記憶

記憶292 :全裸隊 ◆CH99uyNUDE :2007/02/25(日) 08:21:47 ID:NoygMzvA0
穂高の稜線から少し下がったところで小休止。 
その男は、プラスティックの容器を取り出す。 
「どうすか」と手渡された容器の中は、薄切りされた 
レモンの蜂蜜漬けだ。 
「お前、いい嫁さんになれるぞ」 
そんな風に言いながら、パーティ全員が順繰りに甘くなったレモンを味わった。 

別の山での夕食。 
ウィンナーを入れたスパゲティに、そいつは顔色を変えた。 
「俺、ウィンナーは駄目なんすよ」 
「タバスコかけりゃ平気だよ」 
乱暴な話だが、当時、山での俺達は、何にでもタバスコをかけて食っていた。 
少し臭いの出始めた食料も、タバスコで食っていた。 
第一、好き嫌いとは別に、その日の食事はそれしかなかった。 
食えないものがあれば、食料係を自分ですればいい。 
それが俺たちの考え方だった。 
そいつはスパゲティと一緒にウィンナーを頬張り、喉を通らず、 
胃液もろとも吐き出していた。 

その男のことを覚えているのは、俺だけだ。 
他の誰も、彼を知らない。 
山行中のスナップ写真にも彼の姿はない。 
だが、高校時代の山の記憶に、彼は登場するのだ。 

「あいつ、穂高でレモンの蜂蜜漬け持ってきたろう」 
「あれって、お前が持ってきたんだろ」 
荷物が重いのが、山で何より嫌いだった俺が、余計なものを持ち込むわけがない。 
当時、わずかでも荷物を軽くしようと俺は必死だったのだ。 

下山中に足を踏み外し、棘だらけの茂みに突っ込んだり、丹沢湖の沢で宙吊りになり、衝撃で骨折したそいつを皆で担いで降りたこともあった。 
「それって、こいつじゃなかったっけ?」 
指差された男は、その沢登りには参加していなかったし、 
山で骨折したことはないと応じた。 
茂みには、全員が突っ込んだ経験があった。 

10リットルも水が入るポリタンクをひっくり返したこと。 
カラビナに細引きを掛け損ない、死にかけたこと。 
そいつの登山靴は、ミンクオイルを大量に塗り過ぎたせいで妙にてらてら光っていた。 
米の中に固形燃料が紛れ込み、そのまま炊いてしまったこと。 
俺にとって、それら全てが彼の思い出だった。 

そうした思い出の全てに、それぞれ別の名前が挙がった。 
ただ、その場に居合わせた者の名前が出たときだけ、それは自分ではないと、否定された。 
固形燃料の一件は、俺だったと全員から言われた。 
全ては高校時代のことだ。 

そいつの名前は覚えていた。 
俺だけが覚えていた。 
山岳部のOB会名簿を開いたが、その名前はない。

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