置き忘れた台本

芸能界の大先輩で、仮にJさんとしておきましょうか。
この方、若い頃はかなりイケイケだったんですよね。
腕っ節が強いんです。喧嘩っ早い。
怖いんだ。
そういう意味では一歩引いてしまうというかね、そういう方なんだ。
今はもうお年を召されてだいぶ穏やかになって人間的には丸みを帯びていらっしゃる。
そういう方なんです。
この話はこの人の体験なんです。

それはこの人が若いころで、もうだいぶ前の話になります。
大阪の歴史のある有名な劇場で舞台に出演していた。
まぁ舞台となると大体ひと月くらいになるんですが、その間は大阪での生活になる。
ホテルと劇場を行ったり来たりするんです。
舞台が終わると共演者の方やご贔屓の方、そういう方が席を作って待っていてくれるんです。
ですから舞台が終わるとすぐに着替えてそちらへ行くわけだ。
皆が集まって宴会が始まるわけです。
それで大阪に居るひと月の間に、何度もそういうことがあった。

そんなある日のことなんですが、その日も無事に舞台が終わった。
共演者の方やご贔屓の方が料亭で待っていてくださるんで、急いで準備をして慌てて飛び出した。
それで皆で宴会が始まった。

そうこうしているうちに「明日も舞台があるから」ということで、その日はお開きになった。
Jさんが料亭から出てきた。
タクシーをひろおうとしてフッと気がついた。

(いけない、忘れ物だ)

その忘れ物というのは台本なんです。
どうやら楽屋に置いてきてしまったらしい。
というのも、これは毎朝のJさんの習慣なんですが、朝これから劇場に行こうかという時に台本に一応目を通すことにしているんです。
セリフはもちろん入っているんですよ。
入ってはいるし、もう立ち位置やなんかのことも分かっているんですが、
一応自分がやることをもう一度おさらいをして気分を作ってから劇場に行くわけだ。
これが習慣になっているわけですから、台本がないと困るんです。

どうしようかなぁとは思ったけども、やっぱり取りに行こうと思って、
タクシーの運転手さんに言って劇場につけてもらった。
裏口に行くと小さな灯りがついていて警備の方が居たんで

「すみません、いやぁ台本を楽屋に忘れちゃって。
 中に入っても大丈夫ですか?」

「一緒に行きましょうか?」

「いや、慣れてるから大丈夫大丈夫」

と言ってJさんは一人で中に入っていったわけだ。
大きい劇場というのは舞台も客席も勿論大きいんですが、その舞台や客席から邪魔にならないよう、周りを囲むように通路が出来ているんだ。
だから楽屋がある場所というのは非常に込み入った場所にあるんです。
階段を上がったり下がったり、回りこんだりするわけだ。
もちろん外に音が漏れないようになっていますから、楽屋のあたりっていうのは窓も無いんですよ。
昼間であれば沢山の人が行ったり来たりしている場所なんだ。
でも夜だから誰もいない。
シーンと静まり返っている。
小さな灯りが付いている中を、一人Jさんは歩いていった。

上がったり下がったりを繰り返しながらやってきた。
もう後半分も行けば楽屋に着くという時に、フッと突然灯りが消えてしまった。
真っ暗な闇の中。
窓が無いですから外の明かりは差し込んでこないし、何も見えない。
音が入らないように厚い壁が出来ているわけですからね、何の音も聴こえない。

(いやー、弱っちゃったなぁ)

殆ど半ば辺りまで来てしまっていますから、これは引き返すよりも手探りで進んだほうが早いなぁと思った。
一応いつも歩いている場所ですから、だいたいの事は分かる。
ただ楽屋の周辺というのは色々なものが置いてあるんだ。
だから気を使いながらゆっくりと進んでいった。
闇の中をまさに手探りだ。
まぁ普通の人はなかなか出来ないことですよね。
でもこの方は根性がありますから。

シーンとした闇の中。
自分の息遣いと靴の音だけが聴こえる。
手探りでだんだんと進んでいった。
と、

カツン

と何かに足がハマってしまった。
もう一方の足も何かにハマって動けない。
引き上げようとするんだけども、なかなか動かない。

(何だろう、抜けないなぁ)

と思ったその時に、全くの暗闇の中を歩いているわけですから、神経が敏感になっているわけですよ。

抜けないわけじゃないんだ。
足に何かが絡みついているんだ。

(これは違う、何かを踏み抜いたんじゃない。
 絡みついているわけでもない・・・。
 両方の足首を何かに握られている!
 足を掴まれている!)

流石にこれは怖い。
真っ暗な通路ですよ。
シーンと静まり返った中、誰かが自分の両足を掴んでいるんだ。
とその時、微かな物音がした。
奥には誰も居ないはずなんだ。

(一体何の音なんだろう)

機械の音でもないんです。
暗い通路の中をだんだんとこちらに近づいてきているのが分かる。
だけど真っ暗な闇の中でそれが何かは見えない。

だんだんと音は大きくなってくる。
両足は掴まれて動けないし、闇の中から何かがこちらに向かってやってくる。

(いけない、やられる!)

どんどんどんどん何かがやってくる。
体は掴まれて動けない。
全身から冷えた汗が吹き出した。
流石にこれは怖い。

(駄目だ!)

その瞬間、チカッと懐中電灯の光が走り
「Jさん、大丈夫ですか!」
と声がした。

靴音がして、灯りが来た道から近づいてくる。
途端にフッと音が止んで、気配が消えた。

「すいません、電気が切れちゃったみたいで」

そして懐中電灯が自分を照らした。
足元が照らされた時、足元には何もなかったって言うんですよ。
流石に怖かったんですが、灯りを借りて楽屋に行って台本を持って帰ってきたそうです。
そんなことがあったばかりなのに、流石なもんですよね。

それでそのJさんが私に行ったんですよ。

「純ちゃん、あそこには何かが居るね・・・」

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