実家の過去

873 :実家の過去1[sage] :2008/07/19(土) 17:04:54 ID:08qabr+G0
小5の時実家の三階にはじめて自分の部屋をもらった。 
それまで勉強部屋は弟と一緒。寝る部屋は家族みんなで一緒だったのでwktkしてた。 
ちなみに実家の一階はレストランで、二階と三階が住居。 
さらに兄貴がすでに三階の別の部屋を使ってた。 
うちはその辺ではまあまあ古い一族というか家族で、 
狭い町には父方の従姉妹やら親戚がうじゃうじゃ住んでた。 
実家の建物は改装されてるけど50年からの旧い家で、昔から飲食をやってたらしく 
寝部屋にも居間にも、宴会場にあるようなガスのコンセントみたいなのが壁についてた。 
それまでオバケに悩まされることもなく、親子兄弟普通に暮らしてた。
とある真夜中、私はトイレに行きたくなって目が覚めた。 
寝ぼけたまま二階に降りて、家族の寝部屋の横にあるトイレに入り、用を足した。 
相当寝ぼけたのか、私はそのまま家族の寝部屋のふすまを開けてしまった。 
ふすまをスッと開けると、そこではドンチャン騒ぎの宴会が行われていた。 
突然の音や笑い声にびっくりしてあわててふすまを閉めてしまった。 
その時はワケがわからず、立ったまま夢を見たのかな?と、ドキドキしながら 
もう一度ふすまを開けてみた。 
もちろんそこで宴会など開かれておらず、窓際から父、母、弟の順に 
ぐっすり眠っている家族の姿があるだけだった。

その日はなんだかワケが分からないまま部屋に戻り眠った。 
翌日母にそれを話すと、昔たしかにあの部屋も宴会場に使われていたと教えられた。 
ガスのコンセントみたいなやつは、その時ようやくなんのためのものか理解した。 
それ以降、その部屋をいくら覗いても宴会の風景を見ることはなかった。 
そのあと妙なものを見たのは、一階から二階に上がる階段でのこと。 
それは夕方兄弟たちが帰ってきておらず、両親も店で働いている時で 
おやつをもらって二階に上がろうとしていると、なぜか階段がおかしい。 
うちの階段は踊り場があって、そこから左に曲がる形で二階につながっている。 
それがなぜか踊り場からもう一方にまっすぐ続く階段があるのだ。 
あれえ?と思いながら、私は手の中のアイスが溶けそうになっているのが気になって 
ふっと手元を見てもう一度顔を上げた。そこにはまたも、なにもなかった。 
不思議と怖い感じはなくて、それもまた二度と見ることはなかった。 
祖母になんとなく、うちの造りは昔ちがったの?と訊くと間取りを描いてくれた。 
そこには踊り場から二方向に伸びる階段があり、その先は賄い場になっていた。 
それはもう当時30年も昔のことで、うちは元々三階まで全部が料理屋だったことを教えられた。

私は中学生になり、兄貴が専門に進んで家を出た。 
進学や夢や、仲の良かった友達と好きな人がかぶったコトで悩める思春期真っ只中だった。 
ある夜、夢を見た。 
それはすごく悲しいイメージだけを残していて、今でも内容は思い出せない。 
ただ私は女に生まれたことをひどく後悔していて、朝目を覚ますと泣いていた。 
多分同じ夢を翌日も見た。その時はうなされて夜中に起きてしまった。 
冬なのに汗びっしょりですごく疲れていて、絶望したみたいな悲しさでいっぱいになっていた。 
その時、部屋の外に誰かいることに気づいた。廊下に通じた障子に人影が写る。 
ゾッとして、でも声が出ない。金縛りにあって身体が動かない。 
障子がスウッと開いて、そこには髪を後ろにひっつめて結び、 
ジンベエの上みたいなものだけを着て脚をむき出した女の人が立っていた。 
ジンベエの柄は牡丹みたいな、ダリアみたいな派手な花柄で、 
月明かりを背負った表情は見えないのに泣いてるような落ちた肩が悲しげだった。 
私は恐ろしさと金縛りと悲しさで硬直したまま、あうあうと泣き呻いていた。 
その人は私の目の前まで歩み進んできて 
「ここを出たい」 
とだけ囁いて、私の隣を素通りして窓の向こうに消えていった。 
私はその言葉を聞いて、またなにが悲しいのか声を放って泣いていた。 
気がつくと朝で起こしにきた母が、私の顔を見てびっくりしていた。 
泣きはらしたのか目元が腫れていて、熱を計ると38度あった。

その女の人の生々しい脚を思い出すと、どうしても母に話せなかった。 
二度と自分の前には現れなかったし、べつの現象を体験もしなかったけど 
祖母の代から使っている寝部屋の鏡台が、それ以降怖くて仕方なくなった。 
上京して働くようになり、25歳をすぎたころ年に一度の帰郷で祖母に初めてうちの店について詳しく聞いてみた。 
父方の祖母の実家は大正の頃、大分から従業員共々この町にやってきて料理屋を開いた。 
当時はさびれた田舎ではなくて、港の船の出入りも多く方々から人が集まってくる賑やかな街だったそうだ。
その飲み屋街に開かれた料理屋というのは、料理を出し、 
酌婦に酌をさせ、そのあとの枕営業までをさせる店だったそうだ。 
延縄漁景気に沸き返る町で店は大層ウケて忙しく、店の増築と設備の強化を重ねて繁盛した。 
大分から連れて来られた酌婦たちは、二度と故郷の地を踏むことなくこの町で亡くなったらしい。 
彼女らをこき使ったと祖母は決して言わなかったけど、 
いかがわしい仕事に就かざるをえなかった彼女たちの心中を察すると胸が痛かった。 
時代が移り、祖母は漁師である祖父と結婚し、祖母の実家は大分へ帰った。 
祖父は漁師業のかたわら、魚屋兼宴会場を開いて町の名士になった。 
祖母がいうには、祖父は祖母の実家の仕事の内実を死ぬまで知らなかったそうだ。 
中学生の私の枕元に立った彼女は、きっと大分に帰りたかったんだと思う。 
私は東京に戻る前に祖父の墓と、大分から来た女性たちが眠っているという慰霊碑を参り、線香をそえてきた。 
中学生のあの日に流れたのと同じ涙が流れて、悲しくてやりきれなくて、とまらなかった。 
それ以来、毎年帰郷する際には必ず慰霊碑に参るようにしている。

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