日を微かに受けて丁度逆光のような形で人影が立っている。
喪服を着ている。
視線をずっと上げていく。
顔があるが、逆光で見えない。
でも、ジーっと見た。
と、顔が見えてきた。
途端に声を上げそうになった。

それは、その人物は、自分の女房だ。
自分の女房が黒い喪服を着て青白い顔をして、こっちをジーっと見ている。
口元は微かに笑っている。
と、女房が薄笑いを浮かべながら
「やっぱり来ると思った」
と言った。

それで高木さんが
「お前、おかしいぞ。
 しっかりしろ!」

その時、女房の手元で何かがギラッと光った。
女房がナタを握っている。

「お前は妄想に取り憑かれているんだぞ!
 お前は自分で作った話に操られているんだぞ!」
そう高木さんが言ったその時、

「奥さん、早くやっちゃいなさいよ」
という声がした。

(えっ)
と思ったその時、女房がナタを掴んだその手を振り上げた。

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