サネモリ嬢

816 :虚の中の男 ◆AFcPKj5UhQ :2007/01/20(土) 04:23:42 ID:9lRe1S110
『 サネモリ嬢 』 


虫送りという農耕儀礼がある。古の伝説にちなんだ「実盛様」と呼ばれる藁人形に 
害虫や災厄を引き寄せて、それを川に流し、稲が無事に実る事を祈願する行事だ。 

H氏がある山村に立ち寄った時、その行事と似たような事をやっている人物を見かけた。 
整然と組んだ石垣が目を見張る棚田を写真に収めようと、畦道を歩いていると、 
棒の先に付けた人形を手に、ジャージを着た坊主頭の青年が不揃いな足取りでこちらへ歩いて来る。 
近づいてくるに従って、青年が手にした人形は、安物の大人の玩具らしき物である事が分かった。 
お世辞にも見目麗しいとは言い難い貴婦人が、乱れた髪を風になびかせ、大きく口を開け、 
空気で膨らんだ豊満な体をこれ見よがしに披露し、ジャージの紳士にエスコートされていた。 

その異様な情景に、思わずカメラを向けそうになったH氏だったが、 
青年の焦点の定まらぬ目を見て、刺激してはまずいと思い直し、狭い畦の隅に身を寄せ道を開けた。 
坊主の青年はよたよたと歩きながら、何かぶつぶつと呟いている。 
その鬼気迫る表情に、H氏は擦れ違い様、目を伏せた。目を合わせるのは危険だと感じた。 
すると青年はその気遣いを無にするかのように、H氏の顔を下からゆらりと覗き上げた。

突如、青年は細い目をカッと見開き、唾を飛ばしながら、この地の方言で何やらまくし立てた。 
それはあまりにも古い言葉で、どもりもあったせいでよく聞き取れなかったが、 
こちらに対して怒りを向けている事は確かだった。青年はワァワァと甲高い声で喚きながら、 
手にした人形の体をグリグリと押し付けた。しっとりと濡れた髪が頬を撫で、背筋が震える。 
H氏はその勢いに押され、片足を田んぼに踏み入れてしまい、白いスニーカーが茶色に染まった。 

その様子を遠巻きに見ていた地元のお爺さんが駆け寄り、青年をなだめ、家へ戻れと促した。 
お爺さんはH氏に、可哀そうな子だから許してやってくれと言い、事情を説明した。 
青年は元々、心を病んでいたが、何年か前の冷夏で棚田が壊滅的な打撃を受けて以来、 
稲に忍び寄る見えない敵を追い払うため、様々な人形を手にして田を見回るようになったそうだ。 
台風が来た時などは、家族の制止を振り切り、暴風雨の中ひとりで稲を守った事もあったと言う。 

H氏は棚田の隅にある湧き水で足を洗い、よたよたと濡れた重い靴を前に出し山を下りた。 
帰る途中、澄んだ流れの川が見えたので、写真を撮ろうとカメラを向けた。 
すると川上から、見覚えのある貴婦人が頭を岩にぶつけながら流れてくるではないか。 
(あの人形の中には、自分が田に持ち込んだ禍が宿っているのだろうか?) 
H氏はそんな事を思いながら、川下の常世へと旅立つ貴婦人を静かに見送った。 

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