甘露

51:虚の中の男◆AFcPKj5UhQ 09/03(月) 04:31 t7+sQ4id0 [sage] 
『 甘露 』 

あるお爺さんが、山の畑で作業をしている最中、連れて来ていた孫娘の姿を見失ってしまった。 
背が高く見通しが悪いトウモロコシ畑の中を、大声をあげながら必死で孫を探す祖父。 
ようやく小さな影を見つけて駆け寄ると、孫は知らないおじちゃんに連れていかれそうになったと言う。 
男の特徴を聞くうちに、かすかに覚えのある風貌である事をお爺さんは思い出す。 

──お爺さんの少年時代は戦後間もない頃で、食べる物もろくに無い貧しい暮らしであった。 
そんなある日、少年が空きっ腹をさすりながら畑で草取りをしていたところ、見知らぬ男を目にする。 
男は鍔(つば)の広い大きな麦藁帽子を深々と被って、つぎはぎだらけのボロを纏っており、 
畑の脇にどかりと腰掛けると、クチャクチャと何かを食べ始めた。 

どこかの浮浪者が流れて来たのかと思って少年は身構えたが、男は口元に笑みを浮かべて 
「喰うか?」と、黒い菓子のようなものを目の前に差し出した。 
腹を空かせた少年が傍へ寄ると、男は手にしたものをスッと後ろへ下げ、ニヤニヤ笑いながらこう言い放つ。 
「タダじゃ、やらん。お前の大切な物と取り替えっこだ」 

少年は交換する物など持っていなかったが、美味そうな菓子を目前にして、つい首を縦に振ってしまう。 
少年が男の横へ座り菓子を頬張ると、濃厚な甘味が口の中にわっと拡がり、畑仕事の疲れを一気に癒す。 
礼を言おうと横を見ると、男は既にどこかへ去っており、少年は畑の脇でひとり甘味を噛みしめていた── 

それから数十年。男との約束の事などすっかり忘れていた「少年」は、 
今回の事件で、菓子と交換する大切な物というのが可愛い孫娘である事を悟り、肝を冷やした。 

明くる日、お爺さんは秘蔵の酒を持って畑に足を運んだ。洋行帰りの息子から貰った高価なものである。 
「これでカンベンしてしてくだせぇや」 
お爺さんは酒瓶の口を開けて、名残惜しみつつ畑の脇にすべて注いだ。 
その酒の匂いは、どことなくあの黒い菓子に似た甘露な香りであったという。 

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