観月会

613 名前: N.W ◆0r0atwEaSo 2005/09/20(火) 03:33:17 ID:zCAaZDy80
今年も、高野山から観月会の誘いが届いた。 
添えられた便りには『今年は静かです』と記されていた。 
「ああ、もう1年か。早いな…」 
俺は去年の事を思い出した。 
──それは、ちょうど9月の半ば過ぎの事だった。 
観月会の誘いが俺の許に届いた。 
こんな風流な事をするヤツは誰か、と思ったら、高2の時の同級生の白井だった。 
寺の息子でもないのに、今は出家して和歌山県の高野山にいるとの事。 
他にヤツが誘ったのは、あの頃山岳部で同期だった伊藤・梶・島田・星野・藤田・中井。 
彼岸は、寺が忙しいのじゃないかと心配したが、本人は新米なので留守番なのだと言う。 
何年ぶりかの同期会の意味も込めて、俺たちは白井の誘いを受けた。 

高野山はずいぶん開けているとは言え、やはり霊場特有の空気を持っている。 
奥へ入れば入るほどその気配は濃厚になるし、参道から1本裏へ回れば、その先は物の怪 
どもが跋扈していてもおかしくないぐらい、うっそりとした木々が立ち並んでいる。 
街中ではまだ日中残暑に喘ぐ事もあるが、ここではもうすっかり秋の気配が漂っていて、 
空気は冷たく、当たり前のように虫が鳴いている。月が変われば紅葉が始まるだろう。 
白井のいる寺は、宿坊などのある辺りから少し外れた、静かな所にあった。 
俺たちが訪ねて行くと、灰色の作務衣に身を包み、落ち着いた雰囲気の白井が出迎えて 
くれた。昔の何事に付け自信無さげだった面影は全然ない。 
奥の小部屋へ通されるなり、白井の整えてくれたものと、こっちが持ち込んだもので、 
さっそく宴が始まる。 
10年は決して短かくない。俺たちはそれなりに隔たっていたはずなのに、こうして顔を 
合わせれば、時間は一挙に17歳だった頃に遡り、そこから各自の人生をなぞり始める。 
仲間とは、なんと不思議なものか。 
裏庭に面した縁側の障子を開け放っているから、山の肌寒いほどの風が入ってくるが、 
それも今の俺たちには心地良い。 

そっちで煙草を吸おうと立ち上がったら、梶も同じ事を考えたらしい。 
「何だよ、おまえら。また連れ煙草か?」 
「あー、変わんねぇな。ハシ先輩や石田先輩に見つかって、怒られてたもんな」 
「うっせえよ」仲間たちに冷やかされながら、縁側に腰掛けた。 
玲瓏の月、と呼べるのはやはり冬の月だろうし、望月には少し間がある。 
それでも、調和の取れた虫の音を聞きながら、黒々とした陰を落とす木々の上、濃紺に 
銀粒を散らした天空に輝く艶めいた月を眺められるのは、山の上ならではの事。 
煙草をくゆらせながら月に見とれていたら、何処からか、男性の声で歌のようなものが 
聞こえて来た。 
…あーー~~ーーぁあー~ー~…… 
初めは謡曲かと思ったが、どうやら仏を讃誦する声明らしい。 
おかしな事に、虫の声が少しずつ消えて行き、終いには全く聞こえなくなってしまった。 
その異様さは部屋の中にいた連中にもわかったらしい。たちまちテンションが落ち、 
話し声も自然と声を潜めたものになる。「なんだよ、アレ…」 
「わからない」白井が顔を曇らせる。「この間から毎日30分ぐらい、聞こえるんだ。」 
声の主は、喉を使い慣れた者、読経などの独特な発声に慣れ親しんだ者のようだった。 
高く低く、時に揺れながら、一心にただ一心に仏を賛美し、詠嘆する思いが伝わってくる。 
…あ~~~~~ぁあ、あーーーぁ~~あ…… 
しばらく押し黙ったまま、俺たちはそれを聴いていたが、梶がその沈黙を破った。 
「可哀想だな…」 
みんな思わず梶を見た。 
どう言う事だよ?言葉には出さなかったが、みんなの気持ちが伝わったようだ。 
灰皿で煙草を消しながら、静かに梶が言う。 
「だってさ、このオッサンが生きてて歌の練習してるだけならいいけど、死んでるのに 
まぁだこんなモン歌ってるんなら、迷ってあの世に行ってねぇって事だろうが」 
ふっ…声明が止んだ。余韻も何もない。と胸を突かれた、そんな風な切れ方。 


「図星だったかな…」一人で2升空けたヤツとは到底思えない、梶の冷静な声。 
辺りにはただ少し、木の葉が風にざわめく音があるのみ。 
梶が裸足で庭にすっくと降り立った。 
そうしてひとつ大きく息をすると、腹にびしっと響く声で呼ばわった。 
「おい、オッサン!一生懸命生きたんなら、今度は一生懸命死ね!こんなとこで彷徨って 
あーあー詠ってたって、道は開けねぇぞ!」 
……… 
数秒間の静寂。 
それから、突如、ケダモノが致命傷を負ったかのような喚き声が上がる。 
…おうっ おぁああああっ!! 
その何かは、山の下草をざわつかせながら、やがて遠くへと去って行った。 
珍しく長セリフを吐いた梶は、もういつもの清まし顔で再び縁側に腰を降ろし、次の煙草に 
火を点けている。 
しばらくして、虫が、何事もなかったかのように、また鳴き始めた。 
「…梶、おまえ一体何に引導渡したんだ?」恐る恐る尋ねると、 
「知らん」至極あっさりした返答だった。 

それから2・3日して、白井から便りが届いた。 
『あの夜以来、もう声明は聞こえません。誰がどうして詠っていたのかわかりませんが、 
人の本気は魂を打つのだと教えられました。仏は普遍在と実感した次第です…(略)… 
今後も一層修行に励むつもりです。合唱』 
手紙はそう締めくくられていた。 
あれも一期一会の縁と言うものなのだろうか。夜空の満月を眺めながら、そんな風に 
考えた。 

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