お下がり

418 名前: N.W ◆0r0atwEaSo 2005/09/07(水) 20:33:55 ID:nNmq5L/G0
木曜日、友人から電話があった。 
「ねえ、伏見稲荷って行った事ある?」 
快活な彼女らしくない、沈んだ小さな声だった。 
「ええ?何いきなり?」 
聞けば、1ヶ月前手術を受けた母親の回復が、余り思わしくないのだと言う。 
どうして伏見稲荷なのか聞いてみると、雑誌に出てた写真に強く惹かれたのだと 
彼女は言った。それまで、他人が勧めてくれた所は全部胡散臭く思えたのに、 
何故かここなら大丈夫だと思えたらしい。 
普段、非科学的な事はすっぱり切り捨てるひとなのに、よっぽど参っているのか 
と思い、日曜日に会う約束をして受話器を置いた。 

京都・伏見稲荷大社は、東山三十六峰の最も南に位置する、古い神奈備山の麓にある。 
本殿の裏は標高233メートルの稲荷山で、まだ夏の濃い緑色を残した山中に、1万 
余基の朱塗の鳥居が連なって道を成す様は、ちょっと余所ではお目にかかれない。 
「あっちね」人の流れに沿って、彼女は右側の千本鳥居の方へ行こうとする。 
「こっちだよ」と左側を差すと、少し不審気な顔をし「何故?」と聞く。 
「何でもない時なら左右どっちからでも構わないけど、今日みたいに再生・復活の 
願いを込めてお参りする時は、左側から時計回りに行かないとね。お百度も同じ」 
途切れない程度に人が続く細い坂道を、彼女の手を引きながら登って行く。 
この御山の特徴はもう一つ。神々の降臨跡に設けられた正規の御社の周囲に、御塚と 
呼ばれる、人々が願いを込めたMy御社がぎっしりと建てられている事だ。 
ここには願いの数だけ御社があり、神々がいる。 
俺にとっては何ともない事だが、そう言った数多くの社の存在と、願い事が叶った 
お礼に奉納される朱塗の30センチ程のミニチュア鳥居がうずたかく積まれている 
光景は、彼女にとっては一種カルチャーショックだったようで、顔を強張らせたまま、 
しばらく口を利かなくなってしまった。 

稲荷山は3つの峰を持っている。 
その最初の峰への道の中程に、俺たちが目指す薬力社があった。薬力さんはその名の 
通り、薬石の効力を高め、疾病に悩む人々を救うとされているお稲荷さんだ。 
お賽銭を上げ、両手を合わせて祈る。 
ふと、何か見られているようで、気になってそちらへ顔を向けてみた。 
まだ真剣に祈り続けている彼女の向こう、御塚の古びた石の台に山と積まれた朱塗の 
ミニ鳥居の上に、白銀色にお日様の金色を少し混ぜたような、輝く毛並みの小さな狐が 
ちょこんと座ってこっちを見ていた。大きさは生まれたての仔狐程だが、その思慮深げな 
顔付が自ずと歳経たものだと語っている。なぜだか、白檀のようないい香りがした。 
あんまり不思議で美しい狐だったので、目が離せなくなった。 
そんな俺の傍らを、参詣の人たちが気にも留めずに通り過ぎて行く。 
何秒くらいの事だったか。 
瞬間、それがにこっと笑ってうなづいたような気がしたので、慌てて目礼する。 
「どうしたの?」傍らで不思議そうな彼女の声がした。 
目を開けると、狐は当然もういない。 
「いや…」もう一度お賽銭を上げ、ポケットの中のチョコレートを供えた。 
代わりに、先に供えられていたキャンディーをひとつ貰って彼女に渡す。 
「え、良いの?」彼女は戸惑っていたが、 
「お下がりだよ」そう言うと、頷いてバッグにそれをしまった。 

水曜日、また彼女から電話があった。母親が快方に向かっていると言う。 
「退院したらお礼参りに行くつもり。また一緒に行ってね」 
先日とは打って変わった弾んだ声だった。 
あの小さな狐が薬力さんだったのか、その御眷属だったのか、俺には全くわからない。 
でも、あの優しい微笑はこの事を示していてくれたような気がする。 
妙なものに出会うのも、たまにはいいもんだと思った。 

前の話へ

次の話へ