追悼山行

752 名前:あなたのうしろに名無しさんが・・・ :02/09/01 03:39
父から聞いた話で、三十年くらい前の出来事です。

父の友人のNさんという方が病死しました。35歳の若さだったそうです。
山岳部の中でも、父とNさんともう一人の友人が特に気の合う仲で、
しょっちゅう三人で山へ出かけていました。四十九日の法要が
終わった後、父とその友人とのあいだで、Nさんの追悼のため久しぶりに
山へ登ろうという話になりました。

お互いにもう何年も登山から遠ざかっていたのですが、学生時代に
登ったのと同じ日程で同じコースをたどることにしました。思うように体が
動いてくれず、ようやくのことで谷奥の山小屋にたどりついて、
夕食を終えると片づけをする気力もなく、すぐ寝袋にもぐりこみました。 

枕元のろうそくを消して、父がうつらうつらし始めた時、
「誰かが登って来はしないか」と友人が言いました。耳を澄ますと確かに
足音の聞こえた気がしたのですが、すぐに近くの沢の音にまぎれて
しまいました。「気のせいだね」友人はそう言うと仰向けにもどり、
すぐにすやすやと寝息を立てはじめたのですが、父の方は眠る間合いを
はずされた気分で、眼を閉じたままじっとしていました。その時、
今度は間違いなく、近づいてくる足音が聞こえました。入口の扉の前で
しばらく立ち止まると、小屋の裏手の水場の方へ歩いて行きます。

他のパーティーの者とはみだりに親しくしないのが登山者の心得ですが、
こういう場合には、遅れて着いた者は見ず知らずの同宿者から
それとはない歓迎をうけるものだそうです。たまたま目を覚ましたから
という顔で、消えた火をもう一度焚いてやったり、夕食の残りを温めて
やったりします。父は枕元のろうそくに火を灯すと、友人を起こさない
ようにそっと寝袋から抜け出しました。

足音は裏手に回ると、水を使う音を立てるでもなく、そのまま小屋の
反対側から入口の方へ戻って来ました。そしてまた扉の前でしばらく
ためらった後、再び裏手の方へ歩き出します。ゆっくりとした足取りで
小屋の周りをめぐって、三度目に扉の前に立ち止まったその時、
「おい、Nだろう。何をしている。早く入れよ、なあ」眠っていたはずの
友人が、少しも寝ぼけたところのないはっきりした声で、死者の名を
呼びました。一瞬の間をあけて、小屋から遠ざかる足音が聞こえました。
父は靴もはかずに小屋から飛び出しました。月の明るい夜でしたが、
人影ひとつ見えず、足音も聞こえません。

小屋にもどると、友人は寝息を立ててぐっすりと眠っていました。
翌朝それとなく聞きただしてみたのですが、どうやら何も覚えていない
様子でした。夢も見なかった、と答えたそうです。 

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