遺体

584 名前:麻布 ◆1F42ZK8k :02/05/30 23:14
静かな当直だった、文献を読みながら煙草をくゆらせていた。
「先生、一体運ばれてくるそうです」事務員から連絡が入った。
遺体は労働者風の男性だった、顔見知りの警官が少し情報をくれた。
「酔って橋の欄干から転落。目撃者もいて事件性は無いみたいです」
若い警官は調書を取りながら、所持品の検査をしているようだ。
男は頭部に外傷をおい、一見してそれが致命傷とわかった。
上着を脱がすと一枚の写真が内ポケットに入っていた、警官がそれを見ながら
話しかけてきた。
「きれいな人ですね、奥さんかな、この仏さん身元がわからなかったんですよ、
あれ、裏に電話番号がありますね」「ちょっと署に連絡してきます」
警官はパトカーまで行ったようだ、もう一人は先ほどから別室の電話口にいる。
「やれやれ、始まったばかりで小休止か」と剖検台の横にに腰をおろした。
何気なく遺体を見ると腹のところが妙に膨らんでいる事に気がついた、立ち上が
り触ってみると腹巻の中に何かあるようだった。
一万円の束だった。腹部を一周するように並んで巻きつけてあった。
「おーい○○君」と顔見知りの警官を呼んだが返事は無く電話口にもいなかった。
ドアをあけると、ずいぶん離れたパトカーの中で二人で無線に向かっているようだ。

心に風が吹いた・・・・あの金があったら?
全部で12束あった、考える間もなくディスクに入れてしまった。
解剖室の冷たい空間にいながら汗が流れた事に気がついた。
「すみません、先生。わかりました・・やはり該者の奥さんでした。夜遅かった
んですがすぐ向こうを立つそうです、遠いので明日午後になるそうです」

解剖は1時間足らずで終わった、死因は見立て通りの頭蓋結合離解骨折および、
頚椎骨折により即死と断定できた。冷たい汗は最後まで乾くことは無かった。
 
担当警官もよくある事故と位置付け調書のペンも早かった。
「先生ありがとうございました、それでは後処置をお願いしまして引き上げさせ
ていただきます」一礼するとパトカーに向けて去っていった。
私は処置を済ませ、霊安室に遺体を運び冷蔵庫のステンレスの重いドアを閉めた。

所轄から連絡が入ったのは翌日夕刻だった。
「先生、昨日はお疲れ様でした、仏さんの家族の方がみえたのでそちらに向かい
ますがお時間取れますでしょうか?」
警官に案内された、奥さんと思われる方に「このたびは残念なことで・・・」

遺体を確認してもらうとその女性はその場に泣き崩れてしまった。
しばらくして「間違いありません、主人です」そして静かに語り始めた
事業に失敗したこと・・そして・・必死で働き、必ずお前と子供を迎えに行く。
・・2日前に連絡があったんです、めどがついた。5年必死に働いた。今週末帰
ると、そして、祝いの酒を飲ましてほしいと」
最後は涙で聞き取れなかった。

その時、突然若い警官が声をあげて一歩後ろに引いた、眼は遺体を見ていた。
胸の上で合わせていた筈の手がだらりとストレッチャーから出て揺れていた。
そして、床に近いところで握られていた手が、ゆっくりと開かれつつあった。
お互い声も無くそれを見つめるしかなかった。
キラりと光りながらそれは床に落ち、無音の世界に「チャリン」と音を立てた。
白い紙もつづいて落ちてきた。

警官がそれを拾い、メモを見て一瞬にして顔色が変わった。「先生・・」

それは私のロッカーの鍵だった。「メモには・・私のお・・・・・」

私は動けなかった、そして視界の隅ある遺体の顔が笑ったように見えた。 

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