祈り
549 :虚の中の男 ◆AFcPKj5UhQ :2006/12/27(水) 04:33:37 ID:gBugUgei0
『 祈り 』
もう、とっぷりと日が暮れた山中の道を、娘は足早に歩いていた。
親類宅への遣いで隣村まで行ったものの、つい話が弾んでしまい、帰りが遅くなってしまった。
提灯を持たせてもらったので、足元に不自由する事はなかったが、
黒々とした山の夜空が、風に揺れる木々のざわめきが、娘の歩みを一歩、また一歩と速めた。
娘が野原へと続く道に差し掛かった時、奥に煌々と燃え盛る火が見えた。
(狐火……!?)娘の足が止まったが、山火事かも知れぬという思いが、再び足を前に出した。
何よりも、背後に迫る闇が、ここに留まる事も引き返す事も許さなかった。
萱が生い茂る野原。そこには火は無かった。娘は、確かに見えたはずの火が消えた事に
首を傾げるよりも、火事では無かった事に安堵し、その膨らみかけた小さな胸を撫で下ろした。
娘は再び家路に着こうとした。しかし、背後の呻き声がそれを制した。
娘が振り返ると、地べたを転げ回る灼熱の炎。声は、その炎の中から捻り出されていた。
転げる炎の輪の中心から、黒焦げの人影が何やら必死で訴える。辺りには辛い煙の臭いが漂う。
娘は呆然として煉獄の炎に身を焦がしていたが、影が炎の中から炭のような手を伸ばした瞬間、
その熱さでハッと我を取り戻し、必死の思いで家へと逃げ帰った。
「お前も見たのか。」徳利を傾けながら娘の話を耳にしていた父は、そう言って口を開いた。
なんでも父も、子供の時に転げ回る火を目にした事があるという。
「多分あれは、ここで処刑された人の無念の姿なのだろう。」父は手にした杯を置き、話を続ける。
かつてこの地には、南蛮より伝わった教えにその身を捧げ、心を委ねた人たちがいた。
時の為政者はそれを厳しく禁じた。多くの者が教えを棄てたが、
中には、その身と心を異国の神に預けたまま、処刑されてしまった人たちもいた。
その方法は、縄で体を縛り、蓑(みの)を着せ、そこに火をつけて焼き殺すという残忍なものだった。
激しく燃え盛る蓑が地面を右へ左へと転げ回り、阿鼻叫喚の地獄絵図のようであった、と今に伝える。
「処刑された人は、神の国へも地獄へも行けず、今もこの現世に囚われているのかも知れん…」
そう言って娘の父は、杯の酒をくいっと飲み干した。
翌日、娘は再び野原へと赴いた。そして、水と花を添え、慣れぬ作法で祈りを捧げた。
娘の鎮魂の祈りは、今も続いている。
ある年老いた女が、この山に花を手向けているのは、そうした理由からだった。