多摩保母殺人マンホール死体遺棄事件

事件の概要

1997年1月4日─ 多摩市役所に「東京都多摩市貝取1丁目にあるマンホールから汚水が溢れている」との苦情の電話が入る。 職員が現場に駆けつけマンホールを空けたところ、中から座った状態の腐乱死体が発見される。 頭頂部や鼻など数か所の骨が折れ、死後数か月が経過していた。マンホールの直径は60cm、深さ3mで底の広さが1.2m。 底には幅25センチの側溝があり水が流れる仕組みになっており、 マンホールから汚水が溢れだした原因は、腐乱が進み剥げ落ちた肉片が詰まったものであった。 その後、歯形から身元が判明。鑑識の結果、遺体は市内に住む保育士の『八木橋富貴子さん』(当時39歳)のものと判明。 八木橋さんは1996年2月から身元がわからなくなっており、家族から捜索願が出されていた。 八木橋さんは事件から約1年前の1996年2月27日の夕方、勤務先であった北区西が丘にある勤務先の保育園を出たあと、 都営三田線本蓮沼駅で同僚と別れ、午後7時前に多摩市内のスーパーで買い物している。 その後、午後9時頃に新聞の集金人が八木橋さんを目撃したのを最後に行方不明となる。 遺体発見時の八木橋さんの服装は同僚と別れた時とは違っており、スーパーで購入した商品が自宅の冷蔵庫の中から見つかっている事から、 八木橋さんは帰宅後に、何らかの事情で顔見知りに連れ出され、殺されたと見られている。 八木橋さんの部屋は荒らされた様子はなかったが、貯金通帳・日記帳・財布などを入れて持ち歩いていた巾着が無くなっていた。 なお、貯金通帳には750万円が貯金されていたが、引き出された形跡はない。 またこれらの他にも、八木橋さんの部屋からは1990年と1991年の日記がなくなっていた。 警察はこれらの事から八木橋さんの交友関係を洗い出し、徹底的に調べをすすめた。 その中でも八木橋さんと交友関係のあったK氏は、八木橋さん失踪当夜のアリバイが曖昧であり、 マンホールのフタの開け方に詳しい市役所職員という事で、強い疑いの目を向けられた。 (※東京のマンホールはテロ対策から、専用工具が無いと蓋は開閉できないようになっているとのことから。) しかし、決め手がなく、現在でも事件は未解決のままとなっている。

八木橋さんの人柄

八木橋さんは青森県出身で、1977年に地元の短大を卒業後、多摩市内の保育園に就職。 14年間勤務したのちの1991年3月に結婚を理由に退職したが、 翌4月からは北区の保育園に移っていた。 どちらの勤務先でも、無遅刻無欠勤のまじめな勤務態度だったという。 八木橋さんは行方不明になる直前に長い髪をばっさり切っており、 希望していた年長組の担当を実現したこともあって現在の子供たちが卒園したら青森に帰るという話もあった。 八木橋さんの行方が不明になってから2日後に父親が上京してきたが、 1996年4月6日までの間に無言電話が計6回あったという。

◆ソース元
未解決事X
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